■はじめに
イエスは十字架刑で死んでから三日目によみがえり使徒たちに現れ、そして使徒たちの目の前で天に戻って行きました。その後、11人の使徒たちはイスカリオテのユダに代わる使徒を選びました。その際、彼らは使徒としてこのような条件を定めています。「ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。(使徒1:22)」彼らは福音すなわち「イエスが滅びからの救い主」をこれから伝えてゆきます。ただそのためには「イエスが神の子救い主である」という確かな証拠がなければ、福音は信頼されません。それで、使徒の条件として復活の証人が大事なのです。私たちの信仰もこれと同じで、信じていることがらが誤りなく、かつ変わらないからこそ信仰を保つことができます。今日は、この世の中にあって揺るぎない信仰を保つための方法を聖書に聞きましょう。
■本論
Ⅰ.神のことばに頼ることが揺るぎない信仰につながる(2:13-15)
テサロニケの教会には主の日のうわさに動揺し、落ち着きを失くしている信者がいました。それでパウロは主の日の前兆について、特に不法の者のことを詳しく教えました。さらに、不法の者もそれに頼る者も主の日に滅びると語りました。その上でパウロは、テサロニケの信者が滅ぶ者とは全く違うことを明らかにします。それが彼らの安心となるからです。
13節「しかし、主に愛されている兄弟たち」とあるように、パウロはテサロニケの信者が「惑わす力を送られている者」ではないことをまず明らかにします。それゆえ、彼らをそのようにしてくださっている神に感謝せずにいられません。パウロはテサロニケの信者が神に愛されている理由を「初穂として救いに選ばれたから(13節)」と言います。「初穂として」というのは、神があらかじめ救いに選んでいたことを意味します。ちょうど麦の穂のように、たくさんの人が誕生する中で「あなたがただけを刈り取るつもりだった」というイメージです。
そして「初穂として救いに選んだ」証拠を「御霊による聖別と、真理に対する信仰(13節)」とパウロは言います。「御霊による聖別」とは神が聖霊を通してその人を神の所属に招き入れたことです。これは私たち人は知り得ません。けれども、「御霊にって聖別されたこと」が人に変化をもたらします。それが「真理に対する信仰」です。真理とは一言で言うと「イエスが滅びからの救い主」となります。それまで、イエスという人物を知っていたとしても「救い主」と信じていなかったのに、「御霊によって聖別」されると「イエスは私の救い主」と信じ告白できるのです。まさに、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできないのです(Ⅰコリント12:3)。
ここでパウロは、神が初穂として救いに選んだ目的を語ります(14節)。人は福音を聞くことでイエスによる救いを知り、さらに聖霊の働きによって信仰に至ります。この信仰によって人は永遠の滅びから天の御国に召し出されます。そして天の御国でイエスの受けた栄光、すなわち神の子として神の完全な喜びと平安を受け取ります。違う言い方をするならば、最初の人が持っていた神との良い関係を取り戻すのです。しかも、人の方から関係を壊したのに、神がイエスという関係回復の道を備え、聖霊によって信仰を与え、その道に入らせてくださいました。だからパウロは「主に愛されている兄弟たち」と信者を呼ぶのです。
続けてパウロは「主に愛されている兄弟たち」がすべきことを命じます(15節)。パウロは「あなた方はすでに救いに選ばれたのだから」という意味で「ですから」とつなぎ、その上で、まず「堅く立ちなさい」と命じます。「堅く立つ」とは主の日のうわさを耳にしても、あるいは不法の者が君臨したとしても「イエスを信じる信仰を揺るがせない」様を言います。今、テサロニケの信者は主の日のうわさによって動揺しています。そんな彼らに「あなた方は滅びのグループではなく、主の栄光を受け取るグループに神がすでに入れた。だから信仰を保ちなさい。」とパウロは命じるのです。
