■はじめに
近頃は多くの車にカーナビが付いているので、知らない場所に行くときにはナビを頼りにします。私たちがカーナビやスマホのマップ情報を頼りにするのは、それが現在位置を正確に把握し、正しいルートを指示できるからです。もし、現在位置が大きくずれていたり、川の中を走るように指示されたら、絶対に使わないでしょう。私たちが聖書を通して神のみこころに従うのもそれと同じで、神が完全に正しく、100%頼れるお方と確信しているからです。今日は、「真実な主に何を求めるのか」について、みことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.パウロは自分たちの活動が守られて、福音が受け入れられるように祈りを依頼した(3:1-2)
パウロは今回の手紙で最も教えたかったことを書きました。それは、「主の日のうわさを聞いても落ち着くように」そして「主の日が来てもテサロニケの信者は救いに選ばれている」ということです。それでここから手紙の締めくくりに入ります。
1-2節から明らかなように、パウロは福音を伝える活動について祈るように、テサロニケの信者に求めています。パウロたちは自らの使命を自覚しているため、彼らにとって大切なのは金銭や地位のような自分たちの利益ではなく、福音宣教の行方なのです。ここでパウロはテサロニケの信者に3つの祈りを願いました。
①主のことばが速やかに広まる(1節):「主のことば」は信仰に関わることがらのすべてを言いますが、一言で言えば福音、すなわち「イエスが救い主であること」となるでしょう。パウロは、福音があたかも走るごとく現地の人々に伝わるように願っています。というのも、パウロは主の日が突然やって来ること、しかも主の日は近いと信じているからです。主の日が来てしまってからでは福音を聞いても手遅れだからです。それで、駆け抜けるごとく伝わるように願っているのです。
②主のことばが尊ばれる(1節):福音が速やかに広がったとしても、聞き入れてもらえなければ意味はありません。「あなたがたのところと同じように」とあるように、パウロにとって「主のことばを尊ぶ」とは、テサロニケにおける福音の受け取り方なのです。このことをパウロは第一の手紙でこう書いています。「あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。(Ⅰテサロニケ2:13)」つまり、福音が神のことばとして受け入れられるようにパウロは願っているのです。
③活動が守られる(2節):「ひねくれた悪人」には2種類の人が含まれています。一つは「道徳的に邪悪な者」すなわち一般的に「悪人」と呼ばれる人です。もう一つは「やっかいな者」すなわち福音を語る者にとって心身の苦しみとなる者です。おそらく福音に敵対するユダヤ人や無関心な異邦人を指していると思われます。「すべての人に信仰があるわけではないからです。」とあるように、「ユダヤ人イエスが神の子であり、滅びからの救い主である」という福音は、すべての人に良い知らせとはなりません。例えば、地元の神で生計を立てている者にとっては商売の邪魔になります(使徒19章)。あるいは、ユダヤ教をはじめとする様々な宗教指導者からすれば、イエスが尊ばれますから自分たちの権威が損なわれます。それゆえ、福音を伝える活動には命の危険が伴うから、パウロは危険から救い出されるように願っているのです。
手紙の読者であるテサロニケの信者はイエスを信じて間もない者たちです。一方、著者のパウロは使徒であり偉大な信者です。信仰に関わる知識も知恵も経験も、読者よりはるかに上です。けれども、パウロは福音を伝える活動について、テサロニケの信者に祈りを求めました。つまり、福音を伝えたり、信仰を証しするためには、神の働きが必要なのです。「私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。(Ⅰテサロニケ1:5)」とパウロが言うように、神が働てくださるという確信を持ちながら、聖霊を通した神の力があってこそ、神のことばが人々の心に届きました。だから祈るのです。
Ⅱ.主は真実なお方だから、救われた者に神の愛とキリストの忍耐とを与えてくださる(3:3-5)
パウロは祈りのお願いから、再びテサロニケの信者に話題を移します。1-2節からすれば、3節のことばは自分たちに適用しても違和感はありません。けれども、このことばをテサロニケの信者に贈っているところがパウロの心遣いなのです。
