8月17日「悔い改めた者には勝利がある」(ゼカリヤ書12章1-14節)
- 木村太
- 8月17日
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更新日:8月18日
■はじめに
使徒パウロは元々イエスを否定し、教会を迫害していました。イエスを信じた後のパウロからすれば「自分は神の怒りを受けて当然」の人間でした。しかし、パウロはよみがえりのイエスに出会い、イエスによって罪を赦され、彼が最も求めていた神の義を認められました。それでパウロは「これまでの人生はちりあくただった」と悔い改めてイエスに仕え、神から栄冠を受け取る者になりました。パウロは神の怒りを恐れて悔い改めたのではなく、神のあわれみによって悔い改めたのです。今日は、自分に向けられた神のあわれみをわかった者はどんな人生になるのかを、みことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.「イスラエルに力を与え攻めて来る国を制圧する」ことを主は宣告する(12:1-9)
主なる神は、イスラエルの民を羊、ご自身を良い羊飼い、といったようにたとえて、良い羊飼いを拒んだ者は羊の商人である諸外国に滅ぼされると語りました。イスラエルの民に誤った選択をしないように警告しているのです。その上で主は、ご自身が神の国イスラエルをどうするのかを語ります。見方を変えるならば、彼らが良い羊飼いを選ぶように期待しているのです。
主はまずご自身のことから語り始めます(1節)。人を含めて天地万物を造り支配している主が、イスラエルの民にことばを言い渡します。つまり、「これから語られることがらがすべてそのようになる」と約束しているのです。その上で、こう言います。(2-3節)
かつてアッシリアやバビロニアが攻めてきたときのように、神の国イスラエルの都エルサレムに、すべての国や民族が攻めてきて都を包囲します。その時主は、包囲した軍勢に対してエルサレムを「よろめかす杯/重い石」にします(2-3節)。「よろめかす杯/重い石」は思いどおりに自分をコントロールできなくさせますので、主は敵の軍勢を無力化して、ひどい傷を負わせます。具体的には、4節にあるように騎兵の騎手をうろたえさせ、軍馬を盲目にして戦力を奪います。
ここで主は「エルサレムが包囲されるとき、ユダについてもそうなる。(2節)」と言います。ユダはイスラエル民族のユダ部族を指していて、イザヤ書にあるようにこの部族からメシアが出て来ます(イザヤ11:1)。また、この宣告では「その日」が繰り返されていますから、メシアが到来する日を扱っています。ですから、その日、ユダ部族に属するメシアとユダ部族を中心として、エルサレムがすべての敵と戦い制圧するのです。
なぜ、弱小のエルサレムが強大な国と戦えるのか、そのことをユダ部族の長たちはこう言います(5節)。この時代、戦争では兵士しか戦いませんが、ここでは住民すなわち一般市民も戦いに加わります。というのも、8節「よろめき倒れる者もダビデのようになり」とあるように、万軍の主がすべての住民をダビデのような勇者にするからです。それゆえ、ユダ諸氏族の族長たちはすべての民を率いて勇敢に戦えるのです。
そして主は族長たちを「薪の中にある火鉢/麦束の中にある燃えるたいまつ」のように用います(6節)。薪や麦束に火がついてあっという間に燃え尽きるごとく、イスラエルを攻め込む者すべてがあっというまに滅ぼし尽くされます。その一方、戦場になっているエルサレムは無傷のままです。すべての国や民族に対してエルサレムは完全勝利するのです。
ただし、主はこう言います(7節)。「ダビデの家の栄えと、エルサレムの住民の栄え(7節)」とあるように、ユダ部族ダビデの直系であるメシアを中心にエルサレムが戦い勝利しますから、彼らが賞賛を得ます。けれども、主が「ユダの天幕」と言うように、ダビデの直系以外のユダ部族すべてをまず敵から救います。つまり、主は神の民に優劣をつけないのです。見方を変えるならば、神の力によって勝利したのに、「私たちの部族によって国が守られた」といった高慢となる隙を与えないのです。「その日、わたしはエルサレムに攻めて来るすべての国々を根絶やしにしよう。(9節)」とあるように、どれほど強大な国でさえも主が根絶やしにして、エルサレムを完全に永遠に平和にするのです。ほめたたえられるのは主お一人なのです。
捕囚からエルサレムに戻ったイスラエルの民は神殿を再建しました。しかし、いまだ周辺の敵から脅かされ、しかもペルシア帝国に支配されたままです。その上、目に見える驚くような恵みもありません。それで、人々の信仰は萎え、他の神々に引き付けられてゆきました。そんな中、主は「ユダ部族のメシアを中心として、エルサレムが全世界に完全勝利する」と約束するのです。気落ちしている民にとって大きな励ましと希望になるでしょう。
