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木村太

10月8日「ヨエルの叫び」(ヨエル書1章13-20節)

■はじめに

 今の日本は自己責任論があふれています。事故や事件が起きた時に当事者にすべての責任を負わせる、という考え方です。最近では当事者だけでなく、その家族にも非難が及びます。確かに、故意にせよ過失にせよ、生じた結果はその人の行動によって起きたものです。けれどもこの考え方だと、「なぜそうしたのか」とか「なぜそうせざるを得なかったのか」のように物事の真相には迫れません。今日はヨエルのふるまいから、「私たちはこの世界のものごとをどのようにとらえるのか」このことを聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.ヨエルは祭司たちになすべきことを命じた(1:13-14)

 神はいなごの災害について、これは単なる自然現象ではなく、イスラエルの背きによる神のわざわいであることをヨエルに告げました。それを受けてヨエルが動きます。13節「祭司/祭壇に仕える者たち/私の神に仕える者たち」とあるように、ヨエルはまず、神と人とをとりなす祭司たちにすべきことを2つ命じました。一つは赦しを請う嘆き、もう一つは民族の悔い改めです。


(1)赦しを請う嘆き(13節)

 「粗布をまとう」は嘆きや悲しみを表すふるまいです。また「行って粗布をまとって夜を過ごせ。」は神殿に行って徹夜で嘆き祈ることです。いなごの大災害に直面しても祭司たちはそれほど重大なことと受け取っていなかったのでしょう。けれども真実は、徹夜で神の前に泣き叫び嘆いて赦しを請わなければならないほど危機の極みでした。なぜなら、「穀物と注ぎのささげ物が...退けられたからだ。」とあるように、いなごによって穀物もぶどう酒も油もなくなり、定められていた品物をささげることができなくなりました。しかしそれは、神がイスラエル民族を拒絶したしるしにほかならないからです。「祭司たちがいなごの災害を前にして、自分たちの背きがこれを招いたと気づき、神に赦しを必死に祈らなければならならない」これをヨエルは真っ先に命じました。


(2)悔い改め(14節)

 もう一つ祭司たちがしなければならないのがイスラエル民族の悔い改めです。「断食」も「きよめの集会」も罪を悔い改めて神の前に自らを聖いものとするための行いです。ここでヨエルが「長老たちとこの国に住むすべての者」と命じているように、イスラエルの民全体が悔い改めなければならないほど背いている、とヨエルは見ています。またここでも「【主】に向かって叫び求めよ」とあるように、イスラエルの背きは深刻で一刻の猶予もないのです。


 ヨエルはいなごの災害をかつてないほどの深刻な神のわざわいと受け取りました。それで、イスラエル民族全体が背きを悔い改めて、罪の赦しを必死に求めなければならないと判断し、祭司にそうするように命じました。現代において私たちは神がすべてを治めていることを確信しています。同時に、私たちの祈りはキリストを通して神に届いていると確信しています。ですから今の時代は、私たちがヨエルと祭司の役割を担っているのです。それゆえ私たちは、災害をはじめとする大惨事が起きた時には、他人事と見ないで、人の罪を嘆きながら神に助けを祈るのです。


Ⅱ.ヨエルは主の日が近いことを嘆いた(1:15-18)

 ヨエルはいなごの災害から、さらなるわざわいに気づきます。ヨエルは「ああ」と、主の日が間近に迫っていることを嘆いています(15節)。「主の日」とは「全能者による破壊の日」であり、この世を支配している神がすべてを徹底的に破壊し、荒れ果てさせる出来事とヨエルは捉えています。いわゆる神の最終的なさばきです。


 ただし、「主の日は近い」とあるように、ヨエルはいなごによる大災害を「主の日」と見ていません。なぜなら、主の日には人も含めたすべてが破壊し尽されるからです。つまり、ヨエルはいなごの災害を主の日の前触れ、言い換えれば主の日に対する警告と見ているのです。それで、悔い改めて赦しを請うように命じたのです。


