・はじめに
キリスト教では真理と言われることがらが勘違いされるときがあります。例えばこういう真理です。
「わたしを信じる者は決して渇かない(ヨハネ6:35)」
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠のいのちを持つ(ヨハネ6:54)」
「生きていてわたしを信じる者は永遠に決して死ぬことがない(ヨハネ11:26)」
文字通り受け取るとたいへんな誤解を生むことになります。だから私たちは本当の意味を知る必要があるのです。今日はイエスのことばから、どうしてイエスがいのちのパンなのかを見てゆきましょう。
Ⅰ.イエスを信じる者は決して飢え渇かず、心が満たされる(6:34-36)
パンと魚の奇蹟を体験した群衆はイエスを追い求め、ようやくイエスを見つけました。その彼らにイエスはこう言いました。「いつまでもなくならない永遠のいのちに至る食べ物がある。そのまことのパン(神のパン)を神が天から与える。」それで群衆はそのパンについてイエスに尋ねます(34節)。
彼らは「神が天から与えるパン」を「荒野で毎日降ってきたマナ」のようなものと理解していました。直前にイエスが「私たちの先祖が荒野でマナを食べた。モーセが天からのパンを与えた」と口にしたので当然かもしれません。それで彼らは驚くべき奇蹟をなしたイエスをモーセのように見て、「いつも私たちにお与えください。」と言ったのです。毎日与えられるから、いつまでもなくならないパンという訳ですが、「神が天から与えるパン」について全然わかっていない証拠です。もし、「神が天から与えるパンがイエスであり、イエスを信じれば永遠のいのちが与えられる」と分かっていたら、「私はイエスを信じます。」となるからです。
イエスは群衆が真理を分かっていないので答えます(35節)。イエスはご自身を「いのちのパン」や「いのちの水」とたとえているので「飢えない、渇かない」と言っています。ただし、イエスの言う「飢えない、渇かない」は「お腹がすいた/のどが渇いた」のような肉体の飢え渇きではありません。もしそうだとしたらイエスは荒野でのマナや岩から出る水と同じようになってしまい、ひいては人の欲望を満たす存在となるからです。
イエスの言う「飢え渇き」は「安心したい/満たされたい」といった心の飢え渇きを指しています。食べ物はお腹を満たし、飲み物はのどを潤します。けれども、この世の何をもってしても生涯完全に心を満たす物はありません(財産、地位、体、知識など)。たとえ満たしたとしても一時的です。しかし、「イエスのもとに来る者」すなわち「イエスを信じる者」にイエスは心の満たしを与えます。後に語られるように、イエスを信じる者はいのちのパンであるイエスを食べ、いのちの水であるイエスを飲み、イエスと結びついています。それによってイエスを通して神の平安を内側に持つからです。
イエスはご自身を「いのちのパン」と明かす一方で群衆にはこう言います(36節)。彼らはイエスの奇蹟を見聞きしたのに、それが何を意味しているのか分かっていないので、「わたしを信じない」と指摘されています。マルコの福音書で「彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。」と言われているように、イエスを求めてイエスのもとに来ているけれども、「信じる」という面からすればイエスのもとに来ていないのです。
この群衆のように、イエスについての真実を分からなかったり、間違って理解するのは、人にとってどうでもよいことではありません。なぜなら、飢え渇きの毎日から開放されず、自分を満たすために生きなければならないからです。まさに、なくなってしまう食べ物のために働いているのです。しかも、その先には永遠に苦しむ滅びが待っています。「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。(伝道者の書1:3)」と聖書にある通りです。「いのちのパン」であるイエスを信じるかどうかが私たちの毎日を大きく左右するのです。
Ⅱ.神がイエスを遣わしたのは、イエスを信じる者すべてが永遠のいのちを持つためである(6:37-40)
イエスはことばを続けます(37-38節)。イエスは自分のもとに来る者、すなわち信じる者は「父がわたしに与えている」と言います。人は自分の意志でイエスを信じているように見えますが、実は神によって信じるようにされているのです。人は神に背を向ける本質を持っていますから、自分の力では完全な神への信頼に至りません。それゆえ、信じるようになったのは、人をお造りになった神の働きとしかいいようがないのです。
そして神のみこころを最優先にするから、イエスは与えられた者、言い換えればご自身を信じる者を外に追い出しません。外に追い出さないとは、ちょうど「イエス」という囲いに入った者をそこから排除しない、あるいは来ているのに拒まない、といったイメージです。イエスを信じて「イエスの囲い」という場所に入れられた者は生涯そこにいるのを保ちます。だからイエスとの結びつきが断ち切られることはありません。
さらにイエスは、なぜ父なる神がご自身に人を与えるのかを語ります(39-40節)。イエスは同じ内容を繰り返して、二つのことがらを強調しています。
①イエスを信じる者はみな永遠のいのちを持つ:
神がイエスに与えた者、すなわちイエスが神の子であると分かり信じた者は全員永遠のいのちを持っています。今、この地上ですでに持っています。ここで39節「わたしが一人も失うことなく」とあります。「一人も失うことない」は「滅ぼさない/ムダにしない」とも訳せるように、イエスを信じて永遠のいのちを持ったら、決してそれを失ったり、奪われたり、あるいは取り消しになることはありません。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」と使徒ヨハネが言うように、永遠のいのちは天の御国まで完全に保たれるのです。
②終わりの日によみがえる:
永遠のいのちを持つ者は終わりの日によみがえります。終わりの日とは、この世界が終わるときであり、イエスが再び地上に来るときです。このとき、すべての人は神の法廷に出されて、永遠に苦しむ滅びに行くのか、永遠に安らぐいのちに行くのか審判が下ります。すでに死んで墓に入った者もです。そして40節「わたしがその人を終わりの日によみがえらせる」とあるように、審判の基準はイエスを信じているかどうかなのです。
ここで大切なのはこれが父なる神のみこころだということです。人は本来、罪ゆえに飢え渇きの人生を送り、滅びに至る存在です。例外はありません。神が良いものとして自らお造りになったのに背くのですから、怒りによって罰せられるのは当然です。けれども、神はそんな人であっても飢え渇きを脱し、永遠のいのちを持ってほしいのです。これが神の愛です。
それゆえ「飢え渇きを脱し、永遠のいのちを持つ」ことを実現するために、神は我が子イエスをこの地上に遣わしました。人として生まれたイエスが神のみこころを人々に明らかにし、そして永遠のいのちを受ける方法を奇蹟を通して教えたのです。人は自分の命のために他者の命を奪いますが、イエスは人のいのちのために自分のいのちを捨てます。だからイエスがいのちのパンであり、いのちのパンは神の愛の証拠なのです。
・おわりに
イエスを救い主と信じている者はすべて飢え渇きから開放されています。また、永遠のいのち、すなわち人にとって最も必要なものをすでに受けています。ですから、それ以外のものはなくても気になりません。自然災害にあって家財や金銭を失っても命さえあればそれでいい、というのに似ています。また、イエスを信じる者をイエスは外に追い出さず、終わりの日まで一人も失いません。私たちは天の御国での永遠のいのちに至るまでイエスの保護下にあるのです。だから不安や恐れ続けることはありません。不思議な方法で心は平安で満たされるのです。これが神のみこころであり、キリスト教の真理です。
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