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木村太

1月21日「わたしはあなたを大いに喜ぶ」(ゼパニヤ書3章9-20節)

■はじめに

 私たちはキリストを救い主と信じる信仰によって永遠の滅びから救われ、天の御国が約束されています。しかし、このことはクリスチャンの人生には苦難がないことを保証していません。皆さんもおわかりのように、キリストを信じていても自然災害、戦争、事件、事故、重い病いなど私たちは辛い思いをします。ですので、現実だけを見れば神にがっかりしたり、キリスト以外に頼りたくなります。そこで今日は、私たちがいつも目を向けていなければならないものについてゼパニヤ書を見てゆきましょう。

 

■本論

Ⅰ.主の日には主を恐れる者だけが残り、その集団は聖さだけとなる(3:9-13)

 主はご自身に背き続けたユダ王国のさばきと、主を侮った諸外国のさばきを語りました。と同時に「主の義を尋ね求める(2:3)/主を恐れ戒めを受け入れる(3:7)」といったさばきを免れる道も明らかにしました。その上で、さばきを免れた者がどうなるのかを明らかにします(9-10節)。

 

 9節「そのとき」は主の日を指しています。11節の「その日」も同じです。この日、主はご自身のことを知っていながら侮っていた諸外国を徹底的に滅ぼします。「諸国の民の唇を変えて清くする」とあるように、異教の神々を崇めていた者は滅び、主を恐れる者は残されます。いわば、汚れを取り除き聖い者だけが残るのです。

 

 それゆえ、残った者たちは一つになって主を崇めて主に仕えます。しかも「クシュの川の向こうから/わたしに散らされた者たち」とあるように、イスラエルから遠く離れていても、主を恐れる者たちがみな集まって贈り物を手にして主を礼拝するのです。私たちクリスチャンも全世界に散らされていますが、主の日には天の都エルサレムに集まり、一つになって礼拝することを示唆しています。

 

 同じように、主の日にはユダ王国も聖くされます。11節「その日、あなたは」の「あなたは」はユダ王国の信仰の中心であるエルサレムを指します。繰り返し語っているように、この日、主はご自身におごり高ぶる者を滅ぼして取り除きます。加えて、「二度と高ぶることはない。(11節)」とあるように完全に滅ぼし、永遠に高ぶる者が起きることはありません。だから、「恥を見ることはない」のとおり、エルサレムは神や諸外国からの屈辱や罰を決して受けません。エルサレムには主にへりくだった、高ぶりに乏しい柔和な者だけが残るから、彼らは主だけを信頼して心身を預けます。その高ぶらずへりくだった者の様子が13節です。「不正を行わない/偽りを言わない/その口の中に欺きの舌は見つからない」とあるように、罪の影響を最も容易く受ける舌さえも悪をしません。つまり、イスラエルの残りの者には罪がないのです。それで彼らは「羊が草を食べて休む」ごとく安心して生きられるのです。

 

 主の日には、エルサレムのただ中、すなわちエルサレムの行く先を左右する場所から高ぶる者は一掃され、そこには主だけを信頼し崇める聖い者だけが残ります。ですから、エルサレムに生きる者は主からのさばきを恐れなくていいのです。また、外国においても主を恐れない者は滅ぼされます。ですので、外からの悪を恐れなくていいのです。それゆえ、主の日から始まる世界には安らぎしかないのです。これが、私たちに約束されている天の都エルサレムの姿であり、私たちはそこに聖い者として入れるのです。

 

Ⅱ.主の日に、残りの者は怒りと恐れから解放されて、喜びと安らぎの中に置かれ、「神の民」という栄誉が与えられる(3:14-20)

 ここで主はさばきを免れた残りの者へことばをかけます。14節「喜び歌え/喜び叫べ/心の底から喜び躍れ」のとおり、主のさばきを免れたことには言葉にならないほどの喜びしかありません。先ほど申しましたように、残りの者は主のさばきからも、外敵の脅威からも完全に永遠に解放されました。しかも、主が残された者たちの真ん中におられるのですから、これ以上の安心はありません(15節)。だから、二度とわざわいを恐れることがなく、恐れがもたらす弱気や無気力、虚しさ、失望もありません(16節)。まさに主の日から始まる人生には安らぎと喜びしかないのです。

 

 なぜそのような良い人生が与えられるのかを主はこう言います。17節「その愛によってあなたに安らぎを与え」とあるように、主のみこころは人が平安に生きることです。そのひな形が罪が入る前の人にあります。万物の創造において、人は完全に創造主である神に信頼し従ったから神を恐れることはありませんでした。被造物やエデンの園の管理という働きでさえも喜びと満足だけなのです。当然ながら、人同士においても安らぎしかなく、罪が入った後のように恐れや苦しみはないのです。

