■はじめに
イエスは人が女性から生まれたようにユダヤ人女性マリアから生まれました。ただし、誕生に際しては特別な人として迎えられました。ベツレヘムから遙か遠い地で、学者たちは占星術によってユダヤ人の王が誕生するすることを知り、イエスを崇めにやって来ました。羊飼いたちは救い主キリストの誕生を御使いから知らされ、それを確かめました。エルサレムの宮に連れて行った時は、二人の者が幼子イエスを救い主としてほめたたえ神を崇めました。何よりも父ヨセフと母マリアは聖霊によって身籠もったことを知っていました。まさにイエスの誕生は不思議に満ちていて、大人になってからの活動も不思議に満ちています。そのようなイエスがなぜ十字架で死んだのでしょうか。今日は十字架刑の様子からイエスがこの世に来た意味について聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.イエスは誰からも助けられることなく十字架にかかった(19:17-27)
ピラトはイエスに罪を見出せなかったのにイエスを十字架刑に定めました。なぜなら、ユダヤ人の王として彼を放置すれば、自分がローマ皇帝カエサルよりもイエスを重んじていると見なされるからです。それで、イエスは鞭打ちで弱っていたにもかかわらず、約50kgの十字架の横木を担ぎ、1kmほどの緩い上り坂を歩いてゴルゴタと呼ばれる処刑場に行きました(17節)。
処刑場には3つの十字架が立てられ、イエスは真ん中に、イエスの両脇に強盗犯がつけられました(18節)。そしてイエスにはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」という罪状書きが付けられました(19-20節)。過越の祭りにはユダヤ人だけでなくユダヤ教に改宗した異邦人も巡礼に来ていました。彼らはギリシア語やラテン語を使っていますから、この罪状書きはエルサレムにいるほとんどの人が読めるようにしているのです。
この罪状書きを読んでいる者の中で、唯一ピラトだけがイエスに罪はないと知っています。それ以外の人々はイエスを重罪人として受け取ります。特に、ユダヤ人はイエスがエルサレムに来た時、ローマ解放の王・メシアとして熱狂して迎えたのに、今は重罪人としてあざけり、さげすんで眺めます。誰もイエスを助けず、かばいもしません。イエスはユダヤ人から見捨てられたのです。
この罪状書きにちょっとしたもめごとがありました。祭司長たちは自分たちでイエスをユダヤ人の王としてピラトに訴えておきながら、いざ公に「ユダヤ人の王」とされると「こんな人間を自分たちの王と認めたくない」という思いからピラトに書き換えを願いました(21節)。一方ピラトは「ユダヤ人の王」と書くことで、イエスをカエサルに背く政治犯として公に示せるので、この名称にこだわりました(22節)。両者ともイエスのいのちよりも自分たちの思い通りにする方を優先するのです。まさに自己中心がここに露わになっています。
十字架刑ではローマ兵士が処刑を担っていました(23-24節)。当時の習慣として、処刑執行人は死刑囚の服を分け前にしていました。それで4名の兵士はイエスの上着を縫い目に沿って4つに分けました。一方、肌に直接着る下着は縫い目がなかったので、そのままにしました。4つに裂くと価値が無くなるからです。彼らの関心はイエスのいのちではなく、「今回はどんな物を手にできるのか」という役得でした。ただし、彼らにはいつも通りのことですが、真理は詩篇22:18がその通りになりました。
この時、4人の女性とイエスの愛する弟子が十字架のイエスに寄り添っていました(25節)。イエスの愛する弟子はヨハネと思われます。この者たちは、他者からイエスの仲間と見られたとしても、イエスのそばにいたいのです。それほどイエスを慕っているのです。ここでイエスは自分の母に「あなたの息子です。」と弟子を示し、弟子には「あなたの母です。」と言いました(26節)。弟子はその通りイエスの母を家族として引き取りました(27節)。イエスはご自身を信じる者は神の家族となることをあらかじめ教えたのです。言い換えれば、ご自身が去っても「神の家族」という目に見える形での安心を保証したのです。
十字架の様子は4つの福音書すべてに記されています。ただし、マタイ、マルコ、ルカがイエスの苦しみやイエスの言動を書いているのに対し、ヨハネは十字架を取り巻く人々に焦点を当てています。「手のひらを返したようにイエスを見捨てるユダヤ人/イエスの死を実現させた祭司長たち/無罪のイエスを十字架に定めたピラト/イエスに無関心な兵士/イエスに寄り添う者たち」彼らの中で、イエスを悲しんだのは側に来ていた者たちだけですが、ここに記された者すべてに共通することがあります。それはイエスを「神の子/よみがえり/救い主」と分かっていないことです。違う言い方をするならば「イエスは人として死ぬ」と理解し、誰も希望を抱いていないことです。さらに誰にもイエスを助けられなかった、ということです。イエス誕生とは全く違う有り様です。けれどもイエスはこの状況をそのままにしています。なぜなら、イエスにとって大事なのは地上で活動した成果ではなく、神のみこころである十字架刑だからです。
