■はじめに
日本の義務教育では日本史や世界史といった歴史を学びます。ただ世間では暗記する科目というイメージが強く、歴史を学ぶことの大切さが浸透していないように思えます。私もその一人です。興味深いことに、パウロは歴史を知ることの大切さをこう訴えています。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。(Ⅰコリント10:11)」パウロは、荒野でイスラエルの民が神に背き大きな罰を受けた記録から学ぶ必要があると説いています。時代が進むとともに人の知識や知恵は深くなりますが、「神に背く」という人の本質は変わらないからです。今日は、イスラエル民族の歴史から、私たちの性質とそれへの対処方法について見てゆきます。
■本論
Ⅰ.イエスによる救いの喜びを忘れずイエスへの信頼を保てば、神に対して頑なにならない(3:7-14)
モーセはイスラエルの民が約束の地カナンに入るために、民と神に忠実に仕えて人々を導きました。同じように、イエスも神に忠実に仕え、自らなだめの供え物となって私たちを滅びから救い、天の御国に至るまで大祭司として私たちを導き助けています。それゆえ私たちは、どんなときでもイエスを信頼しイエスに希望を持てるのです。ただし、読者であるユダヤ人クリスチャンのように、激しい苦難が長引くとイエスへの信頼が薄らぎ、イエス以外に頼りたい気持ちが起きます。これが人の本質だからです。そこで著者は「確信と希望による誇り(ヘブル3:6)」が薄れてきたらどうなるのかを、ユダヤ人の歴史から語ります。
7-11節は詩篇95篇を引用しています。この詩篇では、読者の父祖であるイスラエル民族がエジプトを脱出したあと荒野で神に逆らった出来事を取り上げています。それで7節「聖霊が言われるとおりです。」とあるように、読者への教訓とするために聖霊が過去の出来事をこの時代に適用しているのです。
イスラエルの民はエジプトを脱出してから40年間、モーセをリーダーとして荒野を歩き、神が約束したカナンを目指しました。しかし、旅の中で彼らは神に頑なでした(8節前半)。8後半-9節はその様子を描いています。
8節「荒野での試み」とあるように、彼らは荒野で水(出エジプト15:24,17:1,民数記20:2)や食糧(出エジプト16:3,民数記11:4-6)の不足、あるいはカナン偵察の驚くべき報告に直面しました。これらは「エジプトから解放した神がいるから恐れることはない」という神への信頼を貫けるかどうかのテストでした。ところが人々は苦しみや不安、恐れを口にし、神に逆らいました。そればかりかエジプトにいた頃のことを懐かしみ、神がこの状況を解決できるかどうか試したのです。違う見方をすれば、エジプト脱出という神のみわざに目を止めず、神のあわれみを台無しにしているのです。詩人が「頑な/逆らい/試し」と書いたように、イスラエルの民は神よりも自分を上に置いています。だから神を信頼して委ねるよりも、自分の思い通りにして欲しいと訴えたのです(9節)。
この生き方に神はこう言います(10-11節)。本来、イスラエルの民は神の道すなわち神に従うはずであり、迷いはないはずです。しかし、彼らは神ではなく自分という道を選んでいます。それはあたかも異邦人のように神の道を知らない人々のようなのです。それで神は「彼らは決して、わたしの安息に入れない。」と怒り誓い、「安息」すなわちカナンという約束を覆します。でもそれは彼らが神の民でありながら異邦人のように神の民ではない生き方をしているからなのです。約束の地カナンに入れないのは、あくまでもイスラエルの民が原因なのです。
このイスラエル民族の失敗をふまえて、著者はユダヤ人クリスチャンに警告します(12-13節)。神の怒りを受けないためには、罪の誘惑すなわち自分を最優先にして神の道から外れないことが肝心です。ただし「あなたがたのうちに...離れる者がないように/日々互いに励まし合って、だれも...頑なにならないように」とあるように、教会全体が不安になっているときにおいては、たった一人の脱落も全体に大きな影響を与えます。その上、迫害というイエスから引き離そうとする強い力が働いています。だから、「今日」すなわち神の民として生きている間は、痛み・苦しみ・恐れ・不安を互いに分かち合って支えなくてはならないのです。「私たちを助けてくださった神がいるではないか」という励ましです。神がイスラエル民族を神の民としたように、信仰生活は孤独ではなく、神の家族いわば教会の仲間と共に送るのです。
さらに、クリスチャンが頑なにならず神の道にとどまるのは神の怒りを受けないためだけではありません。クリスチャンはすでにキリストによる救い、言い換えれば御子を犠牲にするほどのあわれみにあずかっています。しかも、決まりを守ったとか善行をしたことの報いではありません。神の一方的なあわれみです。だから神の道に留まるのです(14節)。
