■はじめに
私が七飯にいる時、母がこんな事を言いました。「あなたの教会は『福音』が付いているけれども、恵庭の『バプテスト』とか『ルーテル』も同じキリスト教なの?」正直、私も神学校で教派を学ぶまでは分かっていなかったので、世間からすれば色々なキリスト教がある、と見られても不思議ではありません。世界には聖書解釈の違いから、数え切れないほどのキリスト教団体があります。しかし、造り主なる神、救い主なるイエス、助け主なる聖霊、この三位一体の神を信じている点では一致しています。一方、ヨハネが手紙で教えているように「イエスを救い主と告白していない」ものはキリスト教ではありません。今日は、キリストを信じている者たちについて聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.イエスは、世がイエスを信じるために、イエスを信じる者たちが一つになることを父に願った。(17:19-23)
イエスは11弟子のために祈った後、もう一つの願いを父に祈ります。20節「彼らのことばによってわたしを信じる人々のため」とあるように、弟子たちがイエスについて証言することば、いわゆる宣教によってイエスを救い主と信じる者たちのために、父に願いました。当然、その中には私たちも含まれていますし、これから宣教によってイエスを信じる人たちも含まれています。
イエスはご自身を信じる者いわば信者(キリスト者、クリスチャン)が一つになるように願いました(20-21節)。なぜ一つになるのかは、一つになっている姿を通して世の人々がイエスを信じるためです。このことについては後ほど触れます。ここでイエスは「あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように」と、一つになる手本を示しています(21節)。つまり、イエスと信者との関係が父とイエスとの関係のようになるのが、一つになることなのです。解説するとこうなります。
①父がイエスの中にいる→イエスが信者の中にいる
②イエスが父の中にいる→信者がイエスの中にいる
そして、信者はすでにこの関係に入っているのです。22節「あなたが下さった栄光を彼らに与えました。」とはイエスを信じた者に永遠のいのちを与えた事実を指しています。以前、イエスが「わたしは生けるパンであり、これを食べるなら永遠に生きる」と言いました。ですから「わたしは彼らのうちにいて、あなた(父)はわたしのうちにおられます。(23節)」と語るように、信者の中にはイエスと神がおられるのです。パウロによるなら「イエスが私の中に生きている(ガラテヤ2:20)」となります。
一方、信者がイエスの中にいるとはイエスを信じた者たちがイエスにとどまることです。「イエスによって私の罪は赦され、永遠のいのちが与えられた。だから私はイエスとイエスを遣わした神を崇め、従ってゆく」これがイエスの中にいる者、イエスにとどまっている者の姿です。ただし、信者はこの世で生きている限りイエスから引き離す力にさらされています。イエスを信じた故の差別や迫害など心身に苦痛を与える力があります。また、イエス以外に喜びや安心を求めようとする思いが湧きます。イエスが信者の中にいても、外側と内側からイエスにとどまらせない力が働いているのです。
すでにイエスは、弟子たちについて「お守りください。(11,15節)」と願っています。イエスと直に接した弟子たちにさえ願っているのですから、イエスの証言いわば伝聞で信じた者であればなおさらです。だからイエスは「彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。(21節)」と最初に父に願うのです。
「イエスを信じる者たちの中にイエスが生き、一人一人がイエスを崇めて信じ従う」これが一つになっている証しです。団結や絆のように他者への行いが一つにするのではありません。イエスにとどまっている生き方が大事なのです。そこから「イエスがいのちを捧げてまで大切にした人だから私も大切にする」という思いが湧いて、互いに大切にする行いが生まれるのです。
しかも、年齢、性別、職業、国籍、人種といった違いがあってもできるのです。たとえ紛争の敵味方であっても、社会においては相容れない関係であっても、イエスによって互いを大切にできるのです。そして、その姿を世の人々が見てイエスを知ります。地上の世界ではあり得ないことが信者同士で起きているのを見て、イエスとは何者かを知るのです。私たちの教会もイエスによって一つとなっている姿をこの地域に現しています。
