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木村太

12月10日「主の日には何が起きるのか」(ゼパニヤ書1章10-18節)

■はじめに

 「地獄の沙汰も金次第」ということわざがあります。広辞苑では「地獄の裁判でも金で自由にできるという、金力万能を言うことわざ」と解説しています。私たちが生きている日本では「喜びや楽しみはお金で手に入れられる/お金が安心の拠り所」という風潮です。けれどもキリスト教ではお金や地位や善行といった人の手によるものでは決して天国には入れない、と教えています。そこで今日は、人は主のさばきを免れるのか、ということを聖書に聞きます。

 

■本論

Ⅰ.主は、主を必要としない者を罰する(1:10-13) 

 イスラエルは神と契約を結んだ神の民であるにもかかわらず、神を信頼せず従わないばかりか、バアルをはじめとする異教の神々を崇めていました。しかも、預言者から何度も警告を受けていたにもかかわらずこの有様でした。それで、エルサレムを首都とするユダ王国を完全に滅ぼすと、主はゼパニヤを通して警告します。それほど激怒しているのです。中でも、民の模範となるべき政治や宗教の指導者が率先して主を捨てているから、主は彼らの悪を真っ先に指摘します。ただし主は、「主を求めない」という心を見ていますから、主の日における罰すなわち主のさばきは指導者だけでなく民全体に及びます。このことを主は語ります。

 

 10節「魚の門、第二区、もろもろの丘」はエルサレムの入り口から中心に向かってゆく様子を描いています。それと同時に「叫び声、嘆きの声、大いなる破滅の響き」とあるように、エルサレム全体が主のわざわいに飲み込まれて行くのです。さらに主は「マクテシュ区の住民」に対して泣き叫べと命じます(11節)。この地区は「商人/銀を量る者」と呼ばれていますから、市場があったと思われます。ここの者たちは12節で語られているように、主を必要とせず金銭の万能を信じている者だから、主は彼らを取り扱うのです。

 

 マクテシュ区の住民を代表として、主は罰する者たちについてこう言います。12節「【主】は良いことも、悪いこともしない」と言っている者は、主をあてにせず主を必要としていない者、つまり主よりも自分を上に置いている者です。しかも彼らは「ぶどう酒のかすの上によどみつつ」とあるように、酒の不純物がそのまま残っているごとく罪を取り除こうともしません(12節)。金銭といった人の手によるものに頼る方が喜びや安心を実現できるから、主を頼らなくてもよいのです。加えて、このことは犯罪でもないし、偶像礼拝でもないから、そのような生き方にどっぷりと浸かってしまうのです。

 

 しかし主にとっては、ご自身を信頼しないことこそが罪だから、ともしびをかざして探すように一人残らず罰するのです。そのとき主は、「蓄えた財産/建てた家/作ったぶどう」という彼らの喜びや安心の拠り所を台無しにします(13節)。言い換えれば、彼らが頼っていたものは何一つ主のさばきには通用しないのです。皮肉なことに、「財産を蓄えた/家を建てた/ぶどうが実った」という主が良いことなした事実、そして「財産が略奪される/家に住めない/ぶどう酒が飲めない」という主が悪いことをなした事実、これを彼らは主の日に思い知らされるのです。

 

 科学の進歩によって人はだんだんと神を畏れなくなり、自分たちの力で何でもできると思うようになってきました。それの典型が「金銭は万能」という思想です。それに対して知恵者ソロモンはこう言います。「どんな知恵も英知も、はかりごとも、【主】の前では無きに等しい。戦いの日のためには馬が備えられる。しかし、救いは【主】による。(箴言21:30-31)」主なる神は人を含めてこの世のすべてを治めています。人は決して主に抗えないのです。それゆえ、主を必要とせずこの世のものごとに頼る者は、主のさばきの対象になるだけでなく、主の日に無力や虚しさを味わうのです。

 

Ⅱ.城壁や金銭など人の手によるものは、主のさばきに対して無力である(1:14-18)

 主のことばに続いて、ゼパニヤは主の日の恐ろしさを語ります。ゼパニヤは「主の日のわざわいは、どんな勇者でも泣きわめくほど恐ろしい」と言います(14節)。しかも、「大いなる日は近い。それは近く、すぐにも来る。」と語るように、切羽詰まっているのです。

