■はじめに
キリスト教ではイエス・キリストを救い主と呼んでいます。これは、罪の処罰である永遠の苦しみ、馴染みの言葉で言えば地獄からイエスが救出してくださり、天の御国で永遠に生きられるようになったからです。救いはイエスについて最も大事なことがらですが、イエスの働きとそれによって私たちにもたらされたものは「救い」だけではありません。今日は、イエスが人となった事実を通して、救い以外に私たちに何がもたらされたのかをみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.イエスはご自身を信じる人を兄弟とするために、人となって苦しみ死なれた(2:9-13)
この手紙の著者はイエスについてこう述べています。
「ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。(ヘブル2:9)」
イエスは死の苦しみをすべての人のために味わわれました。ここで著者は「すべての人のため」について具体的に告げようとしています。なぜなら、読者はイエスを信じていても迫害がなくならず、イエスから離れそうになっているからです。それゆえ「あなたのこれこれのためにイエスは死の苦しみを味わった」を明らかにすることで、読者を御使いではなくイエスの信頼に留まらせようとするのです。それで著者は2つの事実を語ります。一つは神との関係がどうなったのか、もう一つは人生に何をもたらしたのかです。最初に神との関係について見てゆきましょう。
すでにパウロが語っているように、人の罪が万物を空しくしているので、人が罪のない本来の姿になることが万物の目標であり、神のみこころです(ローマ8:19-21)。それで神は御子イエスに十字架の苦しみを味わわせることで、多くの子たちを栄光に導いています(10節)。この栄光こそが救い、すなわち罪の赦しと永遠のいのちです。
そのために「救いの創始者」とあるようにイエスは人に救いの道を切り開きました。その道が、イエスを信じれば罪が赦され滅びを免れて永遠のいのちを受ける、という救いの手段です。ただし、手紙の冒頭で語られているように。イエスが来る前に神は預言者たちを通して救いの道を知らせました。それをイエスが実現したのです。「完全な者とされた」とあるように、イエスが未完成だった救いを完成しました。
さて、イエスによって栄光に導かれた者たちがどうなったのかを著者は語ります(11節)。「聖」とは神の所属になることを意味します。ですので、人を聖とする方イエスも、聖とされる栄光の子たちクリスチャンもすべて一人の神から出ています。「出ています」とあるのは、人は神によって造られているけれども、イエスを信じる者は永遠のいのちを持つ者として新しく神から生まれたことを示しています (ヨハネ3:3)。だからイエスも私たちも神から生まれた神の家族であり、イエスが長子なのです。
ただし、かつては神に背いた人がイエスと兄弟になるというのは、イエスにとって恥すなわち不名誉なことです。これまでさんざん自分を攻撃してきた者を親から「はい。今日から彼はあなたの弟になります。」と言われたらどんな気持ちになりますか。けれどもイエスは恥としませんでした。
その姿を著者は旧約聖書を引用して語ります(12-13節)。イエスは「あなたの御名を語り、賛美し、この方に信頼をおく」と言います。かつては敵対していた者であってもイエスを信じる者を兄弟とする、という神のみこころを受け入れています。その上、「神がわたしに下さった子たち」とあるように父なる神と共に生きることを認め、長子として兄弟たちを守り正しい道に導くという意思を持っています。
神はご自身に敵対する私たちを放っておかないで、ご自身の子どもとして栄光を与えようとしています。これが聖書全体を貫く神のみこころです。そのために御子イエスを十字架にかけて信じる者の罪を赦し、新しい人として誕生させました。一方、イエスにとってみれば父の敵が自分の兄弟、すなわち栄光という財産を相続する者となりました。しかも、彼らのために受ける必要のない想像を絶する苦痛を受けなくてはならないのです。けれども、イエスは神のみここをを受け入れて自分の務めを果たしました。さらに救われた者をご自分の家族としました。これが神とイエスのあわれみであり、それを私たちは受けているのです。
Ⅱ.イエスはご自身を信じる人を死の恐怖から解放し、苦しみから助けるために、人となって苦しみ死なれた(2:14-18)
イエスの死によってイエスを信じる者は神の子どもとなりイエスの兄弟となりました。言い換えれば、神との関係が回復したのです。そしてこのことが私たちの人生を一変します。