Ⅱ.イエスは全ての信者が天の御国という希望を持ち、神の愛の中を生きることを父に願った(17:24-26)
イエスはさらに願います(24節)。イエスはこれから宗教指導者によって逮捕され、十字架にかけられ、よみがえり、弟子たちの前に現れ、そして人々の見ている前で天の父の元に戻ります。ですからイエスはご自身がおられる天の御国での栄光を信者が受け取るように願っています。天の御国での栄光とは黙示録にあるように、完全な平安と喜びと満たしの世界を永遠に生きることです。
すでにイエスは「天に戻るのはイエスを信じる者の住まいを用意するため(14:2)」と弟子たちに語っていますから、天の御国における栄光はすでに確定しています。それでもなお父に願うのは、「天の御国で栄光を受ける」という約束が信者の希望になるからです。「やがて天の御国に入れる」という希望がこの世を生きる中でイエスにとどまり続ける原動力になるのです。違う見方をするならば、イエスを内側に持っていても、この世界においてはイエスにとどまり続けるのは簡単ではないと言えます。
ここでイエスは信者が希望を持つためにご自身が何をなしたのかを語ります(25-26節)。「わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。」とあるように、イエスを信じる者たちはこの世ではなくイエスの所属である、とイエスは父に語ります。「正しい父よ」と訴えかけているように、イエスのこの判断、見定めは正しいのです。
それゆえイエスは「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。」と言います。イエスは正しい者たちに神の御名を知らせました。御名を知らせるとは、驚くべき出来事を通して神の権威を明らかにすることです。「○○によって世界に名を轟かせた」というイメージです。その核心あるいは頂点がイエスによる永遠のいのちです。つまり、神の権威によって永遠のいのちを約束された者は、すでに天の御国という希望も与えられているのです。
その上イエスは「また、これからも知らせます。」と言います。イエスはすでに弟子たちに助け主すなわち聖霊を遣わすと約束しました。ですから、イエスを信じる者の人生に聖霊を通して神が介入してくださるのです。繰り返しになりますが、イエスを信じる者の中にイエスは生きておられます。そして、天の御国という希望さらに聖霊による神の助け、これらによってイエスを信じる者はイエスにとどまり、神の愛を拠り所とするのです。
イエスを信じる者は新しいからだによみがえって天の御国に行けます。このことをイエスは十字架、よみがえり、昇天を通して明らかにしました。この事実によって私たちは天の御国への希望、すなわち永遠の平安への希望を持っています。それに加えて、イエスは父の元から聖霊を遣わして地上での人生を助けてくださいます。だから私たちは何があっても不思議としか言いようのない平安に包まれます。イエスがすでになしたこと、これからなしてくださること、それら一切によって私たちはイエスにとどまり続け、イエスによって一つになれるのです。
■おわりに
永遠のいのちと聖霊による助け、これらはどちらも私たちの功績によるものではありません。功績によるとは「悪を正す/人を助ける」のように良い行いの積み重ねが神の判断基準ではないということです。神は滅び行くしかない私たちをかわいそうに思い、イエスの十字架とよみがえりによってイエスを救い主と信じる者を滅びから救ってくださいました。しかも、信仰を保持できるように聖霊を遣わしてくださいます。私たちの天への希望も地上での平安も何から何まで、神がこの世に遣わしたイエスによるのです。私たちがイエスにとどまれる道を神はすでに備えているのです。
ただし、私たちはイエスにとどまれる道に置かれていますが、自分自身でその道から逸れることもあります。先程申しましたように外側と内側からイエスを引き離す力にさらされているからです。聖書は私たちにこう教えています。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。(ヘブル12:2)」イエスによって救われた喜び、天の御国への希望、聖霊による平安の確信、いつもこのことに心を向ければ、私たちはイエスにとどまり一つになれます。そして、その有様がまさにイエスを伝えているのです。
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