■はじめに
「人はなぜ教会を去るのか(勝本正實,いのちのことば社)」という本に、「日本で宗教は「救急箱」の役割を持つ」とありました。というのも、宗教は信じて従うものというより、自分の目的を果たすための手段として価値を持つ、と日本人は理解していると見えるからです。しかも、神道や仏教など複数の宗教を自分の目的に応じて使い分けています。例えば、結婚式はキリスト教式、葬儀は仏式、願掛けは神社といった具合です。まるで、頭痛には痛み止め、風邪には風邪薬のように宗教を使い分けるから「救急箱」と著者は言うのです。そして、必要がない時には救急箱をしまっておくように、宗教も必要がなければ生活の中に取り入れません。つまり、宗教の神々よりも自分が上なのです。ところがキリスト教ではこのようなあり方を良しとしていません。そこで今日は「神よりも自分を上にする」いわゆる高ぶりがもたらすものについて聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.モアブとアンモンはイスラエルと血縁関係があるにもかかわらず、自分たちの神々を崇め続けたので滅ぼされる(2:8-11)
主はユダ王国の人々のことを「恥知らずの国民」と呼びました。なぜなら、彼らは「自分たちは主のさばきの対象だと」思っておらず、青ざめていないからです。それと同じようにイスラエルを取り巻く外国も「自分たちは主のさばきの対象だと」考えてもいません。それで主は外国を滅ぼすという、警告を与えます。
ゼパニヤに対して主は、ペリシテ、モアブ、アンモン、クシュ、アッシリアを取り上げます。このうち、ペリシテだけがイスラエル12部族の領土となっていました。モアブ、アンモンはヨルダン川の東に位置し、イスラエルが定住したときはルベン族、ガド族、マナセ族の領地に隣り合っていました。そして、皆さんもご存じのように彼らはイスラエルと血縁関係にあります。というのも、モアブとアンモンの祖先はロトとその二人の娘によって生まれた者であり、ロトはアブラハムの甥だからです。
ただし、モアブはケモシュを、アンモンはミルコムを民族の神として崇め、それらの像を造って礼拝していました。彼らは同じ血筋であるにもかかわらず、近親であるが故の憎しみをもってイスラエルと関わり続け、士師の時代には勢力を増してイスラエルを支配しようとしました。それで主は「わたしの民をそしり、自分の領土のことで高ぶった。(8節)」と指摘するのです。
そのため主はモアブ、アンモンにさばきを下します。9節「わたしは生きている」とあるように、主は彼らがイスラエルに何をやったのかをすべてご存じです。だからそれへの罰として、ロトが経験したソドムとゴモラへのさばきのごとく彼らを滅ぼします(9節)。「いらくさの茂る所」はのろいの象徴を、「塩の穴」は不毛・荒廃を象徴しますから、主はモアブ、アンモンの土地を完全に破壊するのです。そして、この土地から異教の人々が消え去った後、イスラエルの残りの者すなわち悔い改めて神に従う者たちがここに住みます。
ここで主はなぜモアブ、アンモンを罰するのかを明らかにします。モアブとアンモンがイスラエルを馬鹿にし侵略したのは、イスラエルが自分たちよりも弱く劣っているとみなしたからです。ここで重要なのは、彼らが自分たちと同じように、イスラエルにも主と呼ばれる神がいる、と知っていたにもかかわらず彼らをそしり、高ぶったという点です(10節)。つまり、イスラエルへのそしりと高ぶりは主を恐れていない証拠なのです。それゆえ、主はモアブ、アンモンを高慢という理由で罰するのです。
さらに「主が地のすべての神々を消し去られるからだ。(11節)」とあるように、主はご自身を恐れない原因を「彼らの神にある」と見ています。ある解説書はこのように説明しています。「高慢の根源は偶像礼拝である。それは地方独特の習慣と結び付き、文化を形成し、民衆の心をつかんでいた。」簡単に言うなら、「自分たちの神の方がイスラエルの神よりも強いし、優れている」と信じているから、イスラエルに挑むのです。
だから主は、モアブ、アンモンを完全に破壊して彼らを恐怖におののかせ、ご自身が万軍の主であり、異教の神々は全く役に立たないことを明らかにするのです。人々の信用を失った神々は存在しないと同然であり、地上から消え去ったと言えます(11節)。一方、主の力を知った人々は異教の神々を崇めた土地で、イスラエルの神である主を崇めるようになります。それは「異国のすべての島々も。(11節)」とあるように、全地に及ぶのです。主を恐れない者にはとてつもない恐れが臨み、それによって主が「万軍の主」だと分かるのです。だからさばきがまだ下っていないときに、主を恐れて主に従う必要があるのです。
