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木村太

12月13日「イエスは十字架の時をわきまえている」(ヨハネの福音書7章1-13節) 

・はじめに

 イエスがユダヤの宗教指導者に捕まったとき、弟子たちは全員逃げました。群衆は祭司長たちに扇動されたとはいえ、重罪人バラバを釈放しイエスを十字架に掛けるよう叫びました。だれ一人イエスを助けるために声を上げませんでした。総督ピラトはイエスに罪を見いだせないと言っていたのに、群衆の騒ぎを恐れて十字架刑の判決を下しました。イエスを取り巻く全員が真理と正義よりも自分を守ることを優先したのです。今日はイエスの十字架が実現してゆく経緯を聖書に聞きます。


Ⅰ.イエスは「わたしの時」と「世が憎むこと」とのつながりを明らかにした(7:1-9)

 ガリラヤ湖北部の町でパンと魚の奇蹟がなされ、そこからパンを巡る議論となりました。その後も、イエスはガリラヤ地方で奇蹟と共に福音を伝えていました(1節)。なぜなら、パリサイ人のようなユダヤ人宗教指導者たちが、エルサレムを中心とするユダヤ地方でイエスを殺そうと企んでいたからです(ヨハネ5:18)。イエスは安息日のいやしを初めとして、昔からのしきたりよりもあわれみを優先したので、イエスの人気と期待はどんどん高まってゆきました。それで宗教指導者たちは自分たちの権威が脅かされるのを恐れてイエスを亡き者にしたいのです。


 時はちょうど仮庵の祭りの時期でした(2節)。仮庵の祭りはイスラエルの三大祭りの一つで、秋にエルサレムで行われました。この祭りはエジプトからの脱出と収穫を神に感謝するためのもので、ユダヤ人はこれに参加するよう律法で定められていました。ですから、イスラエル全土からエルサレムに人が集まるのです。


 そこでイエスの兄弟たちがこう言いました(3-4節)。兄弟たちはガリラヤ地方を去って、ユダヤすなわちエルサレムに行き、世の中の人々に不思議なわざを見せなさい、と勧めました。「自分で公の場に出ることを願いながら」とあるように「イエスが王様や革命家のような支配者になるのを望んでいる」と彼らは考えていたのです。だから「こんな田舎にいないで、人々が集まる仮庵の祭りに行ってその力を見せなさい」と言うのです。そうすれば弟子たちもますますイエスを信頼することになります。


 けれどもイエスはこの世の支配者やスーパースターになるために奇蹟をなしているのではありません。ご自身が神の子、罪を取り除く救い主であることを世に示すためであり、何よりも父である神のみこころに従っています。兄弟たちはイエスの真実を全く分かっておらず信じていないから、このように言うのです(5節)。


 兄弟たちのことばを受けてイエスは答えます(6節)。「わたしの時」の「時」は定められた特別な時期や機会を意味します。イエスにとって「わたしの時」はもちろん十字架の時であり、またエルサレムは十字架刑で人の罪を背負うための特別な場所です。けれどもまだその時には達していないのです。


 一方でイエスは「あなたがたの時はいつでも用意ができています。」と言います。「あなたがたの時」とはイエスを救い主と信じる機会であり、それは奇蹟やことばを通してイエスの真実に目が開かれた時です。イエスの十字架とよみがえりを見なくても、預言書とイエスのふるまいを照らし合わせれば、今の段階で信じることはできます。


 そしてイエスは「わたしの時」がどのようにして近づくのかをこう言います(7節)。この世は罪ある人で構成されていますから、世の価値観や倫理観は人の性質と同じです。けれども、イエスはこの世に属する者ではなく神に属する者ですから、この世と違う基準を持っています。ですから、安息日のいやしや罪人・汚れた人への応対のように、あわれみを必要としているのにあわれみをなさない世を悪と指摘するから、憎まれたりバカにされるのです。それゆえ宗教指導者たちは憎しみ故にイエスを殺そうとしています。


 ただし、この憎しみが高まってイエスを十字架に付けました。冒頭にも申しましたように、群衆の「十字架につけろ」という叫びがピラトの判断を打ち負かしました。つまり、8節「わたしの時はまだ満ちていないのです。」とあるように、イエスを十字架につける世の憎しみがまだ満ちていないのです。今エルサレムに行って捕まり殺されるのは神のご計画でないのはもちろんのこと、今エルサレムに行っても全員が「十字架につけろ」にはならないのです。


