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木村太

11月28日「ピラトの尋問」(ヨハネの福音書18章28-40節)

■はじめに

 モーセの十戒において第6戒~10戒は人を大切にするための戒めです。そして第10戒「欲しがってはならない」が第6~9で禁じられている「殺人、姦淫、盗み、偽証」の根源になります。人は何としてでも欲望を満たしたいという動機からうそをつき、盗みを働き、性欲の満たしに人を用い、自分にとって邪魔な人間を排除するのです。一言で言えば、人間は自分のために他者を利用したり排除するのです。今日はイエスへのピラトの尋問を通して、なぜ真実なイエスが無罪にならなかったのかを見てゆきましょう。


■本論

Ⅰ.祭司長たちはイエスを死刑にするためにピラトの権威を利用した(18:28-32)

 イエスはアンナスや大祭司カヤパをはじめとする最高法院において尋問されましたが、それで終わりではありませんでした(28節)。


 ローマ帝国は支配している地域に総督を派遣し、司法、立法、行政など、あらゆることにおいて最高の権威を総督に与えました。ただし、庶民の生活の場では、その土地の王や宗教指導者たちに統治する権限を認めていました。この当時のパレスチナ地方総督はポンテオ・ピラトでした(29節)。ピラトは過越の祭りの期間中、警備のためにエルサレムの総督官邸に駐在していました。この時はアントニヤ城塞を官邸にしていたと考えられています。


 ユダヤ人の戒律では「異邦人の家に入ったら汚れる」とされていたので、祭司長たちは中に入りませんでした。彼らは汚れという形式的なことには細心の注意を払うものの、自分たちの権威を守るためにイエスを殺すという罪の本質にはまったくの無関心でした。彼らの考えこそが過越の食事を受けるに相応しくありません。


 さて、ピラトは彼らが中に入らないので自ら彼らに来た理由を尋ねました(29節)。それで彼らはイエスが「悪をした」と答えます(30節)。それを受けてピラトは、律法いわば自分たちの決まりに基づいてさばくように命じました(31節)。現地の出来事にわざわざ総督が関わりたくないからです。その態度に祭司長たちは訴えます。「私たちはだれも死刑にすることが許されていません。(31節)」


 最高法院はイエスを神冒涜という律法違反で死刑に定めました。いわゆる宗教犯でイエスを殺そうとしたのです。しかし、死刑はローマ法に則らなければならず、しかもローマ法では宗教犯は死刑になりません。そのため彼らは、死刑を適用できる政治犯としてイエスを総督に訴えるのです。ルカの福音書にこう記されています。「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。(ルカ23:2)」現代風に言えば「この者はローマ皇帝を越える王として国家転覆を企てるテロリストです。」とイエスを訴えるのです。


 イエスを殺すためにもっともらしい罪状を掲げ、嫌っているローマ総督をも利用するという彼らの悪が示されています。ただし真実は32節のように、イエスの受難すなわち神のご計画が進められているのです。神はご自身のご計画のためにはこの世の悪をも用いるのです。


 ユダヤの民衆はイエスの不思議なわざとことばによってイエスを信頼し、尊敬し、そしてイスラエルをローマから解放するメシアと期待しました。そのため、祭司長をはじめとする宗教指導者は権威が危うくなったので、確かな証拠も示さずにイエスを政治犯としてピラトに訴えました。地位や権威といった支配欲を満たすためにイエスのいのちを奪うのです。これが人の本質であり、ことばや行動には至っていないけれども私たちも彼らと同じ動機を持っているのです。


Ⅱ.ピラトと群衆は感情に任せたために真実を語るイエスを無罪としなかった(18:33-40)

 さてピラトは祭司長たちが引き下がらないので自ら動きます。33節「ユダヤ人の王なのか」とあるように、ピラトは祭司長たちの訴え通りイエスを政治犯として扱います。けれどもイエスはピラトが祭司長たちの訴えを鵜呑みにして、自ら調べていないことを指摘します(34節)。いわば、ローマ法に則っていないというのです。それでピラトは答えます。


