■はじめに
キリスト教はイエス・キリストが人を滅びから救ったので「キリスト教」と呼ばれています。ただし、キリスト教を伝える聖書では、キリストが来られた後の新約聖書よりもキリスト以前の旧約聖書の方が圧倒的に分量が多いです。新改訳聖書2017版を見ても旧約が33巻で1635ページ、新約が27巻で519ページなので一目瞭然です。「キリスト教」なのにキリストが登場しない方がはるかに多いというのは不思議ですね。けれども、「イエスが神の子救い主キリストであること」を知るためには旧約聖書は絶対に必要なのです。なぜなら旧約聖書の中に救い主であるイエスのことがあらかじめ記されているからです。と同時に、旧約聖書の中に神のみこころがはっきりと示されているからです。今日は、旧約聖書を代表するモーセのことから、なぜイエスを信頼するのかを聖書に聞きましょう。
■本論
Ⅰ.モーセが神と神の民に忠実だったように、イエスは神に忠実であり、ご自身の犠牲によって神の民を生み出す(3:1-4)
著者は「試練の中でもイエスにとどまる」ことをこの手紙の目的としています。それで御使いよりもイエスが優っていることを証明し、さらにイエスが大祭司として神にとりなし助けてくださることを語りました。そしてここから大祭司について話を深めます。
著者はまず読者であるユダヤ人クリスチャンが神から見てどのような立場であるかを語ります(1節)。冒頭の「ですから」によって「あなた方は御子イエスがどういうお方かをすでに知っている」ことを確かめています。さらに「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」によって「あなたがたはすでに神の家族であり、天に行けることがすでに決定されている」と事実を示し、彼らを励ましています。
それゆえ「使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。」と命じます。すでに救いというすばらしい恵みを受けているから、この世に遣わされ神にとりなしてくださるイエスに、いつもどんなときも注意を払いなさいと命じるのです。苦難の中で頼るべきはイエスただお一人であり、御使いや自分の力やこの世の何かではないのです。
ここで著者は「イエスは本当に使徒であり大祭司として助けてくださるのか」について説明します(2節)。ユダヤ人にとってモーセは疑いなく信頼できる指導者であり、自分たちの誇りです(ヨハネ5:45,9:28)。モーセは神の家すなわちイスラエルの民全員の中で、神と人に対して最も忠実でした。神がそのことを認めています。「だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。(民数記12:7)」モーセは神から遣わされた者として神のことばを告げ、そして人々が困ったりあるいは罪を犯した時に神と民との間をとりなしました。
それと同じようにイエスもご自分を救い主、使徒、大祭司として定めた神に忠実です。ただし、イエスの方がユダヤ人の誇りであるモーセよりも偉大だと著者は言います(3-4節)。モーセは立てられた家、すなわちイスラエル民族に忠実でした。一方、イエスは家を建てた方、すなわちイスラエル民族を神の民とした父なる神に忠実です。説明を加えるならば、モーセは造られた家であるイスラエル民族を正しく管理しましたが、彼が人々を神の民にしたのではありません。それに対してイエスは神のみこころに従って神の家であるクリスチャンを誕生させました。イエスは神の民、神の家族を管理する側ではなく、すべてを造ったお方に忠実であり、ご自身の犠牲によって永遠のいのちを持つ者を生んだのです。だからモーセよりもイエスの方がはるかに大きな栄光を受けるのです。
ユダヤ人の読者は御使い礼拝、すなわち目に見えない霊的存在に頼りそうになっています。そうでなくても彼らの根っこには「アブラハムの子孫という血筋(ヨハネ8:34)」あるいは「モーセの弟子という律法(ヨハネ9:28)」に頼りたい気持ちがあります。けれども頼るべきは救ってくださった神であり、私たちを聖いイエスの兄弟として天の御国に入らせてくださるイエスなのです。しかもイエスは常に大祭司として私たちを神にとりなしてくださり、助けようとしています。イエスを頼ろうとする思いが弱くなってきたら、自分のためにイエスは何をなしてくださったのかにもう一度目を向けることが大事です。
Ⅱ.「イエスを信頼し希望を持てば助けられる」このことをモーセの歴史が証明している(3:5-6)
著者はさらにモーセとイエスの働きを比べて、イエスを信頼すべきだと語ります(5-6節)。「後に語られること」とは広い意味では手紙の冒頭(ヘブル1:1)で語られているように「御子イエスによる救い」を指しています。ただしここでは、3章後半に書かれているように「神とはどんなお方か」を指していると解釈するほうが良いでしょう。具体的に言えば旧約聖書を貫く「祝福とのろいの契約」がどんなふうに実現しているのかということです。先ほど扱ったように、モーセは神とイスラエルの民両方に忠実に仕えました。このモーセを通して起こった出来事が「神に従えば祝福、背けばのろい」を後の世に明らかにしているのです。
