■はじめに
イエスは十字架で死ぬためにエルサレムに入ったのち、弟子たちに世の終わりの前兆を語りました。例えば、「イエスを名乗る者が大勢現れて人を惑わす/戦争や戦争のうわさを聞く/民族は民族に国は国に敵対して立ち上がる/あちこちで飢饉と地震が起こる」などです(マタイ24章)。ただし、イエスは前兆を語る前に「人に惑わされないように気をつけなさい(マタイ24:4,マルコ13:5)」と注意しています。なぜなら、「まもなくこの世界は終わる」という話を人が耳にしたならば、不安や恐れ、あるいは喜びといった様々な感情から大混乱が起きるからです。そこで今日は、主の日の到来についてみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.不法の者が神としてこの世に君臨した後に主の日はやって来る(2:1-5)
パウロはテサロニケの信者へのあいさつから手紙を始め、次に苦難と主の日の関りについて語りました。そして、ここから本題に入ります。
1節「キリストの来臨」「私たちが主のみもとに集められること」とあるように、パウロはイエスが再び来られる主の日、言い換えれば、この世が終わって信者が神の国に集められる日について真実を理解してふるまうように求めています。というのも、「主の日が来た」とうわさする者が教会にいたからです。彼らは「聖霊に示された/神のお告げがあった/教えられていないのに、これはパウロの言葉だ」と裏付けたのでしょう(2節)。
このうわさ話によって、「神の国に入れるという興奮」や「神にさばかれるという動揺」が教会内に起きました(2節)。5節にあるように、パウロが主の日の真実を教えていたのに、惑わされる信者がいたのです。おそらく、「主の日は近い」とか「主の日は突然やって来る」といったパウロのことばに影響されたと思われます。また、迫害という苦難が続いているために主の日への期待が高まっていたのもあるでしょう。
それでパウロは、いろんな仕方で飛び交う主の日のうわさ話にだまされないように、主の日の前兆について教えます(3節)。パウロはまず背教が起きると言います。背教とは、テサロニケの信者が受けているユダヤ人からの迫害や、かつて日本であったキリシタン弾圧といった「キリストによる救いが世間から否定されること」だけではありません。「背教」は「離反」とも訳されますので、キリスト教会が「イエスが救い主であること」を否定するのです。使徒ヨハネが口にする「反キリスト」の教会が全世界に現れるのです。
そして背教が起こった後に不法の者が現れます(3節)。不法の者とは神の聖さや正しさ、善に逆らう者です。しかも、4節「すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ」とあるように、世界中で神とされているもの、あるいは崇められているものよりも自分を上に置きます。いわば、この世を支配していると信じられているありとあらゆるものを超越した存在だと、全世界に知らしめるのです。さらに「自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります(4節)」とあるように、すべてのものを支配する神として君臨するのです(ダニエル11:36,マタイ24:15,マルコ13:14)。
つまり、私たちが崇めるイエスの父なる神、万物の造り主なる神に一対一で敵対する者が現れてから、主の日がやって来るのです。ただし、パウロが不法の者を滅びの子と呼んでいるように、この世は彼によって一時的に支配されますが、結末は神の罰である滅びに行きます。ですから、不法の者を恐れおののかなくてよいのです。
ヨハネの黙示録を見ると、世の終わりの出来事は全世界同時に起きています。ある地域とかある民族限定でもないし、「この地域が滅んで、次にこの地域が」のように次から次へとでもありません。ですから、背教も自らを神とする不法の者も全世界で同時に現れるのです。歴史を振り返れば、いつの時代もどこの国でも「自分は神だ」と自称して人々を支配する者がいます。しかしそれはある地域や国家限定です。すべてを治めるイエスに対抗して全世界に神として君臨する者であるかどうかを、私たちは見極めなければなりません。
Ⅱ.不法の者と彼に従う者は必ず滅ぼされるから、私たちは惑わされたり恐れたりしない(2:6-12)
続けてパウロは不法の者について2つのことを教えます。一つは「なぜすぐに来ないのか」、もう一つは「具体的にどんなことをするのか」です。