 

 そして畳みかけるように、ゼパニヤは「その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と暗闇の日」と言います(15節)。彼はあらん限りのことばで主の日の恐ろしさをイスラエルの人々に告げるのです。一言で言うならば、およそ人が抱く最も恐ろしいことよりも恐ろしいことがやって来るのです。

 

 さらにゼパニヤはこう言います。「城壁のある町々と高い四隅の塔」はエルサレムを指しています(16節)。先ほど地図で見ましたように、エルサレムはぶ厚く高い城壁(約13m)に囲まれた上、敵の侵入を見張り・撃退するための高いやぐらが備えられていました。当時のエルサレム住民は、これほど堅固な城壁が破られるとはだれも信じていません。けれども、戦闘の合図によって膨大で強力な軍隊がいともたやすくエルサレムに侵入するがごとく、主の日のわざわいはエルサレムを覆いつくすのです。ゼパニヤはエルサレムの住民が主の日の恐ろしさを実感するために、このことを語りました。

 

 その上でゼパニヤは、主の日の恐ろしさを敵の侵入と殲滅にたとえて語ります。人々はわざわいの恐怖によって盲人のように逃げ惑います(17節)。いわば町中がパニックになるのです。しかし、逃げ惑った先にあるのは死です。「血は、ちりのように、はらわたは、糞のようにまき散らされる。」ごとく、主に従わなかった者たちは悲惨でむごたらしい死を迎えます。あたかも、無数で強力な軍隊が町になだれ込んできて、逃げ惑う人々をなめ尽くすように殺してゆくようです。

 

 主の日のさばきには、彼らが頼りにしていた堅固な城壁も金銭も、人の手によるものは何一つ何の役にも立ちません(18節)。彼らは主を捨てて他のものに頼ったから、主はねたみの炎ですべてを焼き尽くすように、主を求めないすべての人を滅ぼし尽くします。「ともしびをかざしてエルサレム中を捜す。(12節)」と主が言うように、発見されずに生き残る者は一人もいません。そのような恐ろしい日がもう目の前に来ている、とゼパニヤは警告するのです。

 

 主は「心の中で『【主】は良いことも、悪いこともしない』」と言っている者たちをねたみの炎でたやすく、かつ完全に滅ぼします。実際に異教の神を崇めていなくても、あるいは主のことばを無視していなくても、心の中で主を信頼しない者を主は罰します。ここが主のさばきの恐ろしいところです。そして、このさばきから逃れる方法はこの地上には一つもありません。人は恐怖と痛みで叫びながら逃げ惑い、滅ぼされるだけです。私たちは言い尽くせないほど恐ろしい主の日のさばきに直面しているのです。

 

■おわりに

 冒頭に申しましたように、現代社会は「金銭をはじめとする人の手によるもので、安心も喜びも満足も、あらゆることが実現できる」という風潮です。その一方「神なんていない/神は人間が作り出したもの/宗教は役に立たない」と主張する方が大勢います。かつての私がそうでした。

 

 しかし、神は現実に存在した人物を通して、主の日の到来とその日に何が起きるのかを私たちにはっきりと告げています。主はご自身を必要としない者を主の日に滅ぼします。それに対して人は全くの無力です。どんなに強い肉体を持っていても、どんなに頑丈な家に住んでいても、どんなに財産を持っていても、どんなに高い地位にあったとしても、どんなに評判が良くても、主のさばきを免れる方法はこの地上のものごとにはないのです。

 

 けれども主のさばきを免れる方法がただ一つあります。預言者ヨエルはこう言います。「しかし、【主】の御名を呼び求める者はみな救われる。(ヨエル2:32)」主を信頼し、主の名を呼んで主に従う者は主のさばきから救われます。言い換えれば、主のことばに従う者は救われるのです。主なる神は私たちがさばきを免れないのをあわれみ、さばきから救われる道を備え、その道に入る方法を具体的に教えてくださいました。それが、イエス・キリストによる救いです。そのことを主イエスはこう教えています。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14:6)」私たちの罰を代わりに受けてくださったイエスを救い主と信じれば、私たちは主の日のさばきを免れて、天の御国に入れるのです。このお方以外に救いはありません。(使徒4:12)

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