■はじめに
日本では神道に根差した行事がいくつもあります。例えば、1-2月では初詣、鏡開き、節分などがあり、通年では地鎮祭や厄払いなどがあります。神道をはじめとして世界の諸宗教では、行事や儀式のように何らかの行いによって神からのご利益を受けようとしたり、その反対に神からの災いを免れようとします。一方、キリスト教はどうでしょうか。聖書を暗記しないと洗礼を受けられないとか、毎日1000回お祈りをしなければ祝福されないといったような、行いによる救い・祝福をイエスは語っていません。今日は、滅びから救われるために神は何を人に求めているのかをみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.主はユダ王国の背きを政治や宗教の指導者が原因としている(3:1-5)
1節「暴虐の都」とあるように主はユダ王国の都エルサレムの背き、すなわちイスラエルの背きを指摘します。主はすでにエルサレムと諸外国のさばきを語っています。ここでもう一度イスラエルを扱うのは、それだけ彼らの罪は大きいからです。と同時に、悔い改めに期待しているからです。
「主への反逆、汚れ、人への暴虐」と指摘するように、イスラエルの民は神の民として本来の歩みとは全く反対になっています。なぜなら、主なる神がこの時代まで示してきたように、神の民は反逆ではなく従順、汚れではなく聖さ、暴虐ではなくあわれみでなくてはならないからです。
神のみこころと正反対なのは2節のような行いに現れています。主は4つの否定を用いてイスラエルの背きを強調しました。ここで、主の呼びかけに聞き従わない、主の戒めを受け入れない、主に拠り頼まない、主に近づこうともしない、と指摘されているように、彼らは主への信頼どころか主を気に掛けることすらしていません。神に向かって礼拝しているけれども、信仰は形式的で内面では全く主に向き合っていないのです。
そんなイスラエルを見て主はその原因をこう言います(3-4節)。主は4つの職業を取り上げています。
①都の高官:政治・行政の指導者、役人。彼らは民に対してあわれみゆえに養うべきなのに、雄獅子のように民を食い物にしています。
②都をさばくもの:裁判官の役目を持つ長老。「夕暮れの狼。朝まで骨をかじってはいない。」は隠れて悪事を行っている様子。つまり、神の正しさを全うしていない。
③預言者:「ふしだら」は「きまぐれ/不真面目」を、「裏切る者」は「不誠実」を意味する。自分の都合で神からのことばを伝えなかったり、変えたりしている。
④祭司:本来は神の聖さを示し、律法を教える立場。
つまり、高官とさばく者によって民は暴虐となり、預言者によって反逆となり、祭司によって汚れになるのです。政治や宗教の指導者自体が主に背くから、おのずと民もそのようになるのです。主に背く民はさばきを受けなければなりませんが、彼らをそのようにした指導者たちの罪は非常に重いと、主は見ているのです。
その一方で主は「【主】は、そのただ中にあって正しく、決して不正を行われない。ご自分の公正を、朝ごとにくまなく照らす光とされる。(5節)」と言います。どれだけ都が背いていても、主の正しさは決して変わりません。「朝ごとにくまなく照らす光」のごとく、主は常に正しさを明らかにし、不正を暴いています。本来、神の代理としてその働きを担うのが先ほど扱った4つの者たちです。しかし、彼らは自らの役割を全うしないばかりか、自分たちの不正に気付かない、恥知らずな者になっているのです。イスラエルが堕落したのは、主に原因があるのではなく、すべては神の民イスラエルにあるのです。
「神の民であるにもかかわらず、神の民として恥ずべき者になっている」のは2節のように段階があります。主のことばに従えば必ず祝福を受けます。けれども、従順が自分を不自由にさせるとしたら、人はそのことばを実行したくなくなります。そこから聞くことを止め、聞きに行かなくなり、最後には無視になります。見方をすれば、だんだんと自分の考えや判断に重きを置くようになるのです。一足飛びに神に無関心にはなりません。私たちはみなそのような性質を持っています。しかも、国や社会の指導者や上司、同僚が神を無視する中に身を置いていればなおさらです。「自分は主への信頼がどんな様子なのか」を2節は教えてくれます。
