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木村太

11月27日 「イエスの誕生を喜んだ人」(マタイの福音書2章1-12節)

■はじめに

 今日からアドベント(待降節)が始まります。アドベントとは到来という意味で、6世紀に西方教会(現在のローマ・カトリック教会)がクリスマスの準備の期間として取り入れるようになり、11月30日(聖アンデレの日)に最も近い日曜日をアドベント主日としました。伝統的にアドベントには2つの意義があります。一つは救い主イエス誕生を記念する日(クリスマス)を待ち望むことであり、もう一つはイエスが再び来て神の国が完成するのを待ち望むことです。ただし、イエスが自分にとって大切な人でなければ、わくわくしながら待てません。そこで今日は、東方の博士の出来事から「イエスが神の国の王として生まれたこと」を聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.ヘロデ王とユダヤ人は、東方の博士から「ユダヤ人の王」誕生を聞いてうろたえた(2:1-8)

 福音書においてイエス誕生の様子を記しているのはマタイとルカです。そしてマタイでは「イエスが王であること」、ルカでは「イエスが救い主であること」に焦点を当てています。ただ不思議なことにそれに関わっているのは、神の民ユダヤ人ではない異邦人である東方の博士やユダヤ人社会からさげすまれている羊飼いです。この辺りに、イエスが誰のために来られたのかが示されています。ではマタイの福音書からイエス誕生の出来事を見てみましょう。


 イエスが生まれたベツレヘムは、ユダヤ地方エルサレムの南8kmに位置し、ダビデの町とも呼ばれていました(ルカ2:11)。このイエスを礼拝するために東の方から博士たちがエルサレムにやって来ました(1-2節)。「星が昇るのを見た」とあるように、ユダヤ地方の東であるバビロニアやペルシア(今のイラン,イラク)では占星術やくじといった占いで政治的判断をしていました。というのも、占いは人の介入がないので神のお告げと信じられていたからです。聖書からは東の方がどこの国かわかりませんが、この博士たちは東の国で占星術を扱える学者であり、王に進言できる高い位の者たちでした。


 彼らは占星術によって「ユダヤ人の王」がユダヤ地方のどこかで誕生したのかを知りました。それで生まれた子を探し当てるために首都エルサレムに来たのです。ただし、自分の国の王でもない人を崇めるというのは驚くべきことです。しかも、この出来事の直後ヘロデが2歳以下の男児をすべて殺していることから、彼らは星を見てから約2年をかけてここに来ています。さらに「礼拝」ということばは神を崇める姿を意味しています。このことから、博士たちにとって生まれた子どもは「単なる他国の王様」ではなく、神の権威をもって全世界を治める存在なのです。だから何としてでもお会いしたいのです。また、王の誕生はユダヤ人にとっても良い知らせと思っているから、彼らはエルサレムで探しました。


 博士たちの話は王の耳に入りました(3節)。律法によればユダヤの王はイスラエル民族でなければなりません。しかし、ローマ帝国が立てたヘロデはエドム人なので、ユダヤ人の間では評判が良くありませんでした。また、彼は猜疑心が強く、王位を脅かす者であれば近親者でも処刑しました。それゆえ、正統なユダヤ人の王が誕生することを聞いてうろたえたのです(4節)。加えて、ヘロデは生まれた者をキリスト(メシア,救い主)、すなわちユダヤ人をローマから解放し神の国をもたらす王と見なしています。ですから、なおさら動揺し何とかしなければならない衝動にかられました。一方、エルサレムの人々も王が何か恐ろしいことを企んでいるのを察知してうろたえました。自分たちの救い主なのに喜びにならなかったのです。


 ヘロデ王は祭司長たち、律法学者といったユダヤ人の学者を集めて、ユダヤ人の王キリストがどこで誕生するのかを尋ねました(4節)。彼らは「キリスト誕生」というキーワードから旧約聖書を調べ、預言書のミカ書から「ベツレヘム」を見つけました(5-6節)。ここでヘロデはある企みを実行します。


 彼は博士たちにベツレヘムを教えただけでなく、星が現れた時期すなわち幼子の年齢やその子の詳しい情報を調べて報告するように申しつけました(7-8節)。一言で言うならば人物を特定したかったのです。表向きはその子を礼拝したいという理由ですが、本心は王位を脅かす者を抹殺するためでした。事実、人物を特定できなかったので、ヘロデ王はベツレヘムにいる2歳以下の子どもを皆殺しにしました(16節)。


