・はじめに
パウロはガラテヤ教会に宛てた手紙の中で「キリストが私のうちに生きている」と書いています。現代の私たちも「私の内におられるイエス様」と言ったり、「内在のキリスト」という専門用語を使っています。レントゲンやCTといった検査で見つからないのに「内に生きている」と確信しているのは不思議ですね。一方で、その確信があるからこそ私たちはどんなときでも「イエス様がともにいるから大丈夫」という安心があります。今日は、生けるパンであるイエスを食べるとはどういうことなのか、そして食べた私たちはどうなるのかを聖書に聞きます。
Ⅰ.ユダヤ人ヨセフの子イエスが、天から下って来た生けるパンである(6:41-51)
イエスはご自身を求めてやって来た群衆に向かってこう言いました。「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与える(6:33)。わたしがいのちのパン(6:35)。わたしが天から下って来た(6:38)。」そこで群衆はこの話に反応します。
彼らはイエスの両親が自分たちと同じユダヤ人であることをよく知っていました(41-42節)。ですからイエスは不思議な能力を持っているけれども間違いなくユダヤ人であり、天から下って来るなどあり得ない、と信じているのです。それで、イエスのことばを疑いぶつぶつ不満を漏らしました。
そんな彼らにイエスは「ぶつぶつ言うな」といさめて言います(43節)。イエスを信じる者は父なる神がイエスの所に引き寄せたからであり、決して人の能力や努力で信じたのではありません(44節)。父が引き寄せた者は預言者のことばから真理を理解し、イエスを信じます(45節)。別の言い方をするならば、預言書に記されている滅びからの救い主がイエスだと確信できるのです。私たちもイエスを救い主と信じていますから、神によってイエスの所に引き寄せられています。
そして46節「父を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです。」と言います。預言者の時代は神が預言者を通してご自身のことばを人々に伝えました。しかし、イエスの時代は父から出て父と直に関わったイエスが父のことを語ります。つまりイエスが父の代理として父のみこころを人々に語るのです。
「おまえはユダヤ人で天から下った者ではない」というユダヤ人の不満や疑問に論争をしかけないのは、彼らのペースに乗って説明で論破するのではなく、ただ真実だけを語るだけでよいからです。なぜなら父が引き寄せた者はそれを理解できるからです。イエスを信じる信仰はまさに神の働きです。
ここでイエスは父のみこころをこう語ります(47-48節)。ユダヤ人はイエスの素性をこだわっていますが、イエスの焦点はただひとつ「永遠のいのち」です。「いのちのパンであるイエスを信じる者は永遠のいのちをすでに持っている。」これが人にとって何よりも大事だからです。
なぜイエスがいのちのパンなのか、その理由をイエスはこう言います(49-50節)。モーセは荒野で父に願い天からマナが下りました。ただし、マナは腹を満たしますが永遠のいのちには作用しません。一方、天から下って来たイエスを信じる者は永遠のいのちを持ち、終わりの日によみがえります。それゆえ、イエスが天から下って来た永遠のいのちをもたらすパンであり、イエスを信じる者はイエスを食べていることになるのです。
5つのパンと2匹の魚で5千人を満腹にした出来事からパンの問答が始まりました。その結論をイエスはこう言います(51節)。「わたしが与えるパンはわたしの肉」とあるように、イエスはご自身が永遠のいのちに至る存在であることを強調します。イエスは「世のいのちのため」すなわち人間が滅びを免れて永遠のいのちを持つために天から下り人となったのです。
ユダヤ人も私たちも、イエスが人知の及ばないわざをなすことを知っています。それ故、ユダヤ人はイエスが王となってローマ帝国から開放するのを期待します。同じように私たちも直面している困難を解決するのを期待します。けれどもイエスの焦点はどこまでも永遠のいのちです。ローマから開放されても問題が解決しても、罪に対する神の怒りである永遠の苦しみに行く方が比較にならないほど悲惨なのです。だから神はいのちのパンであるイエスを天からこの地上に人として遣わしたのです。神にとって人は高価で尊く愛する存在だから、イエスをいのちのパンにしたのです。
