■はじめに
会社で働いていた時、製品の打ち合わせで出張することが度々ありました。ただ、2回目くらいまでは上司が同伴するのですが、それ以降は自分一人で行かなくてはなりませんでした。経験豊かな上司がいないので、「答えられなかったらどうしよう。」という不安に包まれながら現地に向かったものです。今私たちは、安心の源であるイエスを直接見て、触れることはできません。それでもイエスは私たちをこの地上に置いています。なぜなら聖霊が人に働かれるからです。今日は、助け主とも呼ばれる聖霊の働きと、それが私たちに何をもたらすのかを聖書に聞きます。
Ⅰ.イエスはご自身が地上から去れば助け主が遣わされると弟子たちに約束した(16:1-11)
イエスはご自身が地上から去った後、弟子たちがイエスゆえの憎しみや迫害に会うことを前もって彼らに伝えました。けれども彼らを恐怖や不安の中に放っておきはしません。彼らを助ける手段を用意しておられます(1節)。
イエスを否定する者たちは弟子たちをはじめイエスを信じる人々を会堂から追放し、ユダヤ人コミュニティから除外します(2節)。さらには逮捕して牢に入れ、殺そうとします。彼らは神やイエスの真実を一つも悟っていないので(3節)、自分たちのやっていることこそが神のためになる、と確信しているのです。イエスに出会う前のパウロはまさにその代表格でした。
イエスを証言する者が苦しむのはすでに聖書に書かれています。それでも、実際に迫害されれば、その苦痛や恐怖からイエスを捨てようとする気持ちが生まれてもおかしくはありません。迫害は弟子たちをイエスから引き離そうとする力、すなわち「イエスを信じず、イエスの仲間を抜けたい。」というつまづきを起こさせるから、イエスは前もって伝えたのです。
ここでイエスはこれからのことをなぜ今伝えるのかを明らかにします(4節)。イエスが一緒にいたときは、非難はイエスに集中します。たとえ、弟子たちに向けられたとしても、イエスがそれを引き受け彼らを助けます。いわばイエスが弟子たちの盾になっていたのです。しかしイエスが地上を去った後は弟子たちが最前面で迫害を受けます。だから、その時にイエスの語ったことばを思い出せば、つまづきを退けイエスにとどまれるのです。
ただし、6節「あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。」とあるように、3年間寝食と苦労を共にしたイエスと離れるので弟子たちは悲しみに満たされ、とてもイエスの話を冷静に聞くことはできません。それでもイエスは彼らのために語ります。
今弟子たちは動揺して話を理解できなくても、後々思い出すために、イエスは助け主、真理の御霊とも呼ばれる聖霊について教えます(7節)。なぜなら、これからイエスを証言する弟子たちにとって助け主の働きが役立つからです。「イエスが去らなければ助け主は来ない。イエスが去れば助け主は来る」とあるように、助け主がイエスに代わって彼らを助けます。つまり、目に見える存在としてイエスが一緒でなくても、助け主によってイエスが一緒にいることになるのです。だから彼らにとって大きな励ましと力になるのでイエスは今語るのです。
イエスは助け主が何をするのか具体的に語ります(8節)。弟子たちが活動する際、助け主がこの世の人々に働いて、罪と義とさばきについて理解の間違いを悟らせます。
①罪(9節)
・誤:神のためと言いながら人の定めた規則(この時代であれば戒律)に反すること
・正:神であることを明らかにしたのにイエスを信じないこと
②義(10節)
・誤:人あるいは人が定めたものを絶対に正しいとすること(この当時であれば宗教指導者)
・正:イエスは神と同じ義だから神のところに行くことができた
③さばき(11節)
・誤:この世の支配者がさばく(この当時であれば総督)
・正:イエスがすべての人間をさばく(ヨハネ5:30)。たとえ支配者であっても、さばく側ではなくさばかれる側にすでに定められている。