Ⅱ.クシュとアッシリアは軍事力や経済力といった力に頼っていたために滅ぼされる(2:12-15)
続いて主はクシュとアッシリアへのさばきを語ります。両者ともイスラエルを侵略しますが、モアブ・アンモンと違うのは宗教的な動機からではなく、勢力を拡大したいという動機によります。
12節クシュはエジプトの南に位置し、現在のエチオピアに当たります。旧約聖書を見ると、クシュ人もイスラエルと戦うために北上してきました。イスラエルと戦ったという点では、同じ地域のエジプトの方が有名ですけれども、この時代はクシュがエジプトを支配していたので、クシュを取り上げたと思われます。「あなたがた、クシュ人も」と主が言われるように、クシュ人も主のさばきが下ることを全く想定していませんでした。さばきの対象となっていることさえわかっていなかったでしょう。けれども、主は剣すなわち軍事力で侵略しようとしたクシュを剣で滅ぼすのです(12節)。
さて、主が最後に取り上げるのがアッシリアです。紀元前8世紀から7世紀にかけてアッシリアは、世界を支配する帝国としてその強大さを誇りました。列王記や歴代誌を見ると、イスラエルにとってアッシリアがどれほど脅威だったのかが分かります。また、首都ニネベについてヨナは「行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな都であった。(ヨナ3:3)」と語っています。
このアッシリアも主のさばきによって砂漠のように荒れ果てます(13節)。その様子が14節です。「ふくろうと針ねずみ」は、普通は市街地に住みません。しかし「鳴き声は窓に響き渡り、荒廃は敷居に及ぶ」とあるように、人の住んでいる場所にやってきます。つまり、獣を脅かす人間はいないのです。ニネベの壮麗な神殿や王宮は破壊され、倒された柱の柱頭を動物がねぐらとします。富の象徴である杉材の貼り板もはがされます。ニネベは人に捨てられて人気(ひとけ)のない廃墟になるのです。
その有様を見た者はこのように言うだろう、と主は語ります。ニネベを通り過ぎる者は、荒れ果てた姿を見て「「私だけは特別だ」と心の中で言っていた、あのおごった都」とあざけります(15節)。「あんなに自慢していたのに、今ではこのザマだ」といったところでしょうか。ニネベの人々は自分たちの帝国が全世界を支配し、莫大な富と強大な軍事力を誇っていました。「私だけは特別(15節)」と口にしたように、「他の国は滅ぶかもしれないがアッシリアだけは絶対に滅ばない。滅びの対象から外れている」と思っていたのです。これこそがおごり、すなわち傲慢な態度なのです。
アッシリアの人々も他の国々が独自の神を崇めているのを知っていました。しかし、彼らはアッシリアがすべての頂点にあるから絶対安全だと信じていたのです。つまり、主からすれば、彼らはイスラエルの神よりも自分の方が上だと思っているのです。ゼパニヤ書の注解書は傲慢についてこうコメントしています。「人間の罪深さは『自分は例外だ』と思い込むところにまことによく発揮される。」
自分は例外だ、自分は特別だ、と思うことこそが神よりも自分を上に置いている証拠です。だから主はバビロニアを用いてアッシリアを滅ぼしました。そのバビロニアもやがて滅びます。国であっても人であっても、傲慢に任せて勢力を拡大して行く先には、主のさばきすなわち恐ろしい滅びがあります。人を含めてあらゆるものは万軍の主の下にあるのです。
■おわりに
主はゼパニヤに諸外国へのさばきを告げました。地図を見てわかるように、ペリシテはユダ王国の西側にあり、モアブとアンモンは東、クシュは南、アッシリアは北に位置しています。つまり、主は全方位を見ておられ、高ぶる者の見逃しはありません。また、ペリシテとモアブ、アンモンの高ぶりは偶像崇拝が源でした。一方、クシュとアッシリアは軍事力や経済力といった強さが源でした。ここから明らかなのは、主は根源がどのようであれ高ぶりを罰するということです。
主は「【主】を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。」と命じ、さばきを免れる方法を示しています。このことは聖書を貫く真理であり、ソロモンもペテロも次のように言っています。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ(箴言18:12)」「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる(Ⅰペテロ5:5)」
うまくいっているときも、苦難が続いているときも、すべてが主なる神のご支配の下にあります。そして、常にイエスがともにおられます。このお方について行くことが私たちのいのちにつながり、毎日の平安をもたらすのです。
תגובות