旧約聖書を見ると、モーセは神の家イスラエル民族に仕えて、民が神から祝福を受けるように、反対に民が神の怒りであるわざわいを受けないように導きました。一方、イエスは「神の家を治める(6節)」とあるように、神の民を祝福したり罰としてわざわいを与える側の者です。と同時に、ご自身を犠牲にして神の家族であるクリスチャンを誕生させる働きです。モーセを含むイスラエルの歴史を通して、神は神の家・神の民にご自身の正しさや聖さやあわれみを現しました。そして今やイエスが神のご性質に基づいて神と同じ正しさやあわれみをもって神の家であるクリスチャンを治めています。ですから今の時代はモーセではなく、イエスに頼るべきなのです。
ここで著者は「私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。」と不思議なことばを言います。これまで見てきましたように、イエスは神の家であるクリスチャンを大祭司としてとりなし、苦しんでいる者を助けます。旧約聖書で神が神の民を助けていることと同じです。でもそれは「確信と希望による誇り」を持ち続けているクリスチャン限定なのです。
確信とは「イエスが私の救い主であり、私の大祭司であり、神の家族であるこの私を助けてくださる」をどんな状況でも一点の曇りもなく信じている有り様を言います。さらにこの確信から「希望による誇り」が生まれます。「希望」は文字通り「イエスが助けてくださる」という希望を持つことです。そして、誰が否定しようが誰が何と言おうが「イエスが助けてくださる」という希望を他の人々に示せるのが「希望による誇り」です。見方を変えれば、御使いやイエスではない何かに頼っている者はイエスを希望の誇りとできません。イエスの力を小さく見てイエスよりも他のものを上にしているからです。
これが真実であると証明する出来事がモーセの時代にありました。荒野を旅しているとき、神は12部族の族長を偵察隊として約束の地カナンへの偵察をモーセに命じました。モーセは神の命令を実行し、偵察隊はカナンから戻ったのち、モーセとアロンを含む全会衆に報告しました。「カナンはすばらしい土地だけれども、その土地の民は力が強く、町々も堅固な城壁だ。負けるのは見に見えているから、カナンの地には入れない。」と彼らは嘆き、全会衆も泣き叫びました。彼らは目の前の事だけを見て、世の中の常識に囚われてしまい、エジプトを脱出させた神の不思議な力を見ていません。「確信と希望による誇り」を失っています。けれども、ヨシュアとカレブはこう言いました。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。(民数記13:30)」この二人だけは見た目には絶対に勝てない相手だとしても、「神が約束した土地だから神が入らせてくださる」という「確信と希望による誇り」を持ち続けました。その結果、この時の成人男性の中でヨシュアとカレブだけがカナンに入り、他は全員荒野で死にました。
イエスもこの世を離れるに当たり弟子たちにこう言いました。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい(ヨハネ14:1)。/...世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)」イエスを疑いなく信じて希望を持ち続ける、これがクリスチャンである私たちが大祭司であるイエスの助けを受ける道です。
■おわりに
イエスを信じて洗礼を受け、毎週礼拝に出席し、毎日よく祈り、何事も神の栄光を目指して生活したとしても、辛い出来事が立て続けにあったり、苦しさから抜け出せないことが私たちにはあります。そんな時は「イエスは助けてくださるのか」とついつぶやいてしまうものです。あるいは、多くの人々のように「お金や人脈、他者の評判は頼りになる」とか「厄払いやお守りを持っている方がよっぽど安心できそう」と思ってしまうものです。
けれども、どんなにひどい中にあったとしても、キリスト教は役に立たないと言われても「イエスが助けてくださる」という確信と希望の誇りを持ち続ける者をイエスは助けます。そのことを「ヨシュアとカレブ」という事実をはじめ旧約聖書全体が証明しています。その上、人間が絶対に克服できない死をイエスは破りました。「十字架での死とよみがえり」という事実がそれを証明しています。聖書に記されている事実を通して、私たちはイエスへの確信と希望を維持できるのです。
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