そしてこの約束は現代の私たちにも及んでいます。ユダ部族から出たイエスが再び来られる「その日」、イエスを救い主と信じる私たちは神の都エルサレムに入ります。その一方、この世のすべての国や民は完全に滅びます。と同時に、その日に至るまで私たちキリスト者、もっと言うならば教会がこの世で「よろめかす杯、重い石、火鉢、燃えるたいまつ」となって勝利するのです。ただ、勝利とは力で圧倒するのではなく、私たちや教会に触れた人々が万軍の主の力によって、イエスを信じ私たちの仲間になるのです。私たちや教会の存在がこの世を変えてゆくのです。
Ⅱ.主のあわれみをわかった者は罪を嘆いて悔い改め、主に従って歩み、やがて神の国に入る(12:10-14)
エルサレムの完全で永遠の勝利を約束した上で主はこう語ります(10節)。主は、ダビデの家と呼ばれるユダ部族を含むエルサレムの人々に「恵みと嘆願の霊」を注いで、彼らを激しい嘆きに導きます(10節)。エルサレムの完全勝利の約束ですから、主への希望や感謝を求めそうなところですが、主は激しい嘆きを求めるのです。不思議としか言いようがありません。結論から言うと、主は罪を嘆くことで罪を悔い改めて、ご自身に従う心を起こさせようとしているのです。
主が注ぐ「恵みの霊」は、本来の意味では「犯した殺人に対する悔い改め」を起こす主の働きを言います。また「嘆願の霊」は「主に恵みを乞い願う心」を起こす主の働きを言います。つまり、「自分たちが犯した背きを悔い改めて、主に恵みを求める心」を主は湧きあがらせるのです。
その心によって彼らは「自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て」激しく嘆きます。「突き刺した」は「無礼/侮辱/蹴とばす」を意味しますから、まさに主を無視したり背き続けることが、主を突き刺しているのです。イスラエルの歴史を振り返ると、彼らの父祖たちは主に背き続けました。しかも、捕囚から戻って来た自分たちも主に疑いやあきらめを抱いています。けれども、主はアブラハムとの契約に基づいて、どれほどご自身の民が背いても契約を破棄することなく、契約どおり「主に従えば祝福する」のです。さきほどの、メシアによるエルサレムの完全勝利の宣告も契約に基づいています。
つまり、本来であれば滅ぼされてもいいはずなのに、「主が自分たちを祝福しようとする」そのあわれみに対して、「私はなんてひどいことをしたのか」と嘆くのです。異国の地にあって預言者ダニエルもこう嘆いています。「あわれみと赦しは、私たちの神、主にあります。まことに、私たちは神に逆らいました。(ダニエル書9章9節)」しかも、主のあわれみがとてつもなく大きく深いので、彼らは主に背いたことを激しく嘆くのです。
その激しさは、ひとり子を失ったときのように、あるいは彼らにとって特別な存在である長子を失ったときのようなのです(10節)。あるいは、確かな学説はないものの、ハダド・リンモンのための嘆きのように大きいのです(11節)。加えて、激しい嘆きは特定の人だけではありません(12-14節)。
「あの氏族もこの氏族もひとり嘆く」は、すべての氏族の一人一人が自らの背きを嘆いている様を言います。またダビデの家は政治指導者の一族、レビの家は宗教指導者の一族であり、一方、ダビデの子ナタンとレビの孫シムイは目立った存在ではありません。つまり、あらゆる指導者の中心から末端に至るまで嘆くのです。また、「その妻たちもひとり嘆く」とあります。当時、すべての責任は夫にあり妻は従属的な存在でした。ですから、妻が嘆くというのは、主への背きを夫のせいにするのではなく、自分のこととして捉えているのです。
イスラエルは、これまでさんざん背いてきて、国の滅亡というこの上ない罰も受けました。とうてい、主からの祝福を受けられる立場ではありません。けれども、主はメシアを中心として神の国を完全に回復し永遠に保つと約束します。主の計り知れないあわれみを前にして、「本当に自分はひどい者だ」とすべての民が嘆くのです。これが、表面的・形式的ではない、心の底からのまことの悔い改めをもたらします。そして、この悔い改めが、神の国の完全勝利という神の祝福に至るのです。
■おわりに
イエスを自分の救い主と信じていないとき、私たちにとって十字架は単なるキリスト教のシンボルくらいの扱いでした。十字架は自分とはまったく無関係でした。しかし、神から恵みと嘆願の霊を注がれて、私たちは自分と十字架のつながりをわかりました。それは、私たちが受けるはずの神の怒りをイエスが代わりに受けたのが十字架刑だからです。
今や、十字架のイエスを仰ぎ見るとき、私たちはイエスの苦痛、犠牲を払った神のみこころ、そして自分のせいでイエスが十字架にかかったことをはっきりわかり、自分の罪を嘆きます。ただし、私たちは嘆きで終わりません。罪の嘆きから、「罪から神に向きを変えて、あわれんでくださった神のために生きよう」という決意が生まれるのです。それゆえ罪を嘆いて悔い改めた者が「天の御国、永遠の平安」という勝利に至るのです。
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