イエスがこの世に来られる前の時代、祭司が罪とは何かを教え、預言者が神からのことばすなわち神の義を伝え、王がさばきをくだしました。その後、イエスは祭司、預言者、王の職務を神から与えられて、罪・義・さばきについて誤りを指摘し、真実を伝えてきました。そしてイエスが去った後は、弟子たちが助け主から力を受けて罪と義とさばきを伝えるのです。しかも、罪、義、さばきは人の救いに必要なことがらです。罪ある人は義ではないのでさばきにおいて有罪判決となります。けれどもイエスを信じる者は義と認められるから、さばきにおいて無罪判決となり、永遠のいのちを受け取れます。
助け主はイエスの代わりに弟子たちを励まし、活力を与えますがそれがゴールではありません。神のみこころは人が罪を悔い改め、イエスを信じ義と認められ、さばきで無罪となり、天の御国で永遠に生きることです。そのために助け主が弟子たちに遣わされるのです。今日の私たちにも助け主が遣わされているから、私たちはイエスを証言できるのです。助け主の派遣は弟子をはじめ私たちへのイエスの優しさであり、同時に「私に代わって活動できますよ。」という信頼の証拠でもあります。
Ⅱ.助け主は弟子たちに真理を分からせ、イエスの代理として弟子たちを助ける(16:12-15)
さらにイエスは助け主がどのようにして世の誤りを明らかにするのかを伝えます(12-13節)。イエスは助け主以外にも弟子たちに伝えておくことがありました。けれども、さきほど触れたように弟子たちは受け止められる状態にないので、イエスはたくさんの真理を語りませんでした。にもかかわらずイエスに困った様子はありません。なぜなら聖霊が真理を教え、弟子たちが真理を悟れるからです。
ただし聖霊は自分勝手に語りません。13節「聞いたことをすべて語り」そして14節「わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださる」とあります。聖霊はイエスから受けたことを忠実に語ります。預言者が神からのことばを預かって人々に語るのと同じです。イエスはことあるごとに弟子たちに真理を説き明かしました。それと同じように、聖霊がイエスの代わりイエスのことばを語るのです。だからイエスは今、すべてを弟子たちに語らなくても落ち着いているのです。
しかもイエスは15節「父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。」と言います。かつてイエスが神からのことばをユダヤ人たちに語ったように、今度は聖霊がイエスすなわち神からのことばを弟子たちに伝え、それを受けた弟子たちが人に語ります。つまり、イエスが去った後は弟子たちがイエスに代わってイエスを証言し、それによってイエスを信じた者たちがイエスをほめたたえます。
イエスは十字架とよみがえりというご自身の最大の使命を果たし、父のおられる天に戻りました。イエスはご自身の働きを弟子たちに委ねたのです。それで弟子をはじめイエスを信じる者たちが全世界にイエスを証言することになりました。ただしイエスは何もしないで「後はよろしく」と弟子たちを捨て置きはしません。助け主あるいは真理の御霊とも呼ばれる聖霊を彼らに遣わし、迫害に苦しむ彼らを助け、語るべきことがらを教えます。3年間彼らと共にいた時と同じように、聖霊を通して弟子たちを励まし、教え、進むべき道に導いているのです。だから弟子も私たちも安心していいのです。
■おわりに
今、11人の弟子がイエスと共に食事し、イエスからのことばを聞いています。全世界でたった11人の彼らからイエスの証言がスタートします。しかも、ユダヤ人、特に宗教指導者から激しい迫害に会うのは明白です。イエスが一緒だったら何も怖くないでしょう。けれども、イエスが一緒にいなくても大丈夫なのです。なぜならイエスが聖霊を彼らに遣わし、聖霊を通して彼らを助けるからです。
2000年後の日本にいる私たちもこの弟子たちと同じです。圧倒的な少数者であり、その上、人の形をとってイエスが一緒におられません。頼れる使徒たちももういません。置かれた状況だけを見れば安心できる要素はありません。国や地域によっては迫害や差別、いやがらせなど不安や恐怖の要素しか見あたりません。それでもイエスはご自身を救い主と信じる人々をこの世に置きました。ご自身は天にいても聖霊を通して私たちを助けることができるからです。イエスは私たちを決して見捨てず見放さないのです。
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