■はじめに
私たちは「何でうまくゆかないのだろう」と思うことがあります。スポーツや芸術、仕事、料理などたくさんの分野で「なぜ上達しないのか/同じ失敗を繰り返すのか/どうしても克服できない」といった言葉をよく耳にします。そんな時、素人に聞いても適切な答えは返ってきません。しかし、プロあるいはその道の達人は、何がよくないのかを瞬時に見抜き、そしてその人のレベルに合わせて改善方法を指示してくれます。神もそれと同じで、私たちが歩むべき道から外れたら元に戻れるようにしています。今日は、私たちが神の安息に入れるために神は何をしてくださっているのかを聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.神のことばは私たちの心の奥にある罪をも指摘する(4:11-13)
手紙の読者であるユダヤ人クリスチャンは迫害の真っ直中にあります。それで、イエスを信じていても迫害が収まらないので「神の安息は本当にあるのか」と心配になっています。そのため著者はイスラエルの民と約束の地カナンの出来事を使って、「神の安息はまだ残っている」と励ましました。さらに著者は神のことばに聞き従える方法を伝えます。
著者は「イスラエルの民が神の怒りによってカナンに入れなかった」出来事を「不従順」という悪いお手本とし、神の安息に入れるように努めよう、と呼びかけます(11節)。ここで大事なのは「努める」とあるように、神の安息に入るためには、「何も気にしないで、いいかげんに生きる」のではなく、「ふさわしい状態を保つように」意識しなければなりません。だから、御声に対して頑なにならず、素直に聞き従うのです(ヘブル4:7)。
ここで著者は御声すなわち神のことばについて解説します(12節)。まず、著者は神のことばについて二つの特徴を教えています。一つ目は「生きていて、力がある」ということです。万物の創造において神はことばによって人以外のものを造りました。「○○あれ」と命じたらそのようになるのです。つまり、神から発せられたことばはその通りになるのです。死んでいるかのように、何も効力がないのではありません。それゆえ、神のことばを聞いたら頑なになってはならないのです。
二つ目は「両刃の剣よりも鋭い」ということです。日本だと両刃の剣は槍、片刃の剣は刀が代表格でしょう。両刃の槍は突いて刺す武器であり、一方の刀は切るとか断つ武器と言えます。ですから「心の思いやはかりごとを見分ける」とあるように、神のことばは人の心の奥底にある罪から来る悪や判断の過ちを、あたかも槍で突くかのように指摘します。
しかも、「たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き」とあるように、人にとっては違いや境目を見分けるのが極めて難しくても、神のことばは完全に見分けられる程の鋭さを持っています。つまり、自分自身や他者が気づけない、あるいは気づかない悪や過ちを神のことばは指摘するのです。だから、神の前には裸であり、隠れているものは何もなく、隠すこともできないのです(13節)。ただし、神のことばは鋭く見分けて指摘しますが、刀のように罪の誘惑を断ち切るものではありません。指摘されたことに従うかどうかは自分の意志にかかっています。
「人はうわべを見るが、【主】は心を見る。(Ⅰサムエル16:7)」とあるように、神は私たちの内側をご覧になって「神へ背く思い」や「神のみこころとは違う思い」を指摘します。聖書を読んでいる時、説教を聞いている時、みことばを瞑想している時、神はみことばを通して私たちの悪や判断の間違いや向かって行く方向の誤りを指摘します。それは神の安息に入って欲しい神のあわれみによります。私たちがどうでもよい存在だったら、そんな指摘はしません。神は私たちを大切にしているから、みことばによって私たちに修正あるいは方向転換を求めているのです。だから、心を頑なにしないで、素直に受け入れるように努めるのです。そして、神が指摘してくださるように願うのです。
Ⅱ.神は私たちの弱さを知っているから、大祭司イエスを信頼するように勧める(4:14-16)
さて、著者はここでイエスに話題を変えます。今申しましたように、神のことばが私たちの誤りを指摘したら、まずそれを素直にそのまま受け入なければなりません。なぜなら、神のことばはその通りになるからです。その次にすることは神の指摘に従う意思と行動です。そのためにイエスに頼ろうというのが著者の狙いです(14節)。