なすべきことのもう一つは「語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。」です。「語ったことばであれ手紙であれ」は直接的にはパウロたちが教えたことを指しますが、広い意味では「信仰に関わる教えのすべて」となります。「信仰に堅く立つ」ためには「救いに関わることがら」がすべて誤りなく、永遠に変わらないという確かな証拠が必要です。だから、学んだ教えをしっかり握り、信仰が揺らいだ時に、その教えから「神に選ばれてすでに救われていること」を確かめるのです。
私たちは「聖霊を通して神が助けていること。主の日に神の栄光を受け取れること」これを信じて地上の生活を送っています。もし、信じていることが嘘だったり、変更があり得るものだったら、信仰は生きる力にならないばかりか信じていることが愚かになります。けれども神のことばである聖書が「私たちの信じていることがらが誤りなく永遠に変わらないことを」証明しています。それゆえ、私たちは「神にとって自分は何者であるのか」を聖書によって確かめ、信仰を保てるのです。
Ⅱ.神はイエスによって永遠の慰めとすばらしい希望を私たちに与え、信仰を強めてくださる(2:16-17)
ここでパウロはテサロニケの信者のために祈ります(16-17節)。この祈りは15節「堅く立って、学んだ教えをしっかり守る」のための祈りです。第一および第二の手紙を見ると、パウロはテサロニケの信仰を神に感謝しています。つまり、どのような中でも信仰を保つためにはその人の意志と神の働きの両方が必要なのです。
パウロは主イエス・キリストと父なる神を「私たちを愛した方」と言います。なぜなら、神は私たちに恵をくださるからです。恵とは、本来神の良いものを受け取れる資格のない者に、神が与えるよいものを言います。神は信者を愛するがゆえに、恵すなわち聖霊を通して主の日に至るまで途切れなく慰めを与えてくださり、主の日の栄光というすばらしい希望を与えてくださっています。
この神の愛に基づいてパウロは2つのことを願っています。一つ目の「心を慰める」は気落ちした信者を元気づける神の働きです。落ち込んでいる人を近くに呼んで、なだめるような神のわざです。二つ目の「強める」は錨で船をしっかり固定するように、何があっても信仰を揺るがないようにさせる神の働きです。旧約聖書で言うところの「強くあれ。雄々しくあれ。」の様です。この二つによって信者は良いわざとことば、すなわち神のみこころにかなったふるまいができます。「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。(ヤコブ2:17)」とヤコブが言ったように、良いわざとことばが「信仰に堅く立っている証拠」になるのです。見方を変えれば、その人が信仰に堅く立っているかどうかは「行いとことば」から分かるのです。
私たちが生きている社会では、心を満たし、安心させ、喜びを与えるものにあふれています。いわばイエス以外に頼りたくなるものにあふれているのです。また、キリスト教会がイエスによる救いを否定する反キリストに次々と翻ったり、自らを神とする不法の者がサタンの働きで全世界を支配したりすると、「イエスによる救いは本当なのだろうか」といった思いが生まれてきます。そのようなときに私たちは信仰を揺るがないようにしなければなりません。そしてそのために私たちは聖書によって信じていることがらを確かめ、同時に聖霊を通して神の力が働くように祈るのです。
■おわりに
パウロはイエスを救い主と信じる私たちを「主に愛されている兄弟たち」と呼んでいます。また、「神は愛なり」ということばを教会ではよく耳にします。けれども、辛い出来事が重なったり、長く続いたりすると「本当に神は私を愛しているのだろうか」と疑いが出てくるものです。特に激しい迫害を受けたり、教会内で大きな争いがあったりすると「神の愛」を疑ってしまいます。
そんなとき私たちは、神がどれほど愛してくださっているのかを聖書で確かめるのです。私たちが受けるべき神の怒りをイエスは確かに受けてくださいました。それが十字架刑での死です。また、死からよみがえったイエスによって、私たちも確かに死からよみがえります。さらに、よみがえったイエスが天に戻ることを通して、私たちも確かに天の御国に入れます。それに加えて、使徒たちの生き様を通して、イエスを信じる者に確かに聖霊が働いています。聖書と聖霊を通した私たちの経験が信仰を揺るぎないものとするのです。
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