パウロは「しかし、主は真実な方です。」と言います。直前に「すべての人に信仰があるわけではないからです。」と語ったように、すべての人が真実すなわち信頼できるとは限りません。あるいは、同じ人でも信頼に値しないときがあります。しかし、主なる神そして主イエス・キリストは完全に信頼できるお方です。なぜなら、イエスのことば通り、「十字架とよみがえり、昇天」を通して、信じる者を永遠の滅びから永遠のいのちに救ってくださったからです。それに加えて、「いつもともにいる」という約束を守っているからです。
ですからパウロは、真実な主が信仰を堅くしてくださり、信仰から引き離そうとする悪から守ってくださる、と励ますのです。神は信仰によって救われて神の家族となった者を見放さず、見捨てません。このことはイスラエルの歴史から明らかですが、それ以上にパウロ自身が経験しています。だからパウロは「あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださる」と言い切れるのです。
そして「主は真実な方」ゆえに、パウロはこう言います(4節)。パウロは「主が働いてくださっている」という土台に立って、テサロニケの信者に対して二つの確信を持っています。一つは「私たちが命じることを、あなたがたは実行している」ことです。これはテモテの報告から判断していますが、実行できていることが真実な神の働きによる、とパウロは受け取っているのです。
パウロは前の手紙で、「主の日に責められるところのない者となるように」命じています。ただし、テサロニケの信者はイエスを否定するユダヤ人から迫害を受け続けています。しかも、偉大な指導者であるパウロはいません。イエスを信じるがゆえの迫害に耐えきれず、信仰から逸れてもおかしくはありません。あるいは、「イエスを信じて何になるのか」という疑いから信仰が弱まってもおかしくはありません。けれども、彼らはパウロが命じたことを行い続けているのです。これこそ、「真実な主が信仰を強くし、悪い者から守っている」証拠です。それゆえ、パウロは「これからも実行してくれると」という、もう一つの確信を持っているのです。
その上でパウロは真実な神に対してテサロニケの信者のことを祈ります(5節)。「主は真実な方だから必ず私に働いてくださる。だから祈らなくも大丈夫。」というのは信者としてふさわしい生き方ではありません。イエスがことあるごとに父なる神に祈っていたように、信者も口に出して祈ることを神は求めています。パウロは神が人の心を2つのことに行かせるように祈っています。
①神の愛:神が人を愛するように、たとえ敵対する者や反抗する者であっても大切にする
②キリストの忍耐:キリストがどんな抵抗にあってもそれを辛抱して神を信頼したように、どんな中にあっても辛抱して信仰を保つ
パウロのことばを守り「主の日に責められるところのない者となる」ためには、神の愛とキリストの忍耐が必要です。ただし、人の力ではこの二つを高めるどころか保持すらできません。私たちは神やキリストから引き離す力に決して強くないからです。もし、何があっても絶対に揺るがない信仰であるならば、パウロが手紙を書く必要もないし、聖霊の助けもいらいないし、イエスがともにいなくてもいいのです。私たちが主の日というゴールに向けて、イエスに似た者となるためには、神の力がなくてはなりません。
■おわりに
使徒ペテロはゲツセマネの園でイエスが逮捕されたとき、自分が捕まるのを恐れて「イエスの仲間であること」を3度否定しました。けれども、聖霊が下ったのちは、「イエスが救い主であること」をエルサレムで大胆に語りました(使徒の働き2章)。また、パウロは「自分の活動を通して神が働いた」と証ししました(使徒の働き14:27)。
私たちは自分の意志で罪から離れ、信仰を保とうとします。あるいは、自分の意志で信仰のことを証したり、福音を口にします。そんな時、私たちは結果を恐れたり、自分の弱さを嘆いたりします。しかし、私たちにとって最も大事なのは「真実な主が私たちに働いてくださる」という確信です。現実をわきまえながらも、主なる神の働きを求めることが健全な歩みなのです。
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