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木村太

10月4日「イエスを受け入れる」(ヨハネの福音書5章41-47節)

・はじめに

 スタジオジブリの作品に「風の谷のナウシカ」という映画があります。その中で、風の谷に伝わる古くからの言い伝えが語られます。「その者青き衣(ころも)をまといて金色(こんじき)の野に降り立つべし。失われた大地との絆を結びついに人々を清浄の地にみちびかん。」映画のクライマックスでナウシカの服は王蟲(おうむ)の血で青く染まり、無数の金色の触手の上を歩きます。その時人々はその姿を見て、ナウシカが言い伝えの者だと分かるのです。イエスが来る前、ユダヤ民族には神からことばが与えられていました。それが旧約聖書です。そのことばがイエスという人となって彼らの前に現れました。だから、ユダヤ民族にはイエスを救い主と受け入れて信じる下地が用意されていたのです。しかし、彼らはイエスを受け入れませんでした。今日は、イエスを拒んだユダヤ人の姿を通して、イエスを受け入れることについて聖書に聞きます。

Ⅰ.ユダヤ人はこの世の誉れを求めたためイエスを受け入れなかった(5:41-44)

 イエスの時代、ユダヤ人はすでに旧約聖書(モーセ五書、預言書、詩篇)を知っていて、永遠のいのちを聖書に求めていました。しかし、聖書はイエスに永遠のいのちがあることを証言しているのに、ユダヤ人はイエスを求めませんでした。その原因をイエスは語ってゆきます(41-42節)。

 イエスは神の権威によるわざやことばをユダヤ人に示しました。ただしイエスはユダヤ人が自分をどう評価しようが気にしません。なぜなら、万物にとって受けたいのは神の栄誉、神からほめられることだからです。ここでイエスが気にしているのは「あなたがたのうちに神への愛がないことを。」とあるように、神に対するユダヤ人の本質です。この「神への愛」とは神のみこころを第一として神が喜ばれるように生きることを言い、そのお手本はイエスです(5:19,30)。そこでイエスはユダヤ人の本質を明らかにします(43-44節)。

 神を愛する者は唯一の神からほめられるのを求めます。子どもが親からほめられたいために、お手伝いをするのに似ています。だから、今この時であれば「父の名によって来たイエス」を受け入れることが神の喜びであり、神からの栄誉になるのです。

 しかし「もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。」とイエスは語ります。名前は単に人を区別するためのラベルではありません。その名前にその人の社会的権威や地位を帯びています。つまり、ユダヤ人は神の権威を帯びているイエスを認めないのに、この世の権威を帯びている者を尊んでいるのです。なぜなら彼らは「互いの間で栄誉を受けて」いるからです。パリサイ人や律法学者のような指導者たちは人々からほめらること、立派な人と認めらることを求めています。一方民衆は、権威者から罪汚れなき者あるいは規則をちゃんと守っている者と認められるのを求めています。ユダヤ人は「主よ、主よ」と言いながら、人からの評価ばかりを気にしていたのです。

 神の国に入るためには神から「あなたは正しい」と認められる必要があります。それゆえ神のみこころを求めて神を最優先にします。ところがユダヤ人は「昔からの規則を守る」イコール「神を最優先とする」と捉え続けたので焦点がずれていました。その上、規則を判定する宗教指導者を最優先としてしまいました。その典型がイエスに対する安息日批判です。

 私たちも「神を愛している」と言いながらユダヤ人のような失敗を繰り返します。人は本質的に目に見える形でほめられたいし、喜ばれたいのです。だから神からほめられるために行動しているのに、いつの間にか人からの賞賛をもらわないと不満になるのです。「わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。(5:30)」と語るイエスを見習いましょう。

Ⅱ.ユダヤ人はモーセのことばを正しく理解していなかったため、イエスを信じなかった(5:45-47)

 イエスは、ユダヤ人が神からの栄誉ではなく、人からの栄誉を求めていることを指摘しました。さらになぜそうなったのかを説明します(45節)。

 神が派遣したイエスを拒否するのは神を拒否することになります。外交で言えば、外国の大使を拒否するのはその国を拒否するようなものです。ただ不思議なことに、「イエスの拒否」をイエスが父なる神に訴えるのではなく、モーセが訴えるとイエスは言います。ユダヤ人にとっては驚きでしょう。

