・はじめに
今日の聖書箇所に至るまで、使徒ヨハネはイエスによる4つの奇蹟を記しています。
①カナの婚礼で200リットル以上の水をぶどう酒に変える
②遠方にいる王室の役人の子どもの病を治す
③38年間床に伏していた者を治す
④男性五千人を含む群衆をわずかな食料で満腹にする
いずれも、当時はもちろんのこと現代の科学をもってしても絶対に説明できません。もし、皆さんの前にこれを実現した人が現れたらどうしますか。不治の病を治して欲しいとか、貧困を脱出させて欲しい、あるいはユダヤ人のように属国から開放されたいという期待が生まれても不思議ではありません。そこで今日は、イエスが何のために奇蹟を行ったのかを聖書に聞きます。
Ⅰ.群衆はイエスに求めるものを間違っていた(6:15-26)
おびただしい群衆が奇蹟を求めてイエスと弟子たちの後をついてゆきました。その群衆をイエスは5つのパンと2匹の魚で満腹にしました。それで群衆はこの奇蹟を体験したので、イエスをローマから解放する王として追い続けます。
イエスは弟子たちだけを対岸のカペナウムに行かせました(16節)。ご自分を求める熱狂的な群衆から弟子たちを引き離すためと思われます。舟が岸から4,5km行った所で、強風のため進みが止まりました(17節)。その時弟子たちは、イエスが水面を歩いて舟に近づいているのに気づきました(18-19節)。ここで彼らはイエスだと認めていたにもかかわらず、その姿を幽霊だと思い恐れたのです。様々な奇蹟を目撃してもなお「イエスが神の権威を持っていること」を弟子たちはいまだ信じていなかったのです。
恐れている弟子たちにイエスは「わたしだ。恐れることはない。」と語り(20節)、乗船した舟はすぐに目的地カペナウムに着きました(21節)。イエスが乗ったとたんに強風が止んだのです。つまりイエスは「水面を歩く/強風を鎮める」といった自然を支配できることを弟子たちに示したのです。彼らは、イエスに不可能はないことを目の当たりにしました。
一方、奇蹟を体験した群衆はどうしていたのでしょうか。群衆は翌日も奇蹟を期待して同じ場所にやって来ました(22節)。彼らは弟子たちだけが舟に乗ってカペナウムに向かったのを知っていました。しかも舟は一艘しかなかったので、イエスはこちらのどこかにいると思っていました。しかし、イエスも弟子たちもそこにいないので、彼らは自分たちの場所にやって来た舟に乗り込んでカペナウムに向かいました(23-24節)。イエスを求める執念としか言いようがありません。
群衆はイエスが舟に乗っておらず、湖畔を歩いてもいないのを知っていたので、どうやってここに来たのかを尋ねました(25節)。彼らもまたイエスが持つ神の権威を理解していなかったのです。そこでイエスはこう答えました(26節)。
全然質問の答になっていませんが、イエスにとって大事なのはご自分を求める動機なのです。イエスの言う「しるし」とは、「イエスが人と神とをとりなす者である/イエスを通して神の恵みが与えられる」これをパンと魚の奇蹟が明らかにしていることです。ところが群衆は「パンを食べて満腹したから」とあるように「不思議な方法で自分を満足させてくれる方」その証拠があの奇蹟だと捉えています。言葉を加えるならば、「イエスはあらゆる問題や困難を解決してくださる」そのようにイエスを見ているから、彼らはイエスを必死に求めているのです。この時点では弟子たちも群衆も、「イエスによって永遠のいのちが与えられる」これのしるしが数々の奇蹟だとわかっていませんでした。
私たちも神にとって不可能はないと信じ、イエスにも不可能はないと信じています。それゆえユダヤ人の群衆と同じように、「自分の抱えている問題を解決する方」と期待してイエス求めることがあります。けれどもイエスの奇蹟は「私はあなたの願いを全部かなえます。」と信じてもらうためではありません。イエスは私たちの便利屋ではないのです。イエスの奇蹟は「イエスが人と神とをとりなす者である/イエスを通して神の恵みが与えられる」これを明らかにするためのものなのです。人に何をするのかは神の主権にあります。
Ⅱ.イエスは永遠のいのちのためにこの世に来たのであり、人の欲求を満たすためではない (6:27-33)