 ピラトは「現地の住民であるユダヤ人が連れてきたから自分に理由が分かるはずがない」と言います(35節)。それゆえ実際に何をしたのかイエスに尋ねました(35節)。イエスは「ユダヤ人の王」が焦点になっているので、「わたしの国」すなわちイエスが属する王国について説明します(36節)。もし、イエスが地上のどこかの国王だとしたら、ゲツセマネの園でローマ兵が捕まえようとしたとき、当然イエスのしもべや兵隊はイエスを守るために戦います。しかしそうしなかったのは、イエスの国が武力で他国を支配するような国家ではないからです。つまり、イエスは自分がローマ転覆を企てる政治犯ではないと主張しているのです。


 それでピラトはイエスが「ユダヤ人の王」を否定しないので、再び「それでは、あなたは王なのか。」と問いかけます(37節)。ピラトはイエスがローマのような国家の王であり、ローマの敵対者といまだ疑っています。これに対しイエスは「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。」とあるように、ピラトのことばを支持します。実際にイエスは国王のようにすべてを支配できる権威を持っているからです。ただし、自分はローマを倒すために王として来たのではなく、真理を伝えるために来たとイエスは言います(37節)。


 真理とは真実すなわち本当のことを言います。人は現実にあることだけを真実と捕らえます。けれどもイエスは人には悟りえない本当のことを伝えに来ました。その中心が「イエスを信じれば滅びを免れて永遠のいのちを得る」という「救い」です。イエスは武力によってこの世の国家を全滅させて、ご自身の神の国を樹立するためにこの世に来たのではありません。神が選んだ真理に属する者がイエスを信じて神の国に入るために、不思議なわざをなしながら真実を伝えたのです。


 しかし「真理とは何なのか。(38節)」とあるようにピラトはイエスのことばを理解していません。それでピラトは「私はあの人に何の罪も認めない。」と祭司長たちを含むユダヤ人の群衆に答えました。祭司長たちの訴えやイエスの証言からは、ローマ法に照らし合わせても告訴できる罪状がないからです。けれどもピラトは無罪判決を出しませんでした(39節)。


 ピラトはユダヤ人たちがイエスの死刑を望んでいるのを知っていました。ここでイエスの無罪釈放を宣言すれば、間違いなくユダヤ人の反感を買います。それゆえ過越の祭りにおける恩赦を提案したのです。人のいのちよりもユダヤ人たちとの関係を壊さない方を選んだのです。


 この提案にユダヤ人はこう叫びました(40節)。バラバは強盗ですけれども、マルコの福音書には暴動で人を殺した暴徒ともあります。有力な学説によれば、バラバはローマ支配からユダヤ人を解放するために暴動を起こしました。つまり、バラバはローマ解放を武力で実行した者、イエスはローマ解放を期待させて実行しなかった者、この両者を比べてユダヤ人はバラバの釈放を熱望したのです。ローマ法だけでなく十戒に照らし合わせてもバラバが有罪なのは明らかです。しかし、彼らは自らの感情に支配され、人を殺したとしてもローマからの解放という願いを実行した方を良しとしました。


 祭司長たちは自分たちの地位や権威を守るために殺人という悪を選びました。ピラトは法に照らして無罪であっても、ユダヤ人を恐れ自分を守るために無罪を押し通せませんでした。ユダヤの民衆は神の前に正しいか正しくないかではなく、悪であっても自分の欲望を満たすものを善と判断しました。ただイエスだけが神の前に正しく、神のみこころに従いました。そのイエスを人の罪が十字架に定めたのです。


■おわりに

 すべての人は神に背くという罪を持っています。別な言い方をするならば、最初に造られた時の良い状態を保てないのです。例えば「神が定めたことよりも自分を優先する/悪を善と判断し、善を悪と判断する/人がどうなろうと自分の思い通りにする」こういった罪を誰でも持っているのです。しかも不安や恐れ、不満が大きければ大きいほど、本来の姿から外れてゆきます。ペテロや祭司長たちやピラトや群衆は私たちの罪を明らかにしているのです。


 一方のイエスは完全に神に従いました。「自分ではなく神を最優先とする/悪を悪、善を善と判断する/人のために自分を用いる」これがイエスであり、人本来の姿です。このお方が、本来の姿から外れた私たちを滅びから永遠のいのちに救ってくださいました。これが神の愛なのです。

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