 何度も繰り返していますが、「神がモーセに与えた律法を厳守すれば神の国に入れる」という思想が当時のユダヤ人に浸透していました。使徒ヨハネと同時代を生きたヨセフスはユダヤ古代誌でこう書いています。「モーセの徳と、力強い演説の説得力を讃美する感情は、なにも彼の生存中だけのものではなく、今もなお存続しているのである。すなわち、すべてのヘブル人は、今でもそこにモーセがおり、もし彼の訓戒を破ればたちどころに罰せられると考えており、...」1500年以上の時を経ても、ユダヤ人はモーセが判定すると信じていたのです。

 それで「あなたがたはモーセに望みをかけている」とイエスは言うのです。「膨大な細かな規則を守っているのだから、あるいは守らせているのだから、モーセからほめられることはあっても神に告訴されるのはあり得ない」というのがユダヤ人の思いでした。だから「モーセがあたながたを訴える」というのは、ユダヤ人にとって思いもよらないばかりか、彼らを侮辱しているのです。

 モーセがユダヤ人を訴える理由をイエスはこう言います(46-47節)。46節でイエスは、わたしを信じていないあなた方はモーセを信じていないから、と言います。モーセに従っていると自負するユダヤ人には頭に来ることばでしょう。しかし事実、モーセのことばはイエスを証言しているのです。

 申命記にこうあります。「あなたの神、【主】はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。(申命記18:15)」モーセを初め、その後の預言者や詩篇のことばとイエスの言動を照らし合わせれば「モーセが書いたのはイエスのこと」に至るのです。

 イエスは律法全体を2つの戒めで表しました。「イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。(マルコ15:29-31)」この律法の本質、いわば神のみこころを見極めていれば、イエスこそが神のみこころそのものであり、モーセのことばそのものであると分かるのです。そしてイエスこそが永遠のいのちを与える救い主だと信じることに至るのです。でもそうならないのはユダヤ人がモーセのことばを正しく理解していないし、信頼していないからなのです。彼らは律法を守ることにこだわっていたために律法主義という文化を作ってしまいモーセの本質を見失いました。

 イエスが来られる前、モーセの律法、預言者へのことばなど神はユダヤ人(イスラエル民族)にたくさんのことばを与えました(ヘブル1:1)イエスがこの世に来られる前にユダヤ人には神のことばがありました。時至ってイエスはこの世に来られました。その後イエスは安息日であっても苦しんでいる人を助け、ツァラアトの人・体の不自由な人・血の病の女性などユダヤ人社会から見捨てられていた人々を助けました。まさにイエスは神のみこころを目に見える形で明らかにした人です。「ことばは人となって住まわれた」のです。

 本来、世界の中でユダヤ民族が真っ先にイエスを受け入れ、神の国で永遠のいのちを生きられるはずだったのです。しかし、彼らは律法を拡大解釈した規則を定め、それを厳守する社会を長い間続けてきました。「自分たちの知識や知恵が正しい」と言う考えにこだわり続けた結果、イエスが神のことばであることを受け入れず、イエスを救い主と信じませんでした。頑なさが信仰を妨げたのです。

・おわりに

 イエスはユダヤ人からののしられ、バカにされ、果てには十字架という最も残酷で屈辱的な仕打ちを受けました。もし、神の不思議な力を用いてローマ帝国を倒したなら、ユダヤ人からヒーローとしてほめたたえられたでしょう。でもそうせずに十字架刑を受けたのは、人が受けるべき神の怒りを身代わりに受けるためでした。それはイザヤ書53章にあるように、神のみこころを成し遂げるためだったのです。これが神の愛であり、イエスの愛です。旧新66巻の聖書はイエスの事実と神の愛が詰まっています。だから私たちは聖書から神の愛を受け取り、ことばがイエスになったことを認めて、イエスを救い主と信じるのです。

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