8月24日「罪と汚れのきよめ」(ゼカリヤ書13章1-9節)
- 木村太
- 5 日前
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■はじめに
三笠に来てから生まれて初めて家庭菜園を始めました。やってみてわかったことですが、作物はただ種をまいたり、苗を植えればいいというものではありません。まず、苗や種が成長するために石を取り除き、苦土灰や肥料を混ぜ込みながら耕して土をふかふかにします。発芽や苗を植えた直後では寒さでダメにならないようにビニールで覆います。また、花が咲き出すと実を大きくするために不要な葉を取ったり、あるいは摘花といって良い実になりそうな花だけを残してそれ以外を摘み取ります。そうして見た目にも良く、おいしい実がなるのです。これら一連の作業を振り返ると、神がご自身の目から見て良い人を作り上げる工程に似ていると思わされます。今日は、神はどんなふうにして神の国にふさわしい人を育てるのか、このことを聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.主は「罪と汚れ」を引き起こすものを取り除く(13:1-6)
主なる神は、メシアとその部族であるユダ族、そして神の国イスラエルの都エルサレムを中心として、イスラエルを全世界に勝利させると約束しました(12章)。これによって、イスラエルは政治的にも宗教的にも外敵から脅かされることなく、外部からは永遠に平和になります。ただし、イスラエルが神の国にふさわしくなるためには外敵を除去するだけでは不完全です。なぜなら国の内部も神の目から見て完全にしなければならないからです。神の国には神の国にふさわしい者だけ住むのです(マタイ22:1-14)。
最初に主はこう宣言します(1節)。メシアによって神の国が建てられるその日、主によるきよめがなされます。「ダビデの家とエルサレムの住民」とあるように、彼らはイスラエルの政治・宗教の中心であり、国全体に大きな影響を与えています。と同時に、国の中心であるがゆえに偶像崇拝や偽預言者もはびこっていました。それで、主は「罪と汚れ」をきよめるのです。「罪」は主に背くことであり、「汚れ」は主を不機嫌にし嫌な思いをさせることです。つまり、あたかも泉のきれいな水で洗い流す如く、主のみこころに沿わないものごとすべてを一掃するのです。いわゆる信仰の浄化です。
主は信仰の浄化を宣言したのち、何をするのかを具体的に示します。結論から言うと主は2つのことをなさいます。
①「罪、汚れ」を引き起こすものを除去:主以外に頼らせようとする原因を取り除く。外側のきよめ
②主以外に頼ろうとする心を除去:主だけに頼るようになる。内側のきよめ
主はまず外側のきよめを語ります(2節)。「偶像の名」とあるように、主は現地の神々の像そのものだけでなく、その神を崇めるあらゆる行為を完全に除去します。また、異教の神々の名によって語る預言者いわゆる偽預言者と彼に偽りを語らせようとする霊を一掃します。見方を変えれば、人が自ら頼ろうとする対象と他者からの誘惑を取り除くのです。つまり、主以外に頼れそうなものすべてを地上から取り除くのです。そしてこのきよめは徹底的であり、人々に完全に浸透してゆきます。3節にあるように、主が偽預言者を一掃したのち、もし偽預言者が出てきたならば彼の両親が彼を刺し殺します。自分の子の命を失くしてまでも、民全体の滅びを阻止しようとするほどきよめは厳しいのです。
それゆえ、偽預言者は命を守るために偽の預言を止めます(4節)。彼らはこれまで毛衣という預言者のマント(ユニフォーム)を着て、自分の言葉に神の権威を持たせていました。しかし今や、その言葉が偽だとバレたので彼はいたたまれなくなり預言を止めるだけでなく、預言者のしるしである毛衣も脱ぎます。
それだけでなく彼は、自分が偽預言者ではないと主張します。「私は土地を耕す者だ。若いときに人が私を買い取った(5節)」とあるように、彼は「私は人に買われた奴隷で畑の労働者だ」と言い訳します。最も身分の低い奴隷と言ってまでも命を助かりたいのです。また、ある偽預言者は両腕の間すなわち胸や背中の傷を指摘されます(6節)。当時、異教の礼拝では恍惚状態となるために刀や槍で体に傷をつけたからです(Ⅰ列王記18:28)。この指摘に彼は、愛人の家で争った際にできた、と言い訳します。大変な恥をかいてまでも命を助かりたいのです。そうなるほど、主による信仰の浄化は厳しく徹底的なのです。
イスラエルの民が約束の地カナンへ入るに当たり、神は異邦人を聖絶するように命じました(申命記7:1-6)。なぜなら、そのままにしておいたら必ず異邦人の影響で偶像崇拝に至るからです。私たちは神との関係に満足しているときは、神以外の何かに安心や喜びを見出しません。しかし、何らかの試練にぶつかったときに神を疑ったり、満たされないと他に頼る性質を持っています。だからといって、他の人のものを勝手に壊したり、命を奪うことは許されません。ですから、強く惹かれるようなものや人を遠ざけたり、遮断する必要があります。あるいは神の働きによって引き離されることもあります。私たちは信仰を持っていても神以外に惹かれる弱さがあることを自覚しましょう。
Ⅱ.主はご自身以外に頼ろうとする心を取り除く(13:7-9)
次に主は信仰の浄化について人の内面を扱います。7節「わたしの羊飼い/わたしの仲間」とあるように、主はご自身が仲間と認めご自身に仕える羊飼い、すなわち良い羊飼いを剣で打ちます。剣は本来神のさばきですけれども、それが主の羊飼いに及びます。まさに良い羊飼いの受難です。ただし、これには目的があります。
良い羊飼いを失って羊たちは散り散りになります。けれども、「小さい者たち」は主の手によって助かります。「小さい者」とは主に対して謙遜な者、へりくだった者を言います。つまり、良い羊飼いを打つことで、主に頼る者かどうかを試しているのです。その様子を主はこう言います(8節)。
「三分の二/三分の一」は数字的な割合ではなく、散らされた後でいのちを断たれた者が助かった者よりもはるかに多いことを意味します。ですから、散り散りになっても主に頼る者よりも頼らない者の方がずっと多いのです。ところが主は滅びを免れて残った者たちをそのままにしません。見方を変えるならば、そのままの状態を良しとしていないのです。
主は銀や金を精錬するように主に頼る者をさらに練ります(9節)。この時代の方法では、金や銀は不純物を取り除く物質と一緒に高温の炎によってるつぼで溶かされます。そして、不純物が取り除かれて金や銀の純度が高まります。それと同じように、主を頼る者も「火でどろどろに溶かされるような」試練によって純度が高められるのです。試練は主を信頼して生きようとする心をくじきます。その時、主以外に頼ろうとする心を退けて、主に頼り続けた者は主の働きを経験し、さらに主への信頼が高まります。いわば、試練が主以外に頼ろうとする心を削ぐのです。このことを専門的な言葉で言うと聖化とか純化といいます。
そして純化された者の姿が9節後半に描かれています。「彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『【主】は私の神』と言う。」純化された者は主だけを見て、主だけに頼ります。それで主はその人の求めに答えるのです。純化された者と主との間には妨げるものが一切ありません。一切ないというよりも、妨げるものが入り込む余地がないのです。まさにこれが天地万物を創造した時の人と神との姿であり、これが人本来の姿なのです。そしてこの関係こそが、決して揺るぎない安心と満たしで人を包むのです。主の試練は苦しませるためではありません。主を信頼する者が試練を通して主の働きをわかり、主の恵みを受け取り、ますます主を信頼するようになり、ますます主からの平安で満たされるためなのです。
■おわりに
イエスはご自分が逮捕された時、12弟子が全員逃げて散り散りになることをご存じだったので、ゼカリヤ13:7を引用しました。「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。(マタイ26:31)」イエスの一番弟子を自認していたペテロはこのことばどおり逃げました。しかし彼はよみがえりのイエスに再会して、イエスを信じ続けました。いわば1/3に留まったのです。ただし、その後のペテロの人生は順風満帆ではありません。「人を恐れる」という彼の性格からイエスを遠ざけたことをパウロに叱責されたこともありました(ガラテヤ2:11-14)。様々な苦難によってペテロは精錬されていったのです。それで晩年の手紙にこう記しました。「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。(Ⅰペテロ1:6-7)」
私たちもペテロと同じようにイエスを救い主と信じたため、すでに1/3に入っています。そしてペテロと同じように様々な試練にあいます。その時、神を頼り続けるのか、それとも神以外に頼るのかが問われます。「神に信頼しても何にもならない」「信仰を捨てて逃げ出したくなる」そんな気持ちが湧いて来ます。けれども大変なときこそ神への信頼を強くするのです。なぜなら試練の中に神の働きを経験し、それによって神との関係が強まるからです。試練を通して私たちはますます神の国にふさわしい者へと整えられます。試練を通して私たちは、何があっても揺るがない者へとますます変えられてゆくのです。これも神のあわれみのゆえです。
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