「もろもろの天を通られた」とあるようにイエスは見える世界だけでなく、見えない世界いわゆる霊の世界も含めてあらゆる場所を支配しておられます。そのイエスが大祭司として神と人との間をとりなしています。イエスを救い主と信じた者は大祭司イエスをすでに持っているから、信仰の告白すなわち「イエスが救いである」という真実にすがりつくようにしっかりと掴むのです。
なぜなら大祭司イエスはこのようなお方だからです(15節)。「私たちの弱さ」とは、みことばから指摘を受け取っても「不安で足を踏み出せない/自分のこだわりを捨てきれない/他に頼ろうとする誘惑を断ち切れない」といったように「神を信じていても従いきれない部分がある」ということです。そして、その弱さを明るみに出すのが「試み」です。イスラエルの民は荒野で「水がない/食べ物がない」といった不平をモーセに訴えました。水や食糧の不足は彼らにとっては不安や苦痛です。けれども、神からすれば「エジプトを脱出させた神がいるから大丈夫だ」となるかどうかのテストなのです。この手紙の読者で言えば、迫害が試みと言えます。
先ほど申しましたように、神であるイエスは人のすべてをご存じです。しかし、イエスはすべて知っているからといって天から人を見ることはしませんでした。イエスは人としてこの世に生まれ、十字架で死ぬまで人として生活しました。だから、人の弱さを身を持ってわかるのです。ただし、試みにおいても神に背く罪を犯しませんでした。それを最もよくわかるのがゲツセマネでの祈りです。
「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください(マタイ26:39)。」イエスは十字架すなわち神の怒りの杯を去らせるように父なる神に願いました。神から科せられた苦痛の極みを逃れたいという試みの真っ直中にあるのです。けれどもイエスは「あなたが望まれるままに、なさってください。」と一切を父に委ねて十字架を受けました。まさにイエスは私たちと同じように「神に従うのは避けたい」という弱さを身を持って体験しているのです。と同時に、避けたいという弱さを自覚持しながらも、神への従順を成し遂げています。言い換えればいかなる時でも神への従順を貫ける力を備えているのです。
それで、「このようなイエスを持っているのだからイエスに頼ろう」というのが著者の訴えです(16節)。「恵みの座」とは神の恵みをもたらす中心であるイエスを言います。また、「イエスに近づく」とは、「イエスがいるから試練を乗り越えられる」という確信を持ちながらイエスのことばに従うことです。しかも、「大胆に」とあるように躊躇することなく遠慮しないで頼っていいのです。
そして、大胆に恵みの御座に近づくことで「あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受ける」のが実現します。これをイエスで考えてみると、イエスは完全に神のことばに従った結果、十字架の死からよみがえり、父のおられる天に戻りました。地上の人生ではイエスの求めに応じて神は偉大な力をイエスを通して発揮しました(例えば、ラザロのよみがえり)。
それと同じように、私たちもイエスを頼りにして神のことばに従えば、天の御国での永遠のいのちがあり、地上の人生では聖霊による不思議な平安があるのです(ヨハネ14:16,27)。神のことばである聖書を通して指摘を受けたならば素直にそれを受け入れ、恐れや不安があったとしても実行できる力をイエスに求める、これがこの世に生きる私たちのあり方です。神は私たちの弱さをお見通しだから、助け手であり、とりなし手であるイエスを私たちにくださっているのです。
■おわりに
前回申しましたように、私たちは本来神に背いているため神の怒りの下にあり、神の安息である天の御国に入れない存在でした。苦難の人生を終えた先に、永遠の苦しみが待っているのです。しかし、神はそんな私たちをあわれみ、御子イエスに十字架という怒りを向けてイエスを信じる者への怒りを収めてくださいました。それ故、私たちは神の怒りがすでにないから神の安息に入れます。
しかも神は、私たちが間違った歩みをしないように、あるいはイエスを信じていない者が方向転換するように、神のことばである聖書を通して間違いを指摘しています。その上、罪の誘惑に弱い私たちをイエスが助けてくださっています。イエスが私たちの弱さを神の前に訴え、正しい道を歩めるように神に懇願しているのです。神はすべての人が神の安息に入れるように、いくつもの助けを与えてくださいます。それほど神は人を大切にしているのです。
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