そして「神の道に留まろう」を起こさせる原動力が14節「最初の確信を終わりまでしっかり保つ」です。イスラエルの民はエジプト脱出直後は神を恐れ神を信じモーセを信じました(出エジプト14:31)。彼らは人知を越えた神のわざを何度も経験し、エジプトからの解放というこの上ない喜びに浸りました。それと同じように、「イエスの十字架によって救われて天の御国に入れる/イエスはいつもともにいて助けてくださる」この感動や喜び、感謝が「頑なにならず神に信頼し従う」という意思を生み出すのです。「御子を犠牲にするほどまでに神は私をいつまでも大切にしている。」これが私たちの土台であり、互いに励ますことばです。
Ⅱ.イエスを通してすばらしい救いを得たにもかかわらず、自分を最優先にする者を神は怒る(3:15-19)
さて著者は「頑なにしてはならない。」という警告を再び掲げて(15節)、「頑な」について筋道を立てて語ります。
16-18節を見ると、著者は「誰にですか/誰に対してですか」「~ではありませんか。」と語りかけ「○○をしたのはまさに彼らだ」を強調しています。また16節を含めて3度繰り返していますから、よほど強く言いたかったのでしょう。「決して頑なになってはいけません」という著者の気持ちが込められています。
まず16節では「モーセに率いられてエジプトを出た、すべての者たち」とあるように反抗した人物に焦点を当てています。エジプト脱出の経緯から明らかなように、イスラエルの民は割れた海を渡る出来事をはじめとして人知を越えた神のわざによってエジプトの奴隷から解放されました。しかも彼らは奴隷の苦しみを神に叫んだだけで、彼らの努力で解放されたのではありません。神の深いあわれみを受けた者たちが神に反抗したのです。
続く17節では「罪を犯して、荒野に屍をさらした者たちに対して」とあるように、憤りの原因に焦点を当てています。罪を犯すとは神のことばを守らないことであり、神よりも自分を優先する姿です。
ここでは「安息に入らせないと誓われた」とあるように神の罰を受ける者に焦点が当てられています。その答えが「ほかでもない、従わなかった者たち」です。「罪を犯す」は「○○をしたい」という意思に重きを置いていますが、「従わない」は「神をどう捉えているか」に重きを置いています。先ほど申しましたように、イスラエルの民はエジプト脱出直後は神を信じ従っていました。それからすれば、「従わない」は神への恐れと感謝を失った証拠なのです。
これらのことがらを著者はこのようにまとめます(19節)。イスラエルの民における不信仰とは「エジプト脱出という神のあわれみを受けているにもかかわらず、神への恐れや感謝を失って自己中心になっている姿」と言えます。これをクリスチャンに適用するとこうなります。「イエスの犠牲による救いという神のあわれみを受けているにもかかわらず、神への恐れや感謝を失って自己中心になっている姿」これが不信仰です。それゆえ不信仰になってますますイエスからの平安や希望を失うことにならないように、手紙の著者は歴史から語るのです。
■おわりに
今、読者であるユダヤ人クリスチャンは長く続く迫害によってイエスから離れそうになっています。イエスを信頼することに反抗し、イエスではない「御使い礼拝」へ揺れています。彼らの父祖たちがエジプト脱出から安息であるカナンに至る中で試みを受けているように、彼らも救われてから御国に入るまでの人生という旅の中でたいへんな試練に遭っているのです。だから著者は父祖たちの失敗を取り上げて、不信仰にならないように警告するのです。イエスの救いにすでにあずかった者として、救われた時に抱いていたイエスへの信頼と希望を保つように勧めるのです。
ユダヤ人の父祖たちと同じように私たちも人生という荒野を旅しています。そして彼らや迫害に遭っている読者たちと同じように、様々な痛みや悲しみや不安や恐れによってイエスへの信頼が薄れイエスではない何かに安心を求めてしまうものです。「こんなにすばらしい救い」と喜び感動していたのに、いつの間にか忘れたり、苦しみが大きすぎて消えそうになります。あるいは、「昔の方がましだった」と、救われる前を懐かしんでしまうこともあります。
しかし救われる前と後では全く違う人生になっています。イエスによって救われる前は、助けを叫んでも助かるかどうかはわかりません。けれども、今は助けを叫んだら必ず応えてくださるイエスがおられます。「十字架で死んで私たちの罪を赦す方。死からよみがえり死に勝利した方。天に戻り天の御国に導いてくださる方。神と私たちをとりなしてくださる方」このイエスがいつもどこでもともにおられます。この確信を持ち続けることが何よりも大切です。
Comments