■はじめに
私たちは人生において様々な判定を受けます。入学試験や入社試験はその典型でしょう。他にも自動車免許のような資格検定も身近な判定です。あるいは、試験とか検定まではいかなくても、自分の提案が採用されるかどうかといった判定もあります。ただし、世の中のあらゆる判定には絶対はありません。どれほど努力しても合格できないこともあるし、冤罪のように判定する側が間違うケースもあります。ところが、キリスト教における神の判定いわゆる神のさばきはそうではありません。イエスを救い主を信じる者は「神のさばき」で必ず合格の判定となります。今日は「神のさばきを知ること」が私たちにとってどんな意味があるのかを聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.主の日のさばきは信者には感嘆をもたらし、福音を聞いても信じない者には永遠の滅びを与える(1:8-10)
パウロは、イエスがこの世に再び来られるとき、いわゆる主の日・来臨・再臨において神のさばきが必ずあると語りました。そして、信仰ゆえの苦難は「神のばきに」おいて安息に入れる証しだと励ましました。それゆえ、信者は主の日を目指して苦難に耐えながら信仰を保つことができるのです。ここでパウロは神のさばきについて詳しく述べます。信仰ゆえに苦しむ者が安息を与えられ、苦しめる者が苦しみを与えられることを、はっきりさせたかったからと思われます。
パウロは直前に、テサロニケの信者を苦しめる者は報いとして苦しみを受ける、とテサロニケ限定で語っています。その上で、ここでは「報いとして苦しみを受ける者」について人間全体に広げて、信仰における真理として明らかにしています(8-9節)。神は、神を知らない人々や、主イエスの福音に従わない人々に、報いとしての罰を与えます(8節)。「神を知らない人々」とは神のことを聞いても認めない者であり、「主イエスの福音に従わない人々」とはイエスによる救いを受け入れない者を指しています。特に「主イエスの福音に従わない」の「従わない」はドアのノックに応じない様を言いますので、神がイエスを通して罰から救おうとしているのに、それに応じない者なのです。
さらにパウロはそのような者たちにどんな罰が与えられるのかを教えます(9節)。「主の御前」は主が顔をその人に向けて助けようとする思いを現しています。また、「その御力の栄光」は永遠の滅びから解放されるという誉れを言います。つまり、罰から解放したいという神のあわれみから断ち切られるので、彼らは永遠の滅びを罰として受けるのです。しかも、永遠の滅びですから、やり直しや敗者復活はありません。一度定められたら永遠にそのままなのです。神は救いの手を差し伸べているのに、それを自分でつかもうとしないどころか手を払いのけるから、その報いとして永遠の滅びに定められるのです。
主の日にこのことがなされるので、パウロは信者がこの日にどんな思いになるのかを語ります(10節)。「その日」すなわち主の日にイエスは再びこの地上に来て、神のさばきがなされます。さばきでは「神を知らない人/主イエスの福音に従わない人々」は永遠の滅びに定められます。一方、パウロたちの証しを聞いてイエスを救い主と信じ、聖徒すなわち神の所属となった者は神の国に定められます。
この世では信者が長い間苦しめられ、一方で信者を苦しめている者が自由に生きていますから、「神の正しさ」や「さばきが本当にあるのか」が疑われる状況です。そのために信仰から離れる者もいます。しかし、主の日には神が正しくさばきを実行するので、すべての信者はイエスをほめたたえます。また、どれほど強い者でも滅びに至り、どれほど弱い者でも救われるから、イエスは感嘆の的になるのです。
神はご自身のさばきがいつ、誰に、どのようになされるのかを預言者たちやパウロたちを通して明らかにしました。それを文書としたのが聖書です。しかも神は滅びや救いについて明らかにしただけでなく、イエスという救われる手段も備えてくださいました。その上、イエスの死とよみがえりによって、救いの約束が必ず果たされることを証明してくださいました。本来、永遠の滅びに行かなくてはならない私たちを神はかわいそうに思ったから、そうしてくださったのです。それゆえ、私たちはこの世において神に感謝し、神をほめたたえ、忍耐しながら神に従って生きてゆけるのです。
Ⅱ.私たちは主の栄光を目指して、信仰と愛に基づいて生きる(1:11-12)
