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12月8日「主の平安の中で主に従う」(テサロニケ人への手紙 第二 3章6-18節) 

  • 木村太
  • 2024年12月8日
  • 読了時間: 8分

■はじめに

 教会には、信者がイエスに似た者となるように信仰を成長させ揺るぎないものとする、という役割があります。そのため、聖書に基づいてあるべき姿を教え、正しい方向に導きます。ただし、信者はイエスによって罪を赦されたとはいえ、いまだ罪があり、神のことばに完全に従えない性質もあります。それゆえ、教えや導きに加えて矯正や戒めが必要となります。今日は、信仰を整えるために教会は何をするのか、ということを聖書に聞きます。

 

■本論

Ⅰ.パウロは人の善意を当てにせず、自らの働きで生きる糧を得るように命じた(3:6-13)

 パウロは「最後に兄弟たち」ということばから祈りとあいさつによって手紙を締めくくろうとしますが、ここで新しい話題に移ります。なぜこんなことになるのかというと、当時の手紙はほとんどが口述筆記のため、頭で全体の構成を考えてはいるものの、思い浮かんだことをそのまま筆記者に書かせるからです。「私パウロが自分の手であいさつを記します。これは、私のどの手紙にもあるしるしです。(17節)」とあるように、この手紙でも最後の挨拶だけパウロは自分の手で書いて、この手紙がパウロのものであることを証明しています。

 

 さて、パウロは思い出したかのようにテサロニケの信者の様子について語ります。パウロは「怠惰/労働と生計」について「厳しく命じる」ということばを用いています(6節,12節)。その上、「主イエス・キリストの名によって(6節)/主イエス・キリストによって(12節)」のように、イエスの権威において命じています。ですから、信者として必ず従わなければならないことがらなのです。

 

 パウロは「自分たちの教えに従わず怠惰な歩みをしている者」とは例外なく避けなさい、と命じています(6節)。「避けなさい」は相手から自分を手繰り寄せるイメージで、完全に交際を断つという厳しいものです。後ほど説明しますが、彼らが悔い改めるためにパウロはこの措置を命じました。

 

 手紙の前半で扱っているように、テサロニケの教会には主の日のうわさが広まっていました。それで、主の日が間近だからという理由で日々の働きを放棄している信者がいたのです。さらに彼らの中には見返りを期待しておせっかいを焼いている者もいました。パウロはテサロニケにいるときに、信者としてふさわしい生き方を手本として見せたにもかかわらず、このような信者がいたので厳しく命じたのです(7節)。

 

 ここでパウロは「怠惰な歩み」について言います。「人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。(8節)」とパウロが振り返るように、パウロたちは施しを断り、自分たちの働きで生活し活動しました。ここでの働きは福音を伝えるとか信仰を指導するといった活動ではなく、信者が携わっているような職業を指しています。これはテサロニケの人々に生活支援という負担を負わせず、彼らが福音を聞くことに集中して欲しいからです。

 

 ただし、「私たちに権利がなかったからではなく(9節)」とあるように、「福音を伝える/信者を整える」といった労働に対して、「金銭や物品」といった報酬を受け取るのは正しいことであり、パウロたちはその権利がありました。しかし、その権利を使わなかったのは「世の中の人と同じように、労働によって生計を立てる」という生き方をテサロニケの信者に見せるためでした。違う見方をするなら、「福音や信仰に関わる働きをすれば、感謝としての見返りがある」という考えを持って欲しくなかったからです。つまり、怠惰な歩みとは、人の善意による見返りを期待した生き方なのです。

 

 それでパウロは10節のように「働きたくない者は食べるな」すなわち「労働の報酬で生きろ」とかねてより命じていました。けれども、テサロニケの教会には「何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たち」がいました(11節)。彼らは他の人のことがらに首を突っ込み、それの見返りを期待しているのです。「何かやってあげたら、お礼をするのはクリスチャンとして当たり前」という誤った認識に立っていると言えます。それゆえパウロは彼らに「落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。(12節)」と厳しく命じるのです。神は天地万物を造ったあと、神はこのことをしました。「神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。(創世記2:15)」ですから働きによって生きるというのは神のみこころなのです。

 

