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9月7日「私の神、主が来られる(1)神の国の平安」(ゼカリヤ書14章1-11節)

  • 木村太
  • 4 日前
  • 読了時間: 8分

■はじめに

 クリスチャン・ジャーナリスト「フィリップ・ヤンシー」は預言書についてこう書いています。

~最後のメッセージを抜きに、預言書の要点をつかむことはできない。預言者たちは、世界は「宇宙の最終的な破滅」ではなく、喜びのうちに終わると声高に述べている。旧約聖書にある十七の預言書はどれも、希望の言葉に行き着いている。...預言者たちにとって人間の歴史は、それ自体で完結するものではなく、あのエデンの園と、神がやがて創造する新天新地との間にある過渡期なのだ。あらゆることが手に負えなくなっているように見えても、神はすべてをしっかりと支配しておられる。(グレイスノート366日,8/31より引用)~

 いま世界の有様を見るとき、私たちは明るい要素を見出せるでしょうか。どちらかと言えば、ヤンシーが言うように「あらゆることが手に負えなく」思え、「宇宙の最終的な破滅」を予想し、未来への希望を持つのは難しいと思います。けれども、私たちキリストを信じる者はそうではありません。今日は私たちがやがて住む、天の都エルサレムについて聖書に聞きます。

 

■本論

Ⅰ.主はすべての敵をエルサレムに集めて一網打尽にする(14:1-3)

 本論に入る前に、これまでのことがらをおさらいします。預言者エレミヤに告げたとおり、主なる神は70年間のバビロン捕囚からイスラエルの民を解放し、エルサレムに帰しました。帰って来た民は総督ゼルバベル、大祭司ヨシュアの下で、早速、神殿再建に取り掛かりました。ところが、周囲の敵に妨害され工事は18年間も中断したままでした。それで主はゼカリヤを通して八つの幻を示し、エルサレム回復の約束を与えて民を励ましました。その結果、工事は再開され、ついに神殿が完成しました。しかし、神殿が完成しても相変わらずペルシアの支配は続き、神の国は到来しませんでした。それで民は主に失望し、信仰は表面的・形式的となり、偶像崇拝に傾いて行きました。そこで主は再びゼカリヤを通して、メシアによる神の国完成と悪の一掃を明らかにし、エルサレムの住民を再び励ますのです。そして、いよいよ神の民が住む神の都エルサレムの姿について語ります。

 

 「見よ、【主】の日が来る。」と主は宣言し、神の国が完成する主の日に注目させます(1節)。その日、主は「あなた」と呼んでいるエルサレムにすべての国々を集めて、彼らの暴虐をさせるがままにします(2節)。「あなたから奪われた戦利品が、あなたのただ中で分配される。」とあるように、エルサレムの民はなす術がありません。また、都、家、女たちとあるように、都の隅々、弱い者に至るまで、暴虐を振るいます。さらに、民は捕囚あるいは荒れ果てた地で生きるという厳しい生活を強いられます。

 

 けれども主はそのままにしておきません。主は「決戦」すなわち最後の決着をつけるために、自ら出向いてすべての国々と戦います(3節)。つまり、主はご自身を恐れない者をエルサレムに集めて一網打尽にするのです。なぜ主は悪者の暴虐をそのままにし、民の苦しみをそのままにするのかはわかりません。しかし、明らかなのは、主は悪者のすべてを一掃し、この地上から悪を完全に取り去るということです。そして、神を恐れる者は苦しめられても、必ず神の都エルサレムに入るということです。

 

 私たちが生きているこの世でも、神を恐れず悪の道を思うがまま進んでいる人や国があります。その有様に私たちは「神はなぜそのままにしておくのか。なぜ直ちに滅ぼさないのか。」と思います。けれども、主は主の日にすべての悪を完全に永遠に取り除きます。ノアの時代も「地は神の目に堕落し、地は暴虐で満ちていました。(創世記6:11)」が、神は大水によって悪を一掃しました。まさにそのようにするのです。「主の日に主はすべての悪を一掃する」これが私たちの希望です。

 

Ⅱ.主が建てるエルサレムはこの世とは全く異なる(14:4-9)

 続けて主はご自身がなさる3つのことを語ります。一つ目は地理的な変動による救い(4-5節)、二つ目は天体的な変動による救い(6-7節)、三つめは永遠のいのちを与える水(8節)です。

 

①  地理的な変動による救い(4-5節)

 主はエルサレム神殿の東に位置するオリーブ山に立ち、それを南北方向に引き裂くことで東西方向の大峡谷ができます。そこを通って神の民は敵から逃げます。(ポテチの袋を南北方向に引き裂くと東西方向に裂けるように)さらに、「私の神、【主】が来られる。すべての聖なる者たちも、主とともに来る。」とありますので、神の都が完成したので主とともに御使いたちがやってきます。

 