パウロは、神のさばきを詳しく述べた上で、主の日に向けてテサロニケの信者のために祈ります。パウロは彼らのために2つのことを神に祈っています。(11節)
①あなたがたを召しにふさわしい者にする:「召し」はイエスを仲介して神の家族に招き入れることです。イエスを信じた者は神を父とする神の子供となりますが、それはただ家族の一員になっただけであり、神の子として不完全なのです。アニメには、庶民の子供が貴族の家族に迎え入れられるという話がよく出てきます。そして貴族として生きるためには言葉使いや行動、たしなみなど貴族にふさわしいふるまいが求められます。それと同じように、信者も神の子としてふさわしくなるように整えられなければなりません。世の中の人は信者を通して神あるいは福音を知りますから、イエスに似たものになる必要があるのです。
②御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現する:「善を求めるあらゆる願い」とは神と人を愛する思いから生まれる動機であり、これが「信仰から出た働き」につながります。最初の祈りとの関係で言えば、信者の動機と行動において「愛によって生まれた動機と働き」の割合が増えれば増えるほど神の子としてふさわしくなる、と言えます。
ただし、人は信仰によって罪が赦されていても、いまだ罪があります。神と人を大切にしたい思いはあるものの、自分の欲望を満たす方(ほう)を優先する心があるのです。ですから「どうか私たちの神がふさわしい者にし...実現してくださいますように」とパウロが祈るように、信者が神の子にふさわしくなるためには神の力、すなわち聖霊の助けが必要なのです。パウロはガラテヤ人への手紙で御霊の実をこのように教えています。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:22-23)」つまり、「召しにふさわしい者に」なればなるほど、信者のふるまいにおいてこういったことがらが増えて来るのです。言い換えれば、御霊の実はふさわしくなって来ているかどうかのチェック項目と言えます。
ところで、信者はすでに永遠の滅びから救われているのに、なぜパウロはこのように祈るのでしょうか。その答えが12節です。前回申しましたように、パウロが目指すのは主の日における栄光です。主の日における神のさばきにおいて、信者は救ってくださったイエスをほめたたえます。同時に、信者は神から「よくやった忠実なしもべだ」とほめられます。そのために信者はふさわしくなることを目指すのです。
ただし、「信者がイエスをほめたたえ、イエスが信者をほめたたえる」のは主の日に限ったことではありません。神の子としてふさわしくなるというのは、万物を創造したときの人本来の姿に戻ってゆくことです。つまり、世の中から安心や満足を受け取っていたのが、だんだんと神から受け取って行くようになるのです。詩篇を見るとダビデはどんな恐ろしい状況でも、神を信頼し神からの安心で満たされ、希望を持っています。それと同じように、私たち信者も神との信頼関係が深まるにつれて、イエスを通して神がもたらす不思議な安心が増えてゆきます。だから、毎日の生活において私たちは助けてくださるイエスをほめたたえるのです。そして、そのときイエスも私たちをほめてくださっているのです。
■おわりに
最初の人アダムが神に背いて以来、すべての人が神に背く性質を持つようになりました(ローマ5章)。どんなに知識と知恵を蓄えても、どれほど優しいふるまいをしても、厳しい修行によって無の境地に達したと自覚しても、神のみこころよりも自分の思いを優先する心はあるのです。それで、私たちは生まれながらにして、神のさばきで永遠の滅びに行かなくてはなりません。神は人を良いものとして造ったのですから、人が永遠の滅びという罰を受けるのは当然であり、神はそのままにしても良いのです。
けれども神はそんな私たちをあわれみ、私たちを滅びから救うために私たちが負うべき罰を御子イエスにお与えになりました。それがイエスの十字架です。それに加えて神は「救いについて」必要なことがらを私たちに教えてくださいました。そして、「教えを聞いて信じる者」に神が私たちを変えてくださいました。それゆえ私たちにとって神のさばきは恐れではなく、喜びとなるのです。同じように、主の日が来るのを怖がるのではなく。来て欲しいと願うのです。
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