Ⅱ.イエスは聖書がその通りとなるために、自ら霊を父に引き渡した(19:28-30)
ヨハネは十字架を取り巻く人々を記した後、イエスの最後の様子を記します(28節)。イエスはこの世でご自分がなすべきことを果たしました。一つは、「イエスが神の子でありイエスを信じれば永遠のいのちを得る」という真実を不思議なわざとともに世に示すことです。もう一つは、イエスがよみがえった後、聖霊が下って弟子たちがイエスを証言するようになること、いわば弟子の養成です。
先ほどヨハネが記した人々の様子をイエスは見ています。たとえご自身を助ける者が誰一人いなくても、ご自身の無罪を訴える人が誰一人いなくても、なすべきことを果たしたから「完了した」とイエスは見るのです。
ただし、まだ果たしていないことが一つあります。それが十字架での死です。マタイとマルコの福音書に「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。(詩篇22:1)」とあるように、死はイエスにとって父なる神との断絶でした。だから、「わたしは渇く(詩篇22:15)」と聖書のことばを用いて、かつて天で一緒だったように(ヨハネ17:5)、イエスは父なる神と一つになることを求めるのです。
イエスのことばを聞いて兵士は「酸いぶどう酒」を口に差し出しました(29節)。酸いぶどう酒はぶどう酒から造った酢を水で薄めた物で、兵士たちは清涼飲料水としてこれを飲んでいました。イエスが十字架上で渇くと言ったので飲ませたのでしょう。
イエスはこれを口にした後、「完了した」と言い頭を垂れて霊を渡しました(30節)。伝道者の書は人の死をこのように記しています。「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。(伝道者の書12:7)」つまり、イエスは人としてご自身の霊を父に引き渡し、死にました。ここで注目したいのは霊が帰ったのではなく、イエスご自身が父に引き渡したということです。後ほど申しますが、十字架の死は「人の罪を赦すために神の罰を身代わりに受ける」ことであり神のみこころです。つまり、イエスはこの神のみこころを受け取り、自らの意志で実行されたのです。ここに、人を愛するイエスが明らかにされています。
イエスは霊を引き渡す、すなわち息を引き取る直前に「完了した」と言いました。息を引き取ってから「完了した」とは言えないので、この「完了した」には十字架での死を含んでいます。イエスがこの世に生まれたのは、神の派遣であり、神に代わって神のみこころを行うことでした。そして地上における最後のなすべきことが十字架での死でした。無罪なのに十字架刑となり、人々から見捨てられ、誰からも助けられないという、この世の価値観では何ら成し遂げているとは思えないけれども、これらもすべてを含めて神のご計画なのです。だから、イエスは私たちの見える所も見えない所もすべて見渡して「神のみこころを成し遂げた。」と言うのです。
■おわりに
イエスは無罪だったのに、イエスに関わる人々の思いから十字架刑に定められて死にました。ただ福音書には十字架での死と私たちの罪との関係は明確にされていません。けれどもヨハネが「聖書が成就するために」と繰り返しているように、イエスの死も聖書すなわち旧約聖書の成就でした。特にイザヤ書53章はイエスの生涯をあらかじめ記していて、その中で「神のみこころによるイエスの十字架」はこのように記されています。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。(イザヤ53:4-6)」
まさに十字架は私たちの罪の罰をイエスが代わって受けた証拠です。私たちが受けるべき罰をイエスが担ってくださったから、私たちの罪は赦され天の御国における永遠のいのちと地上での平安が受けられるのです。これが神のみこころだからイエスは「完了した」と言い、霊を父にお渡しになりました。イエスの十字架は約2000年前の遠く離れたイスラエルでの出来事ですが、現代日本の私たちに無関係ではなく、私たちにとってなくてはならない出来事なのです。イエスは2000年後の私たちを愛し、私たちのために十字架にかかりました。
Comentários