②天体的な変動による救い(6-7節)

 「光も、寒さも、霜もなくなる/昼も夜もない」とあるように、主の日には太陽も月も四季もなくなります。その一方「これはただ一つの日」とあるように、一日の終わりも始めもなく、また「夕暮れ時に光がある」とあるように、暗くなるはずの時間であっても常に光があります。つまり、「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。(黙示録22:5)」と黙示録に記されているように、神の栄光が常に輝いているのです。見方を変えれば、太陽をはじめすべての天体が無くても、人は生きられるのです。その理由が8節です。

 

③永遠のいのちを与える水(8-9節)

 「いのちの水」はイエスがサマリヤの女に語ったように、人にいのちを与える水です。この水が東と西に流れて行きます。イスラエルは南北方向にヨルダン川という水が常に流れています。けれども、東西に流れるのは雨期に限ります。ですから、いのちの水が東西方向に流れ出るというのは、神の国全体にいのちの水があることを示しています。さらに、乾季の夏にも流れますから、いつも流れているのです。加えて、9節にあるように、主だけがありとあらゆるものを治める王となります。人による支配も、自然現象による支配もまったくないのです。それゆえ、神の都は永遠に平安でいられるのです。

 

 その日完成する神の都は、私たちの想像をはるかに超えています。四季もなく昼夜の区別もなく、どこででもいのちの水が流れています。しかも、主が全地を治めているので完全に平安です。どんなふうに生活するのかはここからはわかりません。しかし、神の栄光のもとで完全に永遠に平安を生きるのです。「神の都エルサレムは神がおられ、永遠に平安を生きるところ」これが私たちの希望です。

 

Ⅲ.主の日からエルサレムは永遠に完全な平安となる(14:10-11)

 続いて主はエルサレムとそれ以外の土地について語ります。主は全土すなわちエルサレム以外の場所は「ゲバからエルサレムの南のリンモンまでが、アラバのようになる」と言います(10節)。エルサレムの北に位置するゲバからエルサレムの南のリンモンまでは起伏の多い地形になっています。それが死海の南に位置する平地アラバのようになります。つまり、エルサレムを除く全土が平地になるのです。

 

 それに対してエルサレムは高くそびえます(10節)。エルサレムを取り囲む城壁において、ベニヤミンの門から隅の門は北側の壁で、東の端から西の端を意味し、ハナヌエルのやぐらから王家のぶどうの踏み場は北の端から南の端までを意味します。つまり、エルサレム全体が敵国に責められても損なわれることなく保たれ、他の土地よりもはるかに高くなります。平地の全土に対してエルサレムが突出して高いところにあるというのは、単なる地形の話ではありません。高い位置にあるというのは神のおられる天の近くに至ることですから、神の権威を帯びていると同時に神の聖さに近づいているのです。しかも、高くそびえますから、エルサレムは神と同じ権威、神と同じ聖さを持つのです。

 

 それゆえ、エルサレムはこうなります(11節)。「聖絶の物」とは神の聖さに属さない物を言います。言い換えれば、罪や汚れの物であり、人々に不安や恐れ、不満をもたらします。当然、罪や汚れを内側に持っている人間も聖絶されます。けれどもそういったものすべてが二度と存在しないのですから、エルサレムは永遠に平安と喜びと満足の都となるのです。

 

 「エルサレムは高くそびえ」は黙示録からすれば、地形的に高くなるというよりも、神の権威と聖さを持つ天の都と捉えるべきでしょう。天の都エルサレムは罪や汚れのある平地から完全に隔てられます。その上、エルサレムには敵どころか罪や汚れの物もありません。しかもそこに住む人の内側にも罪や汚れはありません。エルサレムには神を怒らせる要素が一つもありません。だから、そこに住む神の民は永遠に平安を生きるのです。この約束が私たちの希望です。

 

■おわりに

 1-2節の暴虐は、まさにこの世界そのものです。程度の差はあるにせよ、いつの時代もどの地域でも、こういったことが起きています。けれども、イエスの来られる「その日」に、主はすべての悪を一網打尽にします。見落としや見逃しはありません。そして、神の民すなわちクリスチャンは天の都エルサレムで主とともに完全な平安を永遠に生きます。フィリップ・ヤンシーの言葉を借りれば、私たちは「エデンの園とやがて来る天の都との間にある過渡期」を生きているのです。「天の都エルサレムに入る」ことこそが、この地上に生きている私たちの希望なのです。

 

 ただし、このことを忘れてはなりません。本来、私たちは聖絶される側、一網打尽にされる側でした。けれども、神のあわれみによって、私たちの受けるべき神の怒りをイエスが十字架で引き受けてくださいました。イエスのいのちが神の怒りを収めたから、私たちは聖い者と認められ、天の都に入ることができるのです。それゆえ父なる神、子なるイエス、助け主なる聖霊に感謝をささげるのです。

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