Ⅱ.主を恐れ、聞き従う者は主の日における徹底的なさばきを免れる(3:6-8)
主はここで再び諸外国へのさばきを語ります(6節)。「四隅の塔」は1章で語られているように、町を守るための櫓であり、堅い防御をたとえています。主は神の民をあざけり主を恐れない外国を滅ぼします。主は容易く町を完全に破壊し廃墟とするのです。あのアッシリアでさえも主は滅ぼし、神に対して高ぶる者は誰一人さばきを免れません。諸外国へのさばきは、どれほど頑丈な城壁、どれほど強大な軍隊、どれほど豊かな財産があったとしても、主のさばきは免れないことを他山の石としてイスラエルに伝えているのです。
その上で主はさばきを免れる道を教えます。主の徹底的な滅びを免れるためには、主を恐れて高ぶらず、主の戒め、すなわち主のことばを受け入れるのです(7節)。「受け入れる」は単に受け取るのではなく、受け取ってそれを実行するまでを言います。しかも「ただ」とあるように、これが滅びを免れる唯一の方法であり、ひたすら続ける必要があります。たとえ、あらゆる悪事を繰り返し行っていても、悪事に対する罰はありますが、完全な滅びには至らないのです。ここに主のあわれみがあります。
ここで大事なのは、神を恐れて神のことばに従うということです。主は「何か良いことをたくさんやりなさい/何らかの結果を残しなさい」とは命じていません。ただ、神を畏れて従順であること、いわば行いではなく内面を見ているのです。だからすべての人が滅びを免れることができます。このことをパウロはエペソの手紙で語っています。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)」ただ主を恐れて聞き従うことが、滅びを免れる手段だからこそ、誰でも滅びから救われるのです。
それで主はイスラエルの人々にこう呼びかけます(8節)。「わたしが証人として立つ日」とは主の日を指しています。この日、主の審判が行われ、主に背く者は滅ぼされ、主を恐れ従っている者は祝福を受けます。なぜなら、主ご自身が「証人として立つ」からです。裁判官である主が証人として立ち、神を恐れる者が正しい者であることを証言してくださいます。人にとってこれにまさる安心はありません。
イスラエルの民はカナンに定住したのち、先住の人々が自分たちの神々を崇めることで豊かな実りが与えられた姿を見るでしょう。その一方で、イスラエルの神を崇めても他国の侵略という苦難が続いています。だから、ご利益を求めてバアルのような他の神々を崇めたり、主に頼らず同盟によって他国を頼ろうとしました。けれども、主の日すなわち、8節後半のようなさばきと祝福のどちらかに定められる日が必ずやってきます。「この世の苦難よりもはるかに恐ろしい滅び」と「この世の幸せよりもはるかにすばらしい喜び」に選別されるのです。だから、主はひたすら主を恐れながらその日を待て、と命じるのです。目の前の現実は一時的だけれども、主の日から始まる新しい世界は永遠だからです。
■おわりに
「あなたはただ、わたしを恐れ、戒めを受け入れよ。(7節)」これは聖書で一貫している祝福の手段です。イエスもこう言っています。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」私たちは神を恐れて、ただイエスを救い主と信じれば滅びを免れて天の御国に入れます。なぜならパウロが言うように、主の日の審判ではイエスが神と私たちとの間をとりなし、イエスによって私たちは正しい者とされるからです。「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ8:34)」
私たちはイエスを信じるだけで滅びを免れます。行いは一つも必要ありません。しかも、神の方から罪の罰を免れる方法を備えてくださいました。それがイエスの十字架とよみがえりです。私たちは何の犠牲も努力も払うことなく、ただイエスを救い主と信じるだけでよいのです。これこそが神のあわれみです。
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