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木村太

10月9日 「御子は御使いにまさる」(ヘブル人への手紙1章4-14節)

■はじめに

 人は太陽や山、海など人の力が及ばないものに畏敬の念を覚え、それらを崇める性質を持っています。あるいは、人や社会に驚くような出来事が起こったときには、目に見えない霊のような存在を感じています。だから厄除けやお払いのような儀式を行うのではないでしょうか。また皆さんも経験があると思いますが、葬儀から帰ってきたときには家に入る前にきよめの塩を体にふりかけますね。これも霊の存在を何となく認めているからです。しかし、クリスチャンは自然や何かの霊を崇めたり祀ったりしません。すべてを治めるイエスがおられるからです。今日は御子の権威について聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.御使いは神から役割を託されているのに対し、御子は父なる神の相続者であり神と同じ権威を持っている(1:4-9)

 著者は手紙の冒頭で御子イエス・キリストの本質を語りましたが、突然御使いとの比較に話を変えます。旧約聖書を見ると、神はご自身の働きのために御使いをこの世に遣わしています。例えば、イサク誕生をアブラハムに告げた3人は神からの御使いでした。そのためユダヤ人は御使いの存在を信じていました。その一方、読者がさらされていたギリシア思想には御使い礼拝があり、キリストを御使いの最高位とみなす風潮がありました(コロサイ2:18)。そこで著者は御使いと御子の違いを述べて、御使いに比べて御子がどれほどまさっているのかを伝えようとしたのです。ここで大事なのは著者が詩篇を引用しているところです。詩篇を用いることで、「御子がすぐれている証明」が著者の考えではなく、神のみこころだとわかるからです。


 著者はまず、御子だけが「御子」という名、すなわち御子だけが父と子の関係であり、父なる神の相続者だと言います(4節)。その証拠に「あなたを生んだ」とあります(5節)。御子は創造されたものでもないし、神から任命されたものでもありません。御子だけが神からお生まれになり、その事実を神は御子に伝えました。


 あとで触れますが、御使いは神から創造され任命されたもの、いわゆる主従関係です。しかし、御子と神は親子関係です。ですから、神にとって御子の方が優っているのです。ちょうど王に仕える役人と王の息子ようなイメージです。それゆえ神は「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。(6節)」と命じるのです。加えて、「長子をこの世界に送られたとき(6節)」とあるように、御子だけが人としてお生まれになり、そして十字架という犠牲となって人を滅びから救いました。この事実も御子が優っていることを示しています。


 次に著者は役割の違いを語ります(7-8節)。御使いについての「風と燃える炎」は彼らの活動の速さと力強さを言います。御使いはあくまでも神に仕える者であり、神の命令に基づいてこの世で活動します。一方、御子は神から「神よ」と呼ばれ、王の権威の象徴である「王座」「王国の杖」が与えられています。御子は神と同じ義すなわち正しさをもって、すべてを治める権威があるのです。御使いのように神に仕える側ではありません。しかも御子は「義を愛し、不法を憎む。(9節)」とあるように、神の性質から外れることなく何が善で何が悪かを判断でき、神と同じ正しさを発揮します。「喜びの油を注ぐ」とはこの上ない喜びと尊敬を表す行為ですから、それほど完全な御子を神は喜んでいるのです。


 御使いは神に仕え神の命令によって行動します。自分勝手なことはできません。しかし、御子は神の権威を持っていますから、御使いに命じる立場の者です。何者にも縛られないから自由に行動できます。ただしそのふるまいのすべてが神のみこころに沿っています。私たちは御使いの存在を認め、彼らの働きを尊重しますが、崇めるのは彼らではなく御子なのです。


Ⅱ.御使いは造られたものであり神の前で働くが、御子は万物創造の時からおられ神の右に座している(1:10-14)

 著者は続けて語ります(10節)。先ほど、神は御子を「神」と呼びましたが、ここでは「主」と呼んでいます。「主」の呼びかけに加えて「地の基を据えた/天も御手のわざ」からも明らかなように、今度は造られたものいわゆる被造物と御子との関係に焦点を当てています。


