■はじめに
私たちの教会は第1主日礼拝で使徒信条によって私たちが何を信じているのかを公に明らかにしています。では、もし皆さんが「イエスとはどんな人ですか」と聞かれたら、どう答えますか。使徒ペテロは「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。(Ⅰペテロ3:15)」と命じています。「ヘブル人への手紙」はイエスについて詳しく書いていますから、この書によって「だれにでも、いつでも」証言できるようになるでしょう。今日は御子を語る際の核心について見てゆきます。
■本論
Ⅰ.神が旧約の時代に語ったことを御子が実現した(1:1-2節前半)
今日は「ヘブル人への手紙」の初回なのでこの書の概要を短く説明します。この手紙には、旧約聖書そのものや律法で定められた祭儀が引用されているため、ユダヤ人クリスチャン宛の手紙とされています。それで「ヘブル語を話すユダヤ人キリスト者宛の書簡」ということで「ヘブル人への手紙」と呼ばれています。著者はかつてはパウロと考えられていましたが、聖書研究が進んだ現在ではほとんどの学者が不明としています。その一方、本文全体から執筆の背景は明確です。読者は長く続く迫害によってキリストに疑いや失望を感じていました。そのため著者は、読者にとってキリストはどんなお方であるかを明らかにし、彼らを励ましてキリストに留まらせようとしました。
ところで、この書は手紙に分類されますが、神賛美やあいさつといった手紙特有の書き出しはなく、いきなりイエス・キリストから始まっています。しかも、冒頭部分では「イエス」や「キリスト」と呼ばず、御子と呼んでいます。もし、イエスあるいはキリストと呼ぶと、父なる神との間に解説が横たわり、いわば神と直結にはなりません。しかし、御子は直結です。つまり著者は、御子を通して読者が神とつながっていることを強調したいのです。ユダヤ人は「神の民」を自認していますから、神とのつながりが最も大事だからです。その上で著者は御子について3つのことを語ります。
①神のことばとの関係 ②神との関係 ③人との関係
「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。(1節-2節前半)」
神は昔、預言者たちによって語り、この終わりの時には御子によって語りました。ここから明らかなように、昔とは御子イエスが来る前の時代、すなわち旧約の時代を指しています。この時代、エリヤやイザヤといった職業としての預言者の他に、モーセやダビデのような特定の人に神はご自身のことばを預けて、ユダヤ人の先祖たちであるイスラエル民族に語りました。神は時代や民族や場所といった部分に分けて、また直接語る以外にも夢や幻のように多くの方法で語りました。ただし語った目的はただ一つであり、それは神の民が神に立ち返るためでした。広く言えば、人が壊した神との関係を回復するためと言えるでしょう。
このことを神は終わりの時には御子を用いて語りました。「終わりの時」とあるように、十字架の死からよみがえったイエスは現在天におられ、再びこの地上に来たときこの世は終わり新しい天と新しい地が始まります。それゆえ、この手紙の人々も2022年の私たちも終わりに向かっている時代、いわゆる新約の時代を生きています。
旧約の時代に語られた「神との回復」を御子がユダヤ人に語り、御子が天に上った後は新約聖書を通して御子は語っています。しかし御子はかつて語られたことがらを単に語り直したのではありません。ヨハネはこう記しています。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。(ヨハネ5:39)」
御子は旧約時代に隠されていたメシア、すなわち神との回復を実現する者が誰であるのかを明らかにしました。しかもそのメシアがご自身であることを明らかにしたのです。つまり旧約の時代に語られた神のことばが御子によって実現したのです。神との関係を回復する方法、言い換えれば滅びから救われる方法は、御子を救い主メシアとして信じる以外にありません。
Ⅱ.御子は神と同一であり、天地万物を創造し、今はそれらを治めている(1:2節後半-3節前半)
「神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。(2節後半-3節前半)」
もし御子についての解説が2節前半で終わったとしたら、御子はただ語るだけの者で何だか神の手下のような感じを受けます。しかし、著者はここで御子は神と同一であることを示します。
「御子によって世界を造った」というのは、神が御子に造らせたのではなく、「神が何をお造りになるのか」を御子が理解し承認していたことを意味しています。万物創造の時から御子は存在していて、造られたものの形や機能、神が与えた目的など万物に関わるあらゆることがらを知っているのです。
そこに神は「万物の相続者」すなわち万物を治める権利を御子に与えました。御子はあらゆるものを自らの意志で扱うことが可能です。ことばで嵐を鎮めたり、いちじくを枯らせたり、あるいは水の上を歩くなど、イエスの弟子たちが経験したように御子イエスに不可能はありません。
ただし御子はご自身の好き勝手になさっているのではありません。御子はこう語っています。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。(ヨハネ5:19)/わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。(ヨハネ5:30)」
ですから御子は神の栄光をこの世に輝かすため、神のご性質をあますところなくこの世に示しているのです。御子が万物の支配を担っているのは、ご自身を通して神の存在と栄光を人々に知らせ、人々が神を信じるためなのです。著者が「御子は大いなる方の右の座に着いている」と語ったように、御子イエスは今は天において神のみこころに従って万物を治めています。苦難が続いたときに「イエスにはできない/イエスはあてにならない」思ってしまうかもしれませんが、イエスは私たちには知り得ない神のみこころをなしているのです。
Ⅲ.御子は人の罪をきよめ、今は天において神の右の座でとりなしている(1:3節後半)
ここで著者は御子が具体的に何をなしたのかを語ります。
「御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。(3節後半)」
ユダヤ人は律法をよく知っています。ですから「罪のきよめ」が「いけにえを神にささげることで罪が赦される」ということをわかっています。9章で詳しく述べられているように、まったく罪のない御子がいけにえとなることで、御子を信じる者の罪はきよめられます。このいけにえこそが十字架での死です。御子を信じる以前の罪だけではなく、御子を信じた後も犯すであろう罪も赦されます。しかも「成し遂げ」とあるようにイエスを信じる者すべてのあらゆる罪が完全に赦されるのです。
御子はきよめである十字架の死の後、いと高き所で大いなる方の右の座に着かれました。ここには2つの事実が含まれています。一つは初穂、すなわち「罪のない者は死で終わらず神のおられる天の御国に入る」その最初が御子という事実です。もう一つはとりなし、すなわち大いなる神の右に座して神の代理としてこの世を治め、世の終わりまで人と神との間をとりなしている事実です。
御子が十字架という罪のきよめを成し遂げたことで、御子を信じる者は罪が赦されアダム以来断絶していた神との関係が回復します。御子の犠牲が罪による神の怒りをなだめるからです。それに加えて、今は天において信じる者と神との間をとりなしておられます。これこそが神の愛であり、御子によって私たちは神が愛して下さっているのをわかるのです。
■おわりに
人は本来罪にさいなむ人生を終えた後、神の怒りのゆえに永遠の滅びに行かなくてはなりませんでした。しかし、神は人を放っておかないのです。御子をユダヤ人イエスとしてこの世に遣わし、人間の言葉すなわち人が理解できる仕方で滅びからの救いを明らかにしました。しかも「御子が救い主」と信じるだけで滅びから救われるのです。なぜなら、御子が信じる者の代わりに罰を受けてくださったからです。それが十字架での死です。良い行いの積み重ねとか修行で悟りを開くといった行いは必要ありません。ただ信じるだけで滅びを免れ天の御国に行けるのです。その上、今を生きる私たちと神との間を御子はとりなし、私たちにとって最もよいことをなしてくださっています。私たちが信じ頼るお方は御子イエス・キリスト以外にはないのです。
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