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木村太

11月21日「イエスの態度とペテロの態度」(ヨハネの福音書18章15-27節)

■はじめに

 聖書の登場人物で言い訳をした最初の人はアダムです。神がアダムに「あなたは食べるのを禁じた木から食べたのか?」と尋ねた時、彼は「この女が私にくれたから食べた。」と答えました。与えられても食べるかどうかは自分の判断ですから、彼は「自分が判断したのではない。」というウソに加えて、エバに責任を押しつけたのです。この時から人は神に対して正直であるよりも、自分の安心や立場を守る方を優先するようになりました。今日はイエスとペテロの姿から、身に危険が及ぶ中でイエスはなぜ堂々とできたのかを見てゆきましょう。


■本論

Ⅰ.ペテロともう一人の弟子は自分の考えでピンチを乗り切ろうとした(18:15-18)

 ゲツセマネの園で、イエスは数百人のローマ兵と神殿警備員に捕らえられ、大祭司カヤパの義父であり前の大祭司であるアンナスの所に連れて行かれました。


 大祭司の知り合いであるもう一人の弟子が誰かは聖書で明らかにされていませんが、有力な学説ではヨハネとされています。この弟子とペテロはイエスが逮捕された時はイエスを捨てて逃げましたが、事の成り行きを見たいのでイエスの後を追ってアンナスの家に来ました(15節)。イエスのことが心配だったのでしょう。ただし、二人にとっては敵の陣営に乗り込むようなものです。しかも、門番がいますから誰でも入れる訳ではありません。


 ここで、もう一人の弟子は時の最高権威者である大祭司と知り合いなので、イエスと一緒に入ることができました。もし大祭司と何の関係もないのなら入れないだけでなく、イエスの弟子と疑われ捕まるかもしれません。つまり、この弟子はイエスを信じると言っていながらも、イエスの敵である大祭司の権力を頼っているのです。


 一方のペテロは中に入る手段がないので、門の外で立っていました(16節)。それを見たもう一人の弟子は門番をしている召使いの女に話を付け、ペテロを中に入れました。その時、門番の女はペテロにこう言いました。(17節)


 他の福音書によれば、この女はペテロがイエスと一緒のところを見た、と証言しています。おそらく、ゲツセマネではなく町で一緒のところを見たのだと思われます。ペテロはイエスを逮捕した者たちの本拠地に入る上、大祭司の知り合いという身を守る術もありません。ですので、このことばはペテロを恐怖に陥れました。それで彼はすぐさま「違う(直訳:私ではない)」と答えたのです。彼女のことばに賛同者がいないので、言い逃れができると思ったのかもしれません。


 イエスと一緒にいる時ペテロは、「決してイエスを見捨てて逃げないし、イエスを知らないなど決して言わない。(マタイ26:33,35)」とイエスに語っていました。けれども今は、恐れに支配されて、イエスのことよりも自分を守ることしか頭にないのです。


 ところが中庭に入ったペテロは、しもべや下役つまりイエスを捕まえた側の者たちと一緒に暖をとりました(18節)。誰もペテロをイエスの弟子と疑っていないし、集団の中に紛れる方が安全だからです。ここでもペテロは自分を守ることを第一としています。


 ペテロともう一人の弟子はゲツセマネの園でイエスと一緒でした。ですから敵の本拠地であるアンナスの家で、イエスの弟子だと知られれば間違いなく捕まります。アンナスは弟子たちのこともイエスに尋ねているからです(19節)。でも彼らはイエスゆえの危機を逃れました。一人は大祭司という権力に頼り、もう一人のペテロは自分の考えに頼りました。イエスや神ではなく人を恐れ、イエスがいるから大丈夫という安心を失っているのです。


 私たちも彼らと同じようにイエスを信じ、イエスがいつもともにいるから大丈夫と信頼しています。ただし、いまだイエスではないもの、例えば人や財産や知的・肉体的力に頼ろうとする心が私たちの内側にあります。イエスに頼り切れない彼らは私たちの姿でもあるのです。


Ⅱ.ペテロが人を恐れるのに対し、イエスは神を恐れているからこの世の権力者の前でも堂々としている(18:19-27)

