■はじめに
教会では食事の前に必ず「食前の祈り」をします。一斉に食べるときには、誰かが代表して祈るのが一般的でしょう。教会によっては感謝の賛美もあります。形式は様々ですが、「神が生きる糧を与えてくださったから、この食事を感謝します」という点は同じです。今日は、神は日々私たちに必要なものを与えてくださっている、このことを申命記から見てゆきます。
■本論
Ⅰ.神は約束通り、カナンの地で安全と安心と満たしを与える(6:10-11)
本論に入る前に申命記について簡単に触れます。「申命記」とは「繰り返し命じる」を意味することばです。イスラエルの民が約束の地カナンを目前にしたとき、神はエジプト脱出のいきさつと律法を改めてモーセを通して民に語りました。なぜなら、出エジプトを経験した人々は、ヨシュアとカレブを除いて、全員カナンの地に入ることができないからです。つまり、神がかつてどれほど大きなわざをなしたのか、神とイスラエルの民がどのような約束をしたのか、それを良く知らない人々がカナンの地で生きるので、改めて彼らに語る必要があったのです。
10節を見ると、イスラエルの神である主は、民族の父祖アブラハム、イサク、ヤコブそれぞれに「私に従えばカナンの地を与える」と約束しました。カナンの地は牧畜と畑作に適したすばらしい土地なので、乳と蜜の流れる土地と呼ばれていました。イスラエルの民は約400年もの間エジプトで奴隷でしたが、神は人知の及ばない方法で奴隷から解放し、エジプトから脱出させて約束の地カナンに導きました。ただし、神はただカナンの地を与えるとは約束していません。生活に必要なすべてをも約束しています(11節)。
①あなたが建てたのではない、大きくてすばらしい町々:エリコを代表とする城壁のある堅固な町です。簡単に攻め落とすことはできないので、外敵の攻撃から人々は守られます。
②あなたが満たしたのではない、あらゆる良い物で満ちた家々:住居に加えて牧畜や畑作などに適した土地を伴っています。
③あなたが掘ったのではない掘り井戸:乾期のあるイスラエルでは命のために絶対に必要な設備です。アブラハムやイサクは自分で掘った井戸を周りの敵から必死に守りました。
④あなたが植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑:ぶどう酒やオリーブオイルは日常生活に欠かせない食品ですが、これらは貸し借りの対象にもなる、いわば財産です。
これらに共通しているのは生活の安全と安心を神は約束していることです、しかも、それぞれは完成あるいは収穫までにはたいへんな労力と時間を要します。40年間、荒野を旅してきた人々が、新しい土地でゼロから立ち上げるには、途方もない努力が必要です。しかし、「あなたが~しなかった」とあるように、イスラエルの民は神に従っただけで、これらすばらしい環境と設備が与えらました。ネヘミヤはその約束が果たされたことをこう証言しています。「こうして、彼らは城壁のある町々と肥えた土地を攻め取り、あらゆる良い物に満ちた家、掘り井戸とぶどう畑、そしてオリーブと果樹を、豊かに手に入れました。彼らは食べて満腹し、肥え太って、あなたの大いなる恵みを楽しみました。 (ネヘミヤ9:25)」。
神は、衣食住においてイスラエルの民が直ちに安全と安心と満たしの生活ができるように備えていたのです。あたかも天地創造において、人が生きる環境を完全に整えた後、神が人を造ったようにです。神はイスラエルの民に対する深い配慮を伴って、約束を完全に守りました。神のあわれみは計り知れません。
この神は私たちとも約束をしています。それは、イエス・キリストを救い主と信じれば義と認められて滅びを免れ、喜びと平安に満ちた天の御国で永遠に生きる、という約束です。同時にこの地上の人生においては、聖霊を通して私たちに助けを与え、平安を与えるという約束です。私たちはそれをただ信じることで受け取ることができるのです。どのようにそれが実現するのか私たちには知るよしもありませんが、神はイスラエルの民に約束を果たしたように、私たちにも約束を果たしてくださっています。
Ⅱ.神は「約束を果たす神を忘れないで、信頼と従順であるように」命じた(6:12-13)
続けて神は、カナンの地に入った際の命令を与えます。カナンの地でイスラエルの民は神のすばらしい恵みを受けて安らぎに満ちた生活となります。その際、何よりも大事なのは主である神を忘れずに恐れ仕えることだ、と神は命じます(12-13節)。
