11月19日「祝福とさばきの約束」(ヨエル書3章9-21節)
- 木村太
- 2023年11月19日
- 読了時間: 7分
■はじめに
旧約聖書「箴言」では「神は善人を生かし、悪人を滅ぼす」という「神のご性質」が数多く語られています(例2:21-22)。それゆえ、「神を知って神に従い、神に背く悪の道に決して入らないよう」警告が繰り返されています。それに加えて、次のみことばのように、悪を羨むことも堅く禁じられています。 「心のうちで罪人を羨んではならない。いつも、ただ【主】を恐れていよ。あなたには確かに将来がある。あなたの望みは断たれることはない。(箴言23:17-18)」「悪を行う者に対して腹を立てるな。悪しき者を羨むな。悪者には将来がなく、悪しき者のともしびは消えるからだ。(箴言24:19-20)」
「神に従えば祝福、背けばわざわい」聖書は一貫してこの約束が必ず果たされることを私たちに伝えています。今日は「主の日における祝福とさばきの約束」が私たちの人生になぜ大切なのかを聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.主の日に、悪者は主の戦いによって滅ぼされる(3:9-15)
主は、主の日にご自身に敵対する国々をさばく、すなわち悪に対する報いを与えることを約束しました。さらに、さばきとイスラエルの回復がどのようになされるのかを語ります。
9節「聖戦を布告せよ。」とあるように、さばきはイスラエルの軍隊による討伐という形で行われます。ここで注意しなければならないのは、イスラエルの民が歯向かうものを自分勝手に打つのではない、ということです。あくまでもこの討伐は主の戦いであり、主の指示によってイスラエルの戦士が悪者を滅ぼすのです。それで主は、イスラエルには主の戦いゆえに心を奮い立たせて勇敢となり、剣と槍を作らせて戦いに備えさせます(10節)。一方、「周りのすべての国々」と呼ばれている悪をなした者たちは、全員さばきの場に集められます(11節)。
イスラエルの準備が整ったのでいよいよ討伐が始まります。11節「【主】よ、あなたの勇士たちを下らせてください」は戦いを始める「とき」の声です。主の民イスラエルを苦しめた国々は「ヨシャファテの谷」すなわち「さばきの場」に集められ、そこで主が総大将となってイスラエルによる悪者討伐が執行されます(12節)。
主の日における(15節)、悪者討伐の様子をヨエルはこう語ります(13-14節)。13節の様子はヨハネの黙示録14:14-20に記されているように、神の激しい怒りと罰を表しています。悪者は、あたかも刈り取られたぶどうが踏み場で踏まれるごとく痛めつけられます。さらに、ぶどうのしぼり汁が石がめからあふれ出るように、悪者たちの血が一面にあふれています。「判決の谷には、群衆また群衆」とあるように、さばきの場には主に敵対する者が無数にいて、彼らは叫び声を上げながら激しい苦しみを受けているのです。まさに阿鼻叫喚の有様なのです。
15節「太陽も月も暗くなり、星もその輝きを失う」とあるように、主の日において、主はご自身の所有であるイスラエルに悪をなした者たちをさばきます。ご自身に悪をなした者として罰するのです。しかも「鎌で刈り入れる/踏み場で踏む」のように想像を絶する苦しみを与えるのです。それほど神は怒っておられるのです。この世では「自分の思うがままに生きること」が最高の幸せのように言われていますし、誰もがそんな人生を憧れます。けれども、神に背いた人生には「神のさばき」という恐ろしい罰が待ち受けているのです。「すべての人がこの真実を知って欲しい」これが神のみこころだから、神は予言者を通して、あるいは聖書を通して人間に伝えているのです。
Ⅱ.主の民は主とともに主の都エルサレムに住み、永遠の繁栄と平安に生きる(3:16-21)
さて、主はさばきを語ったのち、主の民の祝福を約束します。16節「ほえる/声を上げる」は主のさばきを意味しています。ですから主がこの地上に直接介入するのです。言葉を加えるならば、「神がわざをなしていること」を人がわかるように、さばきと祝福がなされるのです。ちょうど、イエスが弟子たちの前で不思議なわざをなしているようにです。
