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木村太

11月7日「園での逮捕」(ヨハネの福音書18章1-14節)

■はじめに

 私たちは、表彰や賛辞を受ける場に行くのはうれしいしウキウキします。反対に、叱られたり非難されるのが明白な場に出向くのは憂鬱になり、できれば避けたいと思います。イエスはいよいよ十字架刑に向かって行きますが、それはイエスが悪事を働いたからではありません。人が受けるべき神の怒りを代わりに受けに行くのです。今日は、十字架刑に向かって行くイエスの姿から、私たちに注がれている神の愛について聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.イエスは自ら逮捕の場に行き、自ら逮捕される状況を作った(18:1-9)

 かつてイエスは弟子たちにこう言いました。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。(マタイ20:18-19)」イエスの活動を記した4つの福音書すべてがこの様子を扱っています。ただし、マタイ・マルコ・ルカは状況全体を描写しているのに対し、ヨハネはイエスに焦点を当てています。ヨハネはイエスが十字架に積極的に向かっていったことを読者に伝えたいのです。


 イエスは夕食をとりながら弟子たちにこれからのことを教え(13-16章)、そして父なる神に祈りました(17章)。イエスは弟子たちにすべきことを完了したので、いよいよ「わたしの時」すなわち十字架に向かいます(1節)。園は他の福音書によればゲツセマネの園であり、その場所でイエスと弟子たちはエルサレムにいる最中、密かに会合していました。おそらく人目を避けるためだと思われます。だから弟子たちも、どうしてここに来たのか不思議に思っていません。


 一方、ユダは群衆がいない時にイエスを宗教指導者に引き渡す機会を狙っていました(ルカ22:6)。それゆえイエスたちの習慣を知っているユダにとっては絶好のチャンスなのです(2節)。ただ「イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので(4節)」とあるように、イエスはユダの予想通りとなるように、この場所に来ました。偶然とかユダの読みが当たったのではなく、イエスが捕まえられるように事を進めたのです。


 ユダの手引きによって大勢の者がやって来ました(3節)。一隊の兵士は300~600人で構成されるローマ軍の歩兵隊ですので、宗教指導者たちはローマ解放運動の首謀者としてイエス逮捕を総督に依頼したのです。しかも夜間でも絶対に逃さないような装備と人数を投じています。人知を越えた力を持つイエスを圧倒的な武力で捕まえようとしました。


 ここでイエスから行動に出ます(4-5節)。イエスは、彼らの目的が自分の逮捕だと知っているので、「だれを捜しているのか」と尋ねました。「あなた方が探しているのはこの私です。」と言っていないのは、彼らの狙いがイエスであることをはっきりさせるためだと思われます。ここでイエスが「わたしがそれだ」と答えた時、兵士たちはあとずさりし地面に崩れ落ちました(6節)。「わたしがそれだ」は「わたしはある」という神宣言と同じことばですので、彼らはイエスの持つ神の権威に圧倒され、恐れを抱いて腰が抜けたのでしょう。


 イエスは誰を捜しているのかをもう一度尋ねて、それに答えます(7-8節)。イエスは、狙いは自分だけだから弟子たちを解散させるように求めました。9節にあるように、「ご自身のことばはその通りになる。」のを証明するためであり、同時に弟子たちが被害に合わないようにするための心遣いでもあります。


 ここまでのイエスのふるまいから明らかなように、イエスは自分から逮捕される場に赴き、そして自分から逮捕される状況を作りました。逃げ隠れしているのを見つかったり、「おまえがイエスか」と尋問に答えていません。イエスの逮捕は受け身ではなくて、イエスが主導しているのです。ここに、「神のみこころによって自分が十字架にかかる。」という覚悟が示されています。ことばを加えるなら「人を滅びから救うために自分が犠牲になる。」という覚悟なのです。


Ⅱ.イエスは十字架を妨げる行為を退けた(18:10-14)