最初に「なぜすぐに来ないのか」を見ましょう。パウロは何らかの存在が不法の者の出現を引き止めていると言います(6節)。しかも、「あなたがたは知っています」とあるように、テサロニケの信者はそのことをすでに知っています。ただ、「引き止めている存在」が何であるのか現在も判明していません。「ローマ帝国のような悪を抑制する政府とか法律」「教会の働き」「聖霊の働き」といった解釈がなされていますが、どれも定かではありません。
しかし、確かなのは「定められた時」とパウロが言うように、引き留めている者が取り除かれる時も神が定めているのです(6節)。「不法の秘密はすでに働いています」とあるように、人の目には見えない形で、神に敵対する活動が行われています(7節)。信者を迫害しようとする思いが起こされるのは、その典型でしょう。けれども、どの時点においても神の支配にあるのは変わりません。8節のように、たとえその時が来て不法の者が一時的に世を支配しても、最後は主イエスによって滅ぼされます。イエスの権威は不法の者をもしのぐのです。
ところで、不法の者は具体的に何をするのでしょうか。そのこともパウロは教えています(9-10節)。ここで大事なのは、サタンが不法の者をあやつっているということです(9節)。聖書によれば、サタンは神に敵対し、人を神から引き離す存在のリーダーです。それゆえ、サタンは世の支配を巡って神と戦うために不法の者を用いるのです。「あらゆる力、偽りのしるしと不思議、また、あらゆる悪の欺きをもって」とあるように、サタンは不法の者がまるで神であるかのような証拠を世の中に示します。イエスが様々な奇蹟によってご自身が神の子であるのを証ししたのと同じやり方です。ただし、不法の者にだまされ神として受け入れるのは「滅びる者たち」です。彼らは自分を滅びから救うイエスを愛さず、不法の者を救いとして頼ったから、主の日に滅びます(10節)。光ではなくて闇を愛する者は滅びるのです。
ここでパウロは不法の者を信じて滅びる者たちについて不思議なことを語ります。「それで神は、惑わす力を送られ(11節)」とあるように、神はご自身の真理を信じないばかりか神に悪を働く者に、惑わしの力を送ります。神に背いていることを自覚していない者をますます神ではない道に向かわせるのです。危険な道を歩んでいる者に「そっちは危ないから」と警告するのではなく、ますますその道に進ませる、というのは理解しがたいかもしれません。けれども神は実際にそのようにしています。例えば、出エジプトではファラオが様々な災いを受けるたびに、神は彼の心を頑なにしました。あるいは、南王国ユダの王ヨシャファテの時代には偽りの預言者を用いて、北王国のイスラエルの王を滅ぼしました。
つまり、神は主の日までにイエスを信じる者と不法の者すなわちサタンを信じる者を分けようとするのです。言い換えれば、二者択一という形を明らかにして、救われる者と滅ぶ者を明らかにするのです(12節)。ただし、このことは神の悪意ではありません。神はあわれみによって、イエスという救いをすでに明らかにしています。イエス以外に頼らせることで自らの間違いに自ら気づかせ、イエスを信じる道に入ることを願っているのです。
イエスは多くの奇蹟を通してご自身が神の子であることを証明しました。そして、イエスは人を滅びから救うために、人に代わって神から罰を受けました。それが十字架での死です。そのあと、3日目に死からよみがえって父なる神がおられる天に戻りました。イエスを救い主と信じて神から義と認められた者がどうなるのかを目に見える形で明らかにしたのです。神は人を愛するがゆえに、不法の者が現れる前にイエスによる救いの道を備えました。だから、サタンが不法の者を通して様々な不思議を見せても、私たちはイエスという真実を知っているから惑わされないのです。
■おわりに
イエスもパウロも主の日の前ぶれとして背教と不法の者を語っています。両方とも私たちにとっては苦痛や不安、恐怖になります。決して安心や喜びにはなりません。けれども、恐れおののき分別を失うことはありません。なぜなら、これらの出現によって私たちは神の国が間近に迫っているのを知るからです。と同時に、神に敵対するものは間違いなく滅ぼされるからです。私たちは主の日の前ぶれを気にすることなく、主の日に「主のみもとに集められて神の国に入る」ことに備えましょう。
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