 イエスの兄弟たちは「自分を世に示しなさい。」と勧めました。これはまだイエスの認知度やメシアへの期待が高まっていないためです。その証拠に、イエスについて「良い人」「群衆を惑わす」と評判が分かれています。「イエスこそがローマから開放するメシアだ」という期待が最高潮に達すれば、そうではないと分かった時、失望から来る憎しみもまた最高潮に達し十字架刑に至るのです。イエスはその時を待っていますが、どんな気持ちなのでしょうか。ただ確かなのは、人の憎しみがもたらす十字架によって人は罪を赦されて永遠のいのちをもらっているのです。私たちの憎しみもイエスを十字架につけているのです。


Ⅱ.群衆はユダヤ人指導者を恐れたため、誰もイエスのことを語らなかった(7:10-13)

 さて仮庵の祭りで動きがありました(10節)。イエスは「わたしはこの祭りに上って行きません。」と言いましたが(8-9節)、十字架とよみがえりのエルサレムで前もってご自身を明らかにしなければならないために仮庵の祭りに向かいました。ただし、見つけられて殺されるのを避けるために、人目を避けてエルサレムに行きました。けれども仮庵の祭りに来ているのが分かってしまいます。


 イエスが来ていることを知って人々は反応しました。ユダヤ人指導者たちはやっきになってイエスを探します。強い殺意が伝わってきます(11節)。一方、群衆もイエスが来ていることに関心を持ちました。ただ、イエスの評判は一つではありません(12節)。安息日であっても苦しむ人を助ける姿に感動した人は「良い人」と言います。反対に昔からのしきたりを否定したり、「わたしの肉を食べ、血を飲む」といったあり得ないことばに注目した人は「群衆を惑わしている」と言います。しかし、どちらも「イエスを信じれば永遠のいのちを与えられる」という滅びからの救い主に目が開かれていません。


 もう一つ両者に共通していることがあります(13節)。彼らはイエスを探しているユダヤ人指導者を恐れ、イエスについて小声で話すものの、人前ではっきりとは語りませんでした。もし、イエスのことを表立って語ったら居場所を尋問されるかもしれません。まして「良い人」などといったらイエスを擁護していると見られ、イエスの仲間としてひどい目に合うのは明らかです(ヨハネ9:22)。それで群衆はイエスについて口をつぐみました。


 この宗教指導者たちと群衆の姿に十字架刑の下地が見えています。イエスを十字架につけたとき、だれ一人「イエスに罪はない/イエスは神の子であり救い主だ」と訴える者はいませんでした。弟子のペテロでさえ宗教指導者を恐れてイエスとの関係を3度否定しました。時の権力者を恐れて口をつぐんだり、見て見ぬふりをしているのは、十字架刑に同意していることと同じです。人が本来恐れなければならないのは神の怒りである永遠の滅びであり、正義を歪める強権者の怒りではありません。けれども、私たちは心や体に苦痛を受けたくないので、口をつぐんでしまうのです。


 先ほどイエスの十字架刑はイエスへの憎しみがもたらすと申しました。それに加えて、人を恐れる弱さもイエスを十字架につけているのです。しかし確かなのは、弱さを持つ人を救うためにイエスは十字架刑で死んだのです。そのこともイエスは承知なのです。


・おわりに

 現代はイエスの活動した時代に比べて救いの道は完全に明らかにされています。なぜなら、十字架での死、よみがえり、昇天、聖霊の下りがすでにあり、なぜイエスを信じれば滅びを免れて永遠のいのちが与えられるのかがこの世に示されているからです。言い換えれば、「人の罪による滅び、イエスによる永遠のいのち」という真理がイエスの時代よりもはるかに明瞭になっています。


 一方、イエスを取り巻く環境はさほど変わっていません。イエスの兄弟がイエスのことを間違って見ていたように、イエスはキリスト教の教祖と捉えている人がいます。群衆のように、イエスのことばは道徳的に正しく聞く価値があると言う人もいれば、「キリスト教の教えはくだらない/馬鹿げている/何の役にも立たない」と言う人もいます。また宗教指導者のように、キリスト教を禁じたり迫害する民族や国があります。日本もそのような時代がありました。迫害まではいかなくてもクリスチャンゆえにからかわれたり、偏見を持たれるときもあります。それであの群衆のようにイエスについて口をつぐんでしまうこともあるのです。


 いつの時代もイエスは擁護されないばかりかあざけりと憎しみ、そして無関心の対象となっています。天の御国のようにすべての人がイエスを喜び信頼する世界ではないのです。けれどもイエスはそんな人間を滅びから永遠のいのちに救うために、神が定めた時にこの地上に生まれ、神が定めた時に十字架で死にました。それほどまでに神は私たちを愛しているのです。

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