Ⅱ.イエスを信じる者はイエスの肉を食べ血を飲んでいるからイエスと結びつき永遠に生きる(6:52-59)
イエスのことばを聞いてすぐさまユダヤ人たちが応じます(52節)。彼らはイエスのことばを文字通り受け取りました。「人の肉を食べる」というのは非人道的な上、律法で禁じられている行為なので、彼らは激論になりました。それほどひどい内容なのです。そんな彼らに対してイエスは答えます(53-54節)。
イエスは「肉を食べる」に「血を飲む」を加えました。血を口にするのも律法で堅く禁じられていますから、このことばは火に油を注ぐようなものです。しかしイエスは文字通り「人の肉を食べて血を飲む」ことを勧めていません。肉と血は二つのことがらを暗示しています。
①滅びからの救い:過ぎ越の祭りが近いことから、肉はパンと子羊の肉、血はぶどう酒を連想させます。つまりイエスの肉と血は、エジプト脱出のように滅びから開放されて約束の地、すなわち永遠のいのちである天の御国に入る手段を意味しています。
②いけにえ:律法では神の怒りをなだめる方法として、いけにえの肉と血を祭壇にささげる儀式が定められています。つまりイエスの肉と血は、怒りをなだめるためのいけにえを意味しています。
過ぎ越の祭りでの肉とぶどう酒、そして祭壇でのいけにえの肉と血は永遠のいのちをもたらしません。イエスだけが永遠のいのちを与えるから55節のように「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」となるのです。
先ほど「イエスを信じること」が「イエスを食べること」になる、と申しましたように、イエスの肉を食べイエスの血を飲むというのは、「イエスが滅びからの救いであり、神の怒りをなだめるためのいけにえである」と信じることなのです。ここでもイエスが言いたいのは「イエスを信じる者が永遠のいのちを持ち、終わりの日によみがえる」この一点にあります。
さらに、イエスを信じる者にとって大切なことがらを明らかにします(56節)。食べ物や飲み物が人の血肉となるように、イエスを信じる者の中にイエスがとどまっています。とどまるというのはその人の内側にイエスが生きていることを意味します。しかも、「食べ飲む者はわたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。」とあるように互いに結びついていて離れません。このことをパウロは「キリストと一つになっている(ローマ6:5)」と語っています。死んでよみがえったイエスが信じる者の中に生きているから、肉体の命が終わっても永遠に生きるのです。それで「わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」とイエスは言うのです(57-58節)。
さて、イエスはこれらのことがらを会堂で話しました(59節)。ユダヤ人社会では安息日に会堂で礼拝が行われ、そこではモーセの律法や預言書が朗読されました。つまりイエスは、律法と預言書に記されている内容が「イエスによって実現する」と説き明かしているのです。違う言い方をするならば、律法と預言書の時代が終わり、イエスによる救いの時代が到来したことを明らかにしました。私たちが生きている現代もイエスによる救いの時代であり、地上ではイエスを信じる者の中にイエスが生きているのです。
・おわりに
イエスの肉を食べ、イエスの血を飲むというのは非人道的な行為でもなく、恐ろしい行為でもありません。イエスを信じる者は、救いの手段でありいけにえであるイエスと結合し、イエスのからだすなわち肉と血がその人の中であり続けることを示しています。私たちの中でイエスが生きているという事実は驚きとともに安心を与えます。なぜなら常に私たちを見守り、必要に応じて励まし、安らぎや喜びを与え、誤りに気づかせて正しい道に導くからです。しかも、天の御国という永遠に生きる場所に入るまで、何事があってもこの結びつきが壊れたり無くなったりはしません。これこそが私たちの幸せです。
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