 ヘロデ王とユダヤ人は「ユダヤ人の王キリスト」が預言どおりベツレヘムで誕生したことを知りました。この子どもが預言どおり神の国を立てる、すなわち神がご支配する完全な平和、平安、祝福に満ちた世界になる、そのことを彼らはわかっているのです。けれども、ヘロデは自分の王位が危うくなるのを恐れて殺そうと企みました。エルサレムのユダヤ人たちも、ヘロデから発せられる不穏な空気にうろたえました。王も民衆も「キリストが来た」ことよりも自分の思いを優先したのです。だから「ユダヤ人の王キリスト」誕生が喜びにつながっていないのです。「イエス・キリストが自分にどれほどすばらしいものをもたらすのか」このことを受け取っていなければ、イエス誕生を喜べないのです。


Ⅱ.博士たちは星に導かれてイエスを見つけ、喜び礼拝した。(2:9-12)

 博士たちはヘロデの企みをわからないまま、教えてもらったとおりベツレヘムを目指します(9節)。ただ、見知らぬ土地で「ベツレヘムで生まれた」という情報だけで幼子を探し当てるのはほぼ不可能と容易に想像できます。ところが驚くことに、彼らが自分の国で見たあの星が再び現れました(9節)。そして、どのようにかはわかりませんが、彼らを幼子の場所まで導いたのです。先ほど申しましたように、占星術は神のお告げと信じていますが、まさにこれは神の働きとしか言いようがありません。それで彼らは言葉にできないほど喜んだのです(10節)。


 ついに博士たちは星が示したユダヤ人の王に会います。11節「家に入り」とあるように、イエスと母マリアは家畜小屋ではなく家にいました。また「幼子」ともあるように、この時イエスは赤ちゃんではなく、すでに小さい子どもとなっていました。ヘロデの虐殺からすれば、およそ2歳だと思われます。


 博士たちはまず幼子の前にひれ伏して礼拝しました。「ひれ伏して」とは相手の顔を見ない所作であり、神に対する最大級の礼拝の仕方です。見方を変えれば、賢者である自分たちよりも幼子の方が比較にならないくらい権威があると認めているのです。バプテスマのヨハネが「イエスの履き物を脱がせる資格もない」と言うのに似ています。彼らにとってこの幼子はユダヤ人の王であり、この世を支配する神であるのです。


 そして彼らはそれぞれが持参した宝箱から黄金、乳香、没薬を贈り物として幼子にささげました。ほとんどの聖書物語では博士が3人で登場しますが、これはそれぞれが一つの宝箱に贈り物を持ってきたことに由来しています。また、贈り物については後のイエスを象徴していると解釈されています。黄金は王、乳香は祭司(祭壇で焚くから)、没薬は十字架での死(埋葬に使うから)を現します。ただし、博士たちにそのような意図はなく、単純に偉大な王にふさわしい贈り物を用意してきたのです。ラザロの姉妹マリアが尊いイエスに何かしてあげたいと思い、高価な香油をイエスに注ぎました。その時イエスがその行為を「埋葬のためにしてくれた」と解釈しているのと同じです。人のために尽くしていることが、神のためにしていることになっているのです。


 博士たちは贈り物や長旅という多大な費用をかけ、約2年という時間をかけ、道中の危険を犯してまでもユダヤ人の王を礼拝したかったのです。彼らにとって目の前の幼子は単なるユダヤ民族の王ではありません。この幼子がキリスト、すなわち、やがて全世界を治めて神の国を実現すると確信しているのです。星が導いた出来事によってますますその確信を深めたことでしょう。


 今申しましたように、彼らは幼子にひれ伏して礼拝しました。高い身分であるにもかかわらず、この幼子に支配されることを良しとしているのです。彼らの心にはヘロデのように「自分の立場が危うくなる」といった恐れも、エルサレムの人々のように「これから自分の生活はどうなるのか」といった不安もありません。「神の国を実現する王が誕生した」という感動に満ちているのです。それゆえ、今の生き方を続けるよりも、イエスを主としてイエスに仕える生き方の方がはるかにすばらしい、と信じているからイエス誕生を喜ぶのです。


■おわりに

 神はイエスがヘロデに殺されないために、夢の中で博士たちに警告し、彼らをヘロデの所に行かないルートで帰らせました(12節)。星が彼らを導いたと同じように、ここでも神の介入があります。それ故、この出来事全体が「イエスが王・キリストである」ことを明らかにしているのです。


 博士たちは幼子イエスが何を成し遂げるのか知りません。また、神の国がどんなふうに実現するのかも知りません。それでも彼らはこの幼子が「神の国の王」であると確信し喜び礼拝しました。それに対して私たちは、イエスを救い主と信じる者が罪を赦されて滅びを免れて神の国に入れることを知っています。また、イエスが再び来られる時、神の国が実現することも知っています。さらに、神の国は「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。(黙示録21:4)」ことを知っています。そして、私たちはそうなるのを約束されています。だから、博士たちよりも大きな喜びになり、博士たちにもましてイエスを礼拝し、イエスが再び来られるのを待っているのです。

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