 その一方でパウロは「兄弟たち、あなたがたは、たゆまず良い働きをしなさい。(13節)」を勧めます。「良い働き」とは神から見て良いことであり、具体的には「神を愛し、人を愛するふるまい」となります。これまでの流れからすると唐突な感じを受けますが、パウロには狙いがありました。「労働による報酬で生きろ」とイエスの権威をともなって厳しく命じたので、「善意による援助を求める/援助する」ことを否定していると受け取られてしまうからです。見返りを求める生き方は健全ではありませんが、他者の益のために尽くすというのは健全な歩みなのです。

 

Ⅱ.パウロは従わない者への戒規を命じた一方で、すべての信者のために平安を祈った(3:14-18)

 続けてパウロは命じたことに従わない者たちへの対処を教えます(14-15節)。「この手紙に書いた私たちのことば(14節)」は主の日や怠惰な歩みを含めて、パウロが語ったことすべてを指しています。しかも、「主イエス・キリストによって」とパウロが言っていたように、パウロのことばは個人的なものではなく、神のことばとして語られています。それゆえ、パウロのことばに従わない者は神に従わない者なのです。

 

 パウロはそういう者たちに「注意を払い、交際しないようにしなさい。(14節)」と命じます。「注意を払う」は目印をつけるごとく、従っている者とそうでない者とをより分けて、誰から見ても明らかにする措置です。それによって、交際を避けて彼らの影響を防げます。一方で、目印を付けられた信者は神によって救われたのに、神のことばに従っていない信者という、神に対する恥になります。この恥が彼らを健全な信仰に導くのです。

 

 ただし、「しかし、敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい。(15節)」とパウロは命じます。彼らは「キリストを否定する」敵対者ではありません。ですから神のことばに従えない者を区別しておくのは、教会から排除したり、痛めつけるためではありません。あくまでも、悔い改めを求めるためであり、神の家族としてともに正しい方向に進むようにするためなのです。これが教会における戒規の目的です。

 

 パウロはテサロニケの様子から心に湧き上がったことがらを語り終えて、他の手紙と同じように祝福の祈りをささげます(16,18節)。今、テサロニケの教会はキリストを否定するユダヤ人の迫害を受けています。その上、教会の中では主の日に関わる混乱があります。それでパウロは平安の源である主イエスが平安と恵みを与えて、彼らが落ち着き安心し、主の日の希望をもって歩めるように祈ります。しかも、「どんな時にも/どんな場合にも/あなたがたすべて」とあるように、無条件での平安と恵みを祈っています。「主の日のうわさに落ち着いている者/落ち着いて仕事をしている者/良い働きをしている者」といった条件はないのです。「主の日のうわさで動揺しても/おせっかいばかり焼いていても/良い働きができていなくても」イエスを信じる者に神は平安と恵みを与えてくださいます。これが神のあわれみです。

 

 イエスは、弟子たちの信仰が薄くても彼らを助けました。そして、彼らに助け主を送ること、ご自身がいつもともにいることを約束しました。主は決して見放さず見捨てません。ですから私たちは、人の善意を当てにして生きるのではなく、神を信頼して生きてゆけるのです。

 

■おわりに

 テサロニケの信者はイエスが再び来られる日、すなわち主の日を待ちながら、ユダヤ人の迫害の中で生きています。彼らにとって主の日は迫害からの完全な解放になります。それで、主の日は近いといううわさによって落ち着きを失ったり、心を騒がせる者がいました。また、「この世が終わるのだからあくせく働く必要はない」と考え、怠惰になる者もいました。その様子を知ってパウロは「落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。(3:12)」と厳しく命じました。このことばだけを取り出すと「パウロは冷たい」と思うかもしれません。けれども手紙には彼らを励ますことばがたくさんあります。

 

・あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。(1:4)

・神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。(2:13)

・しかし、主は真実な方です。あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。(3:3)

・どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。(3:16)

 

 パウロは神の真実、そして自分の経験に基づいて彼らを励ましています。ですから、厳しい命令も決して怒りや腹立たしさから出ているのではなく、彼らが自分のように主イエスにある平安を歩んで欲しいからなのです。信仰からずれた人生よりも、主に従った人生の方がはるかによいからです。現代の日本に生きる私たちも、テサロニケの信者と同じように困難や生きにくさに直面します。「信仰があっても希望を失っている/イエスがともにいることがわからない/神への信頼が薄れている」そんなときこそ、この手紙を読み、パウロを通して神から励ましをもらいましょう。

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