 ここで場面はイエスに切り替わります。イエスはまず前の大祭司であるアンナスから尋問されます(19節)。手続き的にはアンナスの尋問は必要ありませんから、おそらく最高法院の有力者であるアンナスの顔を立てたからでしょう。アンナスはイエスを有罪にするためイエスが何を人々に教えたのかを尋ねました。それに加えて、散り散りに逃げた弟子たちのことも聞きました。イエスの仲間を一掃するためです。


 イエスは答えます(20-21節)。イエスは弟子について一言も触れていません。弟子に危険が及ばないための優しさが現れています。それとは対照的に自分のことははっきりと答えています。イエスは父から預かった教えを一対一のような個人的に語らず、いつも会堂や宮など大勢のユダヤ人の前で語りました。しかも、特定の人々を閉じこめた密室ではなく、誰でも入って来られるように語っています。


 それでイエスは、私個人から証言をとるのではなくて、私の教えを聞いた人々から証言をとるように、と逆に大祭司に命じたのです。律法では、事実確認には複数の証言を必要としているので、イエスの提案は律法にかなっています。当事者であるイエスの証言だけで判断しようとしているアンナスの方が律法に沿っていません。


 イエスの答えに、すかさず役人は平手でイエスを殴りました(22節)。「大祭司にそのような答え方をするのか」とあるように、アンナスに命じたことを無礼と見たからです。そこでイエスは答えます(23節)。


 「人を打つ」というのは悪に対する罰ですから、イエスは自分の悪を証明するように言います。ここでイエスが語る「悪い/正しい」は神から見て悪いか正しいかを意味することばです。つまり、神に対して悪をしたのか、それとも正しいことをしたのか、ここにイエスは焦点を当てているのです。従うべきお方、恐れるべきお方は神だから、イエスはアンナスの前でも堂々とでき、「悪をしていないのに打つのはおかしい」と反論できるのです。それとは逆に、イエスを殴った役人は大祭司という権威を第一としているからイエスを無礼と見なしたのです。アンナスも神に対しての善悪をイエスに問うていません(24節)。


 さて、場面は再びペテロに切り替わります。大祭司のしもべや下役たちは暖を取っているペテロを弟子と疑います(25節)。彼らの中にはゲツセマネの園に行った者もいますから、門番の女よりも見られた確率は格段に高いです。けれども先程と同じ疑われ方なので、ペテロは再び否定します。


 ところがここで最大のピンチがやって来ます(26節)。「見たと思うが。」は「間違いなく見た。」を強める言い方です。ペテロは直接の目撃者から問いつめられました。けれどもペテロは「ああ終わった。」とあきらめず、この期に及んでも弟子であることを否定しました。絶体絶命になってもイエスに頼らず自分の知恵あるいは恐怖の感情に任せたのです。自分を守るためには、正しいと信じているイエスさえも切り捨てるのです。ただ、「ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。(27節)」とあるように、イエスはペテロの弱さを見抜いていました。


 使徒ヨハネはイエスとペテロの違いを見事に描いています。イエスは相手がたとえユダヤ社会の最高権威者だとしても、恐れずに事実を答えました。なぜなら、善と悪、正と不正を判定し罰を与えるのは神だからです。どんなに権力が強くても彼らもさばかれる側の者です(16:11)。かつてイエスはこう言いました。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:28)」あくまでもイエスは神に対してどうなのかが大事なのです。言い換えれば、神に対して正しい者を神は必ず守るという安心があるのです。反対にペテロは人を恐れたから、絶対に見捨てないと断言したイエスを3度も否定しました。また、役人は大祭司の権威を最も上に置いたばかりに、人間などはるかに及ばない権威者である神の子イエスを殴りました。人を恐れる者は神の存在を見失い自分で安心を得ようとします。しかし、神を恐れる者は神から安心を受けるのです。

 

■おわりに

 4つの福音書にはペテロがこの後どうなったのかを記していません。捕らえられて刑罰を受けた、という記事がありませんから、おそらくこの危機を何とか脱したのでしょう。ただ、ペテロの行動はイエスのことばが真実であることを証明しました。一つは「鶏が鳴く前に3度否定する(13:38)」であり、もう一つは「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった(17:12)」です。


 イエスのことばはすべて真実です。「わたしを信じる者は死んでも生きる」「わたしはあなたがたに助け主を与える」「わたしはあなたがたに平安を残す」「わたしはまた来てあなたがたをわたしのもとに迎える」イエスのことばに信頼する者はイエスから安心が与えられます。だからどんなピンチやどん底でも希望を持ちながら落ち着いているのです。

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