 

 それゆえ、主はたとえ人がご自身に背き続けていても滅びを免れる方法を明らかにしたのです。「従えば祝福、背けばわざわい」という契約からすれば、即刻わざわいを執行しても良いのに、主の日という猶予を設けたうえで、警告を与え滅びを免れる道を教えました。「人が安らぎに生きて欲しい」これが神の愛だから、主は高らかに歌うほど、そのとおりになった者たちを大いに喜ぶのです。

 

 ここで主は大喜びしながら、ご自身が残りの者たちに何をするのかを約束します。18節「例祭」は「主がおられること、そして主のみわざ」を喜ぶ儀式です。神の民だけに与えられた特権とも言えます。けれども、主のさばきである外国の侵略によって多くの者がエルサレムから散らされました。バビロン捕囚はその典型です。彼らは異国の地で主を礼拝できない悲しみがありました。あるいは神の民なのに神から見捨てられた者として、そしられました。しかし、主は主の日に残りの者を集めて、彼らが一つになって主を崇めて主を喜べるようにするのです。神の民本来の姿に回復させるのです。

 

 その様子が19-20節です。19節「足を引きずる者を救い、散らされた者を集め」は羊飼いのいない羊の群れを再び羊飼いが養う様を表しています。イザヤ書でも「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。(イザヤ53:6)」と罪ある人を羊の群れにたとえています。「連れ帰る/集める/元どおりにする(20節)」と主が語るように、滅びを免れた残りの者は本来いるべき場所に連れ戻されます。その場所こそが、主に属する聖なる者だけが住民となる「まことの神の国の都エルサレム」です。

 

 異教の神々を崇めている社会において、あるいは「主は良いことも、悪いこともしない」と心の中で主を信頼しない者がたくさんいる社会において、あるいは「私だけは特別だ」と心の中で高ぶっている世界において、主を恐れる者だけが主の日に滅びを免れて、神の都エルサレムに集められ、永遠の安らぎと喜びを生きるのです。

 

 その上、主は「地のあらゆる民の間であなたがたに栄誉ある名を与える。」と言います(19-20節)。「栄誉」はあらゆるものの中で最も誉が高い主の栄誉を指します。つまり「栄誉ある名」とは神の民、神の子のように「神あるいは主」を冠する名なのです。別な見方をすれば、「栄誉ある名」は「あなたは何よりも立派である」と主が認めたしるしなのです。どんなに地位が高く権威があったとしても、どんなに裕福であったとしても、どんなに肉体や頭脳が優れていても、主からすれば「神」という名が付けられている者の方がはるかに優れているのです。ちょうど、私たちがメーカー名やブランド名で品質の良し悪しを判断しているようなものです。

 

 主に背いてたイスラエルの民すなわち神の民は、神からの祝福を受けられないがゆえに他国からそしられました。「神の民」という名称は恥の代名詞だったでしょう。けれども、主の日からは一転して、神の民は滅びを免れ永遠の安らぎと喜びを受ける者になりました。恥ずべき名称が誉ある名称になるのです。だから、まことの神の都エルサレムでは、神の民が喜び歌い、喜び叫び、心の底から喜び躍るのです。

 

■おわりに

 ゼパニヤ書の説教を閉じるに当たり、「主の日」を現代の私たちに当てはめます。旧約聖書におけるイスラエルの民という点からすれば、私たちは異邦人、諸外国の者です。ですから、彼らのように律法や預言者を通して直接的な方法で神を知ることはできません。だからといって主の日のさばきは「理不尽だ」とはなりません。パウロが言うように、神の目に見えない性質は世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるからです(ローマ1:20)。ですから、わかるはずなのに知ろうともせず、神に背を向けていた私たちに非があるのは明らかです。

 

 ただし、愛の神はただ滅びに向かう私たちをそのままにはしませんでした。我が子イエスの命によって私たちへの怒りをなだめ、そのイエスをよみがえらせることで私たちとご自身との仲介者としました。このイエスを救い主と信じることによって、私たちは主を恐れる者と認められ、主の日のさばきを免れるのです。それで、私たちは天のエルサレムで永遠の喜びと安らぎが与えられるのです。すべては神の愛によります。私たちの手柄ではありません。

 

 そして今、私たちは「神の子/神の家族/神の民/クリスチャン/キリスト者」のように「神・キリスト」という栄誉ある名を与えられています。ただ水戸黄門の印籠とは違い、地上の世界ではこの名はあまり効力がありません。けれども、主の日には「永遠の滅びを免れて神の国に入れるしるし」となります。「【主】の大いなる日は近い。それは近く、すぐにも来る。(1:14)」と主は告げます。この名が与えられていることを主に感謝しながら、主の日を待ち望みましょう。

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