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木村太

12月17日「諸外国のさばき ➀ペリシテ」(ゼパニヤ書2章1-7節)

■はじめに

 現代社会では、他者よりも優っていることを良いとか喜びになる、という思想に包まれています。例えば、身分、地位、学歴、収入などはその典型です。最近では動画サイトの登録者数とかSNSの「いいねの数」というのもあります。一方、キリスト教では今生きている世界ではなく、キリストが再臨したときの審判いわゆる最後の審判がどうなのかに関心があります。というのも、喜びに満ちた人生には限りがありますが、最後の審判で無罪とされれば天の御国で永遠に喜びながら生きられるからです。いくら楽しい人生だったとしても、永遠の滅びというさばきを受けたら取り返しがつきません。そこで今日は、どういった者が主のさばきを受け、どういったものがさばきを免れるかを見てゆきましょう。

 

■本論

Ⅰ.主はゼパニヤを通して、主の日のさばきを免れる方法を伝えた(2:1-3)

 主は心の中で主を必要としていない者を主の日に罰します。これが主の日のさばきです。たとえ異教の神を目に見える形で崇めていなくても、あるいは犯罪をやっていなくてもです。しかも、どれほど金銭に富んでいても、どれほど頑丈な建物に守られていたとしても、人の手によるものでは主のさばきを免れることは決してありません。この世のものはすべて主のさばきに対して無力なのです。ではどうすれば主の日のさばきを免れるのでしょうか。主はそのことをゼパニヤを通して語ります。

 

 主はイスラエルの民を「恥知らずの国民」と呼びます(1節)。ここの「国民」は「異邦人」を意味することばです。主は、ユダ王国が主に背いて異教の神を崇めるので、皮肉を込めて彼らを異邦人と呼んでいるのです。加えて、「恥知らず」は「青ざめていない/落ち着いている」意味ですから、彼らは「自分たちが主のさばきの対象だと」思ってもいません。それで、主は自ら一つに集まって、悔い改めの集会を開きなさいと命じるのです。

 

 というのも、「御定め」すなわち主の審判がまだ来ていないからです(2節)。もし、主の審判で有罪となれば主の激怒である滅びは、もみ殻のようにあっというまにやってきて、しかも火が嘗め尽くすように容易く(たやすく)滅ぼしてゆきます。だから、今のうちに罪を悔い改めて主に従うように、「集まれ。集まれ」と強く命じるのです。これもまさに主のあわれみです。

 

 ここでゼパニヤは悔い改めについて具体的に語ります。3節「柔和な者」とは主にへりくだった者を言います。ヨシヤ王の宗教改革以前、ユダ王国は父アモン王によって宗教的に堕落していました。しかし、そんな中でも主にへりくだり、主のことばに従って正しく生きている者が残っていたのです。おそらく、ゼパニヤは彼らにさばきを免れて国を再建するという望みをかけたのでしょう。

 

 ゼパニヤはそんな彼らに「【主】を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。」と命じます。主を求めるとは主を信頼して主に従うことであり、それを具体的に表したのが「義を尋ね求める。柔和さを尋ね求る」になります。義は主の正しさですから、義を求めるとは主の判断を求めることです。また、柔和さとはへりくだりですから、主に反抗しない態度、いわば主を第一とする生き方です。

 

 ただし、ここで注意すべきは「そうすれば、【主】の怒りの日に、かくまってもらえるかもしれない。」のことばです。「○○をすれば、主はさばきから守る」と主から約束されていれば、「【主】を尋ね求め、義を尋ね求め、柔和さを尋ね求め」れば守られると言い切れます。けれども、それが明確でなければ「自分のすべきことを尽くして、あとは主に委ねる」というのがへりくだった態度です。反対に「○○をやったから主は私をさばきから守るはずだ」というのは高慢と言えます。

 

 アダムとエバが善悪の知識の木から実を食べた結果、すべての人は神の判断よりも自分の判断を上にする、あるいは上にしたい性質を持ちました。主にへりくだることは簡単ではないのです。それゆえ「嫌なこと