天も地も震えるような主の声は、イスラエルにとっては「避け所/砦」のように安心をもたらします(16節)。なぜなら、17節にあるように、聖である主の民はエルサレムで主とともに住み、聖ではない他国人は滅ぼされるからです。自分たちに悪を働く者が二度と目の前に現れないことが保証されているから、完全な平安がいつまでも続きます。将来に対して不安になったり恐れたりすることはもうないのです。
その上で主はすばらしい祝福をイスラエルに与えます。18-21節には、イスラエルへの祝福と悪者へのさばきを対比しながら、2つのことがらが記されています。
(1)繁栄と滅亡(18-19節)
「山に甘いぶどう酒が滴る=農作物が豊かに実る」「丘には乳が流れる=牧畜が栄える」「ユダの谷川のすべてに水が流れる=生活と農業に必要な水が保たれる」このようにイスラエルには繁栄という祝福が与えられます。しかも、「泉が【主】の宮から湧き出て、シティムの渓流を潤す。」とあるように、雨期にしか水のないシティムの渓流が、ふつうの川と同じように年中水をたたえているのです。つまり、主の祝福が途切れることはないのです。
その一方、エジプトとエドムは荒れ果てます。この2つの地域は「ユダの人々への暴虐のためだ。彼らはその地で、咎なき者の血を流した。」とあるように、長い間イスラエルを苦しめてきました。それで、イスラエルを苦しめた国々の代表として取り上げられています。新共同訳では「荒れ果てた荒野」を「滅びの荒れ野」と訳しています。イスラエルを苦しめた国々は、単に土地が荒れ果てて農業や生活が成り立たなくなるだけではありません。国自体が滅びゆくのです。
(2)平安と苦難(20-21節)
先ほど申しましたように、主の日に主は悪者を滅ぼし、エルサレムに住みます。周辺国・民族をはじめとする悪者が彼らの生活を脅かすことは二度とありません。それゆえ、主の民は永遠にエルサレムに住み、しかも永遠の平安が与えられます。
その一方、エジプトとエドムは荒れ果てます。エジプトやエドムで代表される悪者たちは、イスラエルの血を流した悪の報いを受け苦しめられます。しかも、「鎌で刈られ、足で踏まれる」ごとく激しい苦痛が永遠に続くのです。
17-21節から明らかなように、主の日は大逆転の日です。イスラエルはいなごの大災害や他国による苦しみから解放されただけでなく、豊かな実りという繁栄と主とともに住むという平安が永遠に続きます。その反対に、悪をなした国々は欲望のままに悪行を働いて快感や喜びを味わっていますが、最後はさばきを受けます。
この世において主に背いたことによる繁栄は一時的ですが、主の日から始まるさばきによる苦しみは永遠です。反対に、この世において主に従うことによる苦しみは一時的ですが、主の日から始まる繁栄と平安は永遠です。へブル人への手紙でも、著者は地上の人生を旅人・寄留者と呼びました。人にとって何よりも大事なのは「【主】の御名を呼び求める者」となり滅びから救われて、主とともに永遠の繁栄と平安を生きることなのです。
■おわりに
前回申しましたように、ヨエル書3章は「主の日におけるイスラエルの祝福とイスラエルに悪をなした国々へのさばき」の約束が記されています。ただし、「すべての人に主の霊が注がれて、主の御名を呼び求める者は救われる」という約束から、3章は人の救いと滅びを現わしていると解釈できます。
つまり、主の民イスラエルはキリストを救い主と信じた神の子クリスチャンであり、それらが真のエルサレムである天の御国の都で神とキリストとともに永遠に生きるのです。また、主に敵対する者たちはキリストが率いる天の軍勢によって永遠に滅ぼされるのです(ヨハネの黙示録19:11-21)。それゆえ私たちは、「この地上の苦しみは一時的であり、やがて天の御国で永遠の平安を受ける」というヨエル書に記された約束から励ましと生きる力が与えられるのです。
「みことばの光」2018年12月号ではヨエル書3章についてこのような解説がありました。「神を無視する人が栄える一方、神を敬う人が苦しむように見える現実の中で、主の日の約束を覚え、神に信頼して歩もう。」私たちはキリストを信じたのですでに祝福が確定しています。これを私たちの希望、毎日を生きる力にしましょう。
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