なぜなら、カナンの地に入らせ安全と安心と満たしを与えたのは、まさにイスラエルの神、主がなさったことだからです。イスラエルの民の努力ではないのです。ここで注目すべきは「エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出された【主】」と言っているところです。ただ神とか主と言わずに、かつて神が何をなしたのかをわざわざ付け加えています。
先ほど申しましたように、カナンの土地に定住する民はヨシュアとカレブを除いて、全員が出エジプトの出来事を知りません。律法を神から直接与えられ、民を率いたモーセも引退します。そのため、この大いなる恵みがだれからもたらされたのか、あるいはどういう経緯で神がなしたのかをあやふやなまま、カナンでの生活を送ることになります。そうなると主なる神を恐れず従わないばかりか、大地の実りを異教の神々のわざと受け取とって、それらを崇めてしまう危険があるのです。
だから、エジプトでの奴隷から解放して約束の地カナンに入らせた事実を神は明らかにし、アブラハムをはじめとする父祖たちとの約束を守ったことを今一度伝えるのです。私たちにもこれと似たようなことが起こります。例えば、教会を中心とした信仰生活から離れ続けると、「うまくいったのは自分の努力の結果だ」とか「運が良かったから」とかになってしまいます。あるいは、全然思い通りに行かなかったときに、神以外のもの、例えば風水とか占いに頼ってしまうこともあります。ですから安息日に神を礼拝し、イエスによって私たちを救ってくださった神のあわれみをもう一度知ることが大切なのです。
私たちは衣食住に加えて、健康、仕事、学校、家族、周囲の人間関係、地域や国の体制など目に見える物や人、あるいは環境から喜びと満足を得ます。そのとき私たちは、神の恵みに感謝しますけれども、大事なのは「神が約束を果たしてくださっている」という事実に目を留めることです。イエスは「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです(ヨハネ14:16)。/わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います(ヨハネ14:27)。」と私たちに約束しました。私たちは平安や喜びや満たしを受けたときに、約束を果たす神に感謝しましょう。そこから、「真実で誠実な神」への信頼と従順が生まれるのです。
Ⅲ.神はねたむほどに民を愛しているから民は他の神々を崇めてはならない(6:14-15)
さて、神はイスラエルの民に向けてもう一つの注意を与えます。イスラエルの民が占領する前、カナンでは様々な民族がそれぞれの神を崇めていました(14節)。例えば、バアル、アシェラ、ダゴンといった豊作や多産の神です。イスラエルの民はカナンに入った際、現地の住民を聖絶できませんでした。共存になったのです。それで生活の至る所に異教の神々があり、それらを崇めている人々がいました。ですから、豊かに収穫できたり、食べて満ち足りたときに、もし唯一まことの神、主の約束と恵みを忘れてしまったら、いとも簡単に異教の神を崇めてしまう危険があったのです。神はイスラエルの民に対して、いつも一方的なあわれみによって、彼らを助けてきました。その民が真の神を離れて他の神を慕い求めれば、神は彼らを激しく憎み、彼らに災いを下します(15節)。それほど神は約束を結んだ一人一人を深く愛しておられるのです。
日本人は生まれたときから神道や仏教に由来する行事や考え方に包まれています。ある意味、文化とか習慣のレベルなのでそれが何らかの信仰から来ていることもわからなくなっています。ですので、繰り返しになりますが、平安や喜びが生まれたとき、私たちは全てがイエスの父である神からもたらされたと受け取りましょう。農作物であれば畑の神、水産物であれば海の神のように一つ一つに神があるのではなく、すべて創造主である神のわざ・神の恵みなのです。
■おわりに
私たちの人生には喜びの出来事もあれば、悲しみ嘆きの出来事もあります。その中で、「うれしい/ほっとした/私は祝福されている」という思いが生まれたら、「イエスを信じる私に神が約束を守っていること」を忘れずにいましょう。「私はあなたを見放さず、見捨てない」「世の終わりまでいつも共にいる」「よいものを与える」「平安を与える」など、神は聖書を通してたくさんの約束をしています。それを確認し認めることが、神への信頼と従順を深めてゆきます。日本に住んでいる私たちは、毎日の平和や安心や自由を当たり前のように受けていますが、これも神のあわれみであることを忘れてはなりません。
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