 御子は神から生まれた者であり、そして天地万物を創造したときから神とともに存在していました。そのことを使徒ヨハネはこう証言しています。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。(ヨハネ1:1-2)」ですから御子は万物をすべてご存じであり、造られた理由やあるべき姿もご存じなのです。さらにこの事実は「御使いは被造物」であることを暗に示しています。


 ここで著者は創造者である御子と被造物の特徴を示します(11-12節)。神によって造られたものはすべて、衣のように時間とともに朽ちてゆき、やがては滅び消え失せます。また、マントをくるくると巻いて脱ぐように、被造物は神によって取り去られます。人や動物、植物、山、海、天体などこの世に存在するすべては時間が経つと滅びます。あるいは、神の御手によってこの世から取り去られます。御子イエスがいちじくの木を枯らしたのはその典型です。


 それゆえ、被造物である御使いも時間とともに老いて、最後には滅びます。あるいは神によって滅ぼされます。しかし、「あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」とあるように、御子はどれほど年月が経ったとしても、からだも性質もまったく変わらず、しかも永遠に存在します。また、衣が取り替えられるように、神によって滅ぼされることもありません。万物創造のときから永遠に被造物を観察し、神のみこころに沿って治めているのです。


 御使いは神によって造られたものであり、時間とともに移り変わり最後は滅ぶ、いわば有限の存在です。一方、御子は神から生まれたものであり、永遠に変わらず永遠に存在します。また、被造物は神に支配されますが、御子は永遠に何ものにも支配されません。このことから著者は被造物に対する立場の違いをこう説明します(13-14節)。


 「わたし(神)の右に着く」とは神の代理人を意味するもので、また「敵を足台とする」は敵を完全に支配下に置くことを意味します。さらに王が活動している期間は代理人は何もする必要がありません。ですから御子はすべてを治める立場で、神のわざを見ながら神の代理として腰を降ろしているのです。それに対して御使いは神の命令によって人を助ける働きをしています。「御使いはみな、奉仕する霊であって」とあるように御使いはじっと座っている立場ではなく、常に行動しています。この手紙を解説する本に「御子は神の右に座すが、御使いは神の前で働く」と書いてありました。御子は神の正しさをもってこの世を治めています。御使いは、神からある役割を与えられてこの世で働いています。私たちが頼るべきは、私たちに仕えている御使いではなく、世を治めている御子なのです。


 ただ、御子は野球監督のようにただ座って指示を出しているだけではありません。14節「御使いはみな、奉仕する霊」とあります。霊なる存在ですから、御子のように人にはなりません。つまり、御使いは人を助けたり支えたり、あるいは神のみこころの方向に導きますが、人を滅びから救うことはできないのです。それゆえ、人となって十字架につけられるのは御子以外にはないのです。


 御子は神と同一であり、被造物を支配する側のお方です。けれども、人を罪の滅びから救うために、その立場を捨てて朽ち果て滅ぶ人の体に生まれ、人の体を持って十字架につけられました。目に見えない霊なる御使いの働きを通して神はご自身のあわれみを私たちに知らせています。けれども、十字架という目に見える御子の犠牲を通して神は直接的にはっきりとご自身のあわれみを示したのです。


■おわりに

 御子は神から生まれ、万物創造の前から存在し、その存在もご性質も永遠に変わりません。そして2022年の現在も神の義に基づいてこの世を治めておられます。「救い」すなわち天の御国における永遠のいのちを相続した私たちにはこの御子がおられます。けれども、この世には御子よりも頼りたくなるものや存在にあふれています。様々な宗教や神話の神々、パワースポットやお守り・お札といった霊を感じさせるもの、人や金銭、地位、血筋など目に見え手にできるものなどに私たちは取り囲まれています。そのため、とてつもない悲しみや痛み、あるいは恐怖が襲ったとき、私たちは御子ではなく手っ取り早く安心を与えてくれそうなものに頼る弱さがあります。ヘブル人への手紙はそんな私たちに「御子だけが何よりも私たちを大事にし、頼りになるお方」だと教えているのです。

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