 ここである事件が起きます(10節)。ルカの福音書によれば、イエスは「世に対抗する勇気を持て」という意味で剣を持ちなさい、と弟子に命じました。しかし、弟子たちはこのことばを文字通り受け取り剣を2本持って来ていました。その剣でペテロはイエスが捕まらないように、相手を切りつけました。ペテロはイエスを守りたい一心でしたが、彼はイエスがなさなければならないことを理解していません。それでイエスはペテロを制止してこう言います(11節)。


 「杯を飲む」とは「怒りを受ける」ことの比喩ですから、イエスは「自分は神の怒りすなわち十字架を受けなければならない。」と強く訴えているのです。だから逮捕を逃れさせるのは、十字架には至らないのでペテロを止めたのです。かつてイエスがご自身の受難を告白した時、ペテロはそれを否定しました。それに対してイエスは「下がれサタン。」とペテロに命じました。もし、逮捕が神のみこころと違っていたり、神のみこころを妨げるのであれば、イエスは不思議な力で切り抜けるでしょう。けれども、逮捕から始まる十字架刑は神がイエスに定めたものですので、イエスは神のみこころを妨げるものごとを退けたのです。イエスが兵隊たちに逮捕されるのは、十字架に必要な道なのでイエスはそのままにしておくのです。ペテロのように「こんなことはあってはならない/これは理不尽だ」と判断しても、神のみこころであるならそれを受け入れるのが大事なのです。


 ペテロが剣を収めたのでイエスは逮捕されます(12-13節)。イエスは罪状がまったく提示されていない、いわば不当逮捕であるにもかかわらず、ひとつの抵抗もせず縄で縛られました。そしてまずアンナスのところに連れてゆかれます。アンナスは大祭司の職を娘婿であるカヤパに譲っていました。しかし、以前として最高法院(サンヘドリン)の実力者でした。イエスを尋問するためには最高法院への連行で十分ですから、最初にアンナスのところへ連れてきたのは彼の顔を立てたからでしょう。


 ここでヨハネはカヤパについてこう記しています(14節)。イエスは今、ローマ帝国からユダヤ民族を解放するメシアと期待され、民衆の気運は最高潮に達しています。一方、宗教指導者はローマを嫌っているものの、ユダヤ人を統治する立場と権威をローマから認められています。ですから、この状況は彼らにとって都合が悪く、へたをすればローマの怒りを買います。だからイエスをローマ解放の首謀者に定めて、亡き者にするのが彼らにとって得策なのです。


 イエスの逮捕はイエスを殺したいカヤパたちの思惑通りであり、彼らに手を貸したイスカリオテ・ユダの予想通りでした。彼らにとっては順調に物事が進んでいるのです。反対にペテロたち弟子にとっては何としても避けたい出来事です。起きている出来事だけを見れば人が全てを進めているようですが、真実はイエスの受けるべき十字架が着々と進んでいるのです。それゆえ、イエスは何の抵抗もせず、むしろ十字架の妨げとなるようなことを退けるのです。


■おわりに

 イエスは父に栄光を現すように祈りました(17:5)。栄光とはイエスを救い主と信じる者が滅びを免れて永遠のいのちを得ることです。違う言い方をするならば聖別すなわち神の所属となって神のおられる天に住むことができるのです。そのためには律法でひな形が示されていたように、人の罪に由来する神の怒りをなだめるための供え物が必要です。それでイエスは無罪で十字架刑で死ぬことで、神の怒りをなだめる供え物になりました。これが人の罪を赦すために神が用いた方法であり、神とイエスが犠牲を払っているのです。


 後に使徒ヨハネは手紙でこう語っています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネの手紙4:9-10)」ユダの見当通り逮捕されるためにゲツセマネの園に行き、自分から誰を捜しているのかと尋ね、ご自分だけが逮捕されるように配慮し、抵抗するペテロを制止し、無抵抗で捕縛され宗教指導者たちのなすがままにさせました。これらはすべて私たちを滅びから救い永遠のいのちを与えるためなのです。これらは私たちを救いたい神の愛によるからイエスはただひたすら十字架に自ら進むのです。

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