イエスは、群衆の間違った理解と期待を指摘した後、ご自身の真理について語ります(27節)。イエスは「食べたらなくなるような食べ物」に従事しないように、と言います。これは腹を満たすといったことをはじめとして、自分を満たすことに従事するなという命令です。なぜなら「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」とあるように、人にとって最も大事なのは滅びを免れて永遠のいのちを受けることだからです。いくら思い通りの人生を生きたとしても、永遠に苦しむ滅びに行ってしまったら、そちらの方が悲惨だからです。
そして「それは、人の子が与える食べ物です。」とあるように、「いつまでもなくならない永遠のいのちに至る食べ物」こそがイエスなのです。さらに「この人の子に、神である父が証印を押された」とあるように、「この者を通して永遠のいのちを与える」という認証を神がイエスに与えました。だから、ユダヤ人のように自分を満たすためにイエスを求めるのではなく、永遠のいのちを神から受けるためにイエスを求めなければならないのです。
イエスのことばを受けて群衆がイエスに尋ねます(28節)。群衆は「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物」は神のわざ以外あり得ない、と思い何をすれば良いのか聞きました。イエスの「働く」ということばから、「何かをする」発想になっています。
この問いにイエスはこう答えました(29節)。イエスは、神が地上に遣わした者すなわちイエスを信じれば、その人に神のわざがなされる、と言います。「何かをする」のではなく「イエスを信じる」ことがイエスを食べることであり、「永遠のいのちに至る食べ物のために働く」ことなのです。「滅びからの救い」は行いではなく、イエスを信じることによって与えられます。
ところが群衆は、神が遣わした者がイエスであるという証拠を求めました。(30節)あのモーセのように何もない荒野で天からマナ(パン)を降らせるようなしるしを見せれば信じる、と言うのです(31節)。
そこでイエスは答えました(32-33節)。イエスはモーセがパンを与えたのではなく、神が与えたと言います。マナの出来事を見るとモーセがパンを与えたように見えますが、モーセはあくまでも民と神との間をと取りなす役割であり、マナを降らせるかどうかは神によります。
ただし、「わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。」とあるように、今ユダヤ人に与えられるのはマナではなく、まことのパンです。そしてこの神が与えるまことのパンは天から下って来たものであり、この世の人々に永遠のいのちを与えます。
先ほど「いつまでもなくならない永遠のいのちに至る食べ物」こそがイエスと話したように、イエスが神のパンなのです。イエスが天から下って来て、この世界に永遠のいのちを与えるまことのパンなのです。それゆえ、まことのパンであるイエスを食べること、すなわちイエスを信じることが永遠のいのちに至るのです。パンと魚の奇蹟はこのことを目に見える形にしたしるしですから、ユダヤ人はすでにしるしを体験していました。けれども彼らはその真理に気づいていないので、イエスが教えたのです。
・おわりに
本来、私たちは神に従えない性質いわゆる罪があり、そのため神の怒りによって永遠の滅びに行かなければならない存在でした。地上の人生で数多くの苦しみを通った後、さらに悲惨かつ永遠の苦しみに行かなければなりませんでした。しかし神は人を大切にするがゆえに、そのままにしておかないのです。イエスという永遠のいのちに至るパンを天からこの地上に遣わしてくださいました。そして、イエスを食べる者すなわちイエスを信じる者にイエスを通して永遠のいのちを保証しました。聖書に記されている奇蹟はそのことを伝えるためのしるしです。また、私たちに起きる奇跡としかいいようのない出来事も「イエスが永遠のいのちに至るパン」を伝えるためのしるしなのです。
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