 ここでヨエルは主の日をこのように説明しています(16-18節)。いなごによって喜びや楽しみをもたらす食料がなくなりました。しかも、備蓄していたものまでもダメになりました。その上、「穀物の種は土の下で干からび」とあるように、畑そのものが荒らさました。当然ながら、牛や羊といった家畜は空腹で呻き、食べ物を探すためにさまようようになります。ですから牧畜もできなくなります。


 ヨエルはいなごによる大被害を主の日の前触れとして語ります。イスラエルの民にとってはこれまでにない大災害ですけれども、悔い改めなければこれよりもはるかに恐ろしい破壊がやって来るのです。イスラエルにとって事態は深刻であり、緊急なのです。


 この世には人を悲しませ苦しませる出来事が日々起きています。それらの因果関係を調べて、事前に何かをして防いだり、あるいは被害を少なくする努力は必要です。同時に、罪あるこの世が受ける「主の日」は地上に起きるあらゆることよりもはるかに恐ろしいとわきまえていることも大切です。人は現実を見ながら、将来を見据えて備えなければならないのです。


Ⅲ.ヨエルは主に助けを叫んだ(1:19-20)

 ここでヨエルは自ら主に口を開きます(19-20節)。ヨエルは「あなたに、主よ」とイスラエルの神に呼びかけています。ヨエルはいなごの災害が主なる神からもたらされていることをわかっているのです。しかも、「私は呼び求めます。」とあるように、イスラエルの民全体の背きがこのわざわいをもたらしていると知っていても、ヨエルは「私」という個人で神に呼びかけています。つまり、イスラエル全体のことを自分のこととして受け止めているのです。それだけではありません。「野の獣も、あなたをあえぎ求めています。」とあるように、ヨエルはイスラエルの民に加えてすべての生き物に代わって神に助けを訴えているのです。


 ヨエルは「火が荒野の牧場を焼き尽くす/野のすべての木を炎がなめ尽くす/水の流れが涸れる」と被害の様子を主に訴えます。これらの被害は干ばつとか野火ではなくていなごの災害を比ゆ的に表していると思われます。ヨエルは食べ物がすべて失われただけでなく、畑や牧草地が回復する見通しもないことを主に訴えます。神からの恵みがすべて断たれたことを主に嘆き、イスラエルを代表して助けを求めているのです。


 いなごの大被害があっても、大人は酔いどれ、祭司たちは深刻に捉えず、農夫たちは収穫できないことを嘆いていました。一方、ヨエルは「いなごの大災害は実は自分たちへの神のわざわいだ」と神のことばから気づきました。しかも、その原因がイスラエルの背きだということも悟りました。だから人も含めてイスラエルに属するすべのために、神に嘆き助けを叫び求めたのです。


 預言者は民の代表として神からことばを預かります。それゆえ民の代表として神にとりなしの祈りをささげるのです。モーセ(出エジプト32:30-32)やダニエル(9:3-19)もそうでした。そしてイエスも「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)」と、とりなしてくださいました。私たちクリスチャンも聖書を通して神のことばを預かる者です。ですから、罪ある人間の代表者そして代弁者として神に助けを祈るのです。


■おわりに

 ヨエルは神からのことばによって、いなごの災害を単なる自然現象と受け取りませんでした。彼は目の前の大災害を嘆くのではなく、それを引き起こした自分たち民族の背きを嘆き、祭司を通して人々に悔い改めを求めました。さらに民族を代表して神に助けを叫び求めました。


 パウロは悲しむことについてこう言います。「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(Ⅱコリント7:10)」私たちの生きる世界には自然災害や疫病のように人にはどうにもできない大惨事があります。その時、人々は被った苦しみを嘆き悲しみます。イエスが人の悲しみをともに悲しんだように、私たちも苦しんでいる方々とともに悲しむのは大切です。


 ただし、私たちキリストを信じる者がすべきことはそれだけではありません。この世の災害よりもさらに恐ろしい主の日、すなわち最後の審判による永遠の滅びが来ること、そしてそれを免れる方法があること、これを伝える役割があります。「最初は良いものとして造られたのに、今では苦しみを受けるべきものとなってしまったこと。しかも、主の日において永遠の滅びに向かわなくてはならないこと」これが、私たち人間が本当に嘆くべきことです。そこにたどり着いたとき、私たちはキリストによる救いの道を見つけるのです

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