罪のないイエスが死ぬためには人と同じ血と肉、すなわち人と同じ肉体を持たなければなりません(14節)。なぜなら、人と同じでなければ、死んでよみがえったとしても人の死に勝利したと受け取られないからです。人と同じ肉体で死んでよみがえったからこそ、「悪に誘い死に導く悪魔の力を効き目のないものとした」と宣言できるのです。
それゆえ、人として死んだイエスが人とは異なるからだでよみがえり、父のおられる天に上ったのを見て、人は自分もイエスのようになる、と確信できるのです。死からよみがえったイエスを見ることで、人は死の恐怖に縛られていた人生から解放され、天の御国という希望を持てます(15節)。このことをイエスの死の苦しみが私たちにもたらしました。
ここで著者は不思議なことを語ります(16節)。聖書によれば悪魔は堕落した御使いと見なされています(ユダ6,Ⅱペテロ2:4)。ですから堕落という点では人と同じと言えます。けれどもイエスは御使いではなく、アブラハムの子すなわちイエスを信じて神の民となった人たちを助けます。いかに神が人を大切にしているのかがわかります。
この話題をきっかけにして、著者は「助け出す」ことと「アブラハムの子」からイエスの働きを大祭司になぞらえます(17節)。なぜなら、読者はユダヤ人であり、ユダヤ教の儀式をよく知っているからです。大祭司は全イスラエル、つまり神の民を代表して神の前に出て、定められたいけにえをささげて民全員の罪を贖いました。簡単に言えば、「これをささげますから民全員の罪を赦してください。」といった神の怒りをなだめる働きです。これが神と神の民の間をとりなす働きであり、「アブラハムの子孫を助け出す」働きです。ただし、大祭司は民の中から任命されなければなりません。だから、「イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。」とあるように、イエスは人でなければならなかったのです。
先ほど申しましたようにイエスは人と同じ血と肉の体で生まれ、その体で生活し、そして十字架刑で死にました。イエスは十字架刑という想像を絶する苦痛に加えて、荒野で悪魔の誘惑を試され、さらにゲツセマネの園では十字架を放棄したい誘惑にさらされました。だから、イエスは人の苦しみをわかってくださり、共に痛むことができるのです(18節)。また、悪魔の誘惑の手口やそれを断つ方法をわかっているから、試みに会っている人を励ましたり、アドバイスを与えることができるのです。それに加えて「この人を助けてください」と神にとりなすことができるのです。イエスはご自身を信じる者すべての罪を背負うという大祭司の働きを担うと当時に、一人一人に目を向けて神に訴えるお方なのです。神の子が人となったからこそ、私たちは「こんなにすばらしい救い」を受け取れるのです。
■おわりに
仏教用語で四苦八苦という言葉があります。これは人間が生きている上で避けては通れない根源的な苦しみを言います。
「四苦」
・生苦:罪(仏教では業:カルマ)をもって生まれることの苦しみ
・老苦:老いることの苦しみ
・病苦:病気になることの苦しみ
・死苦:死ぬことの苦しみ
「四苦八苦」=四苦+次の4つの「苦」
・愛別離苦(あいべつりく):愛する者との別れる苦しみ
・怨憎会苦(おんぞうえく):恨み憎む者と出会う苦しみ
・求不得苦(ぐふとっく):求めるが得られない苦しみ
・五蘊盛苦(ごうんじょうく):自分の心や身体すら思い通りにならない苦しみ
イエスは十字架で死んで私たちが負うべき罪の処罰を受けました。そして、よみがえりによって死に勝利し、悪魔の力を無効にしました。それによってイエスによって救われた私たちは、死と罪がもたらすさばきへの不安や恐れから解放されています。四苦八苦でいえば生苦と死苦からはすでに解放されています。
一方で、それ以外の苦しみからはいまだ解放されていません。けれども、私たちには悩み苦しみをわかってくださるイエス、共に喜び泣いてくださるイエス、父なる神にとりなしてくださるイエスがいます。それゆえ、どんな苦しみがあろうとも、人本来の安心を生きることができるのです。これが御子イエスを与えてくださった神のあわれみです。その父なる神のあわれみゆえに、イエスは降りる必要のない神の右の座から、私たちのためにこの地上に降りてきて人となりました。だから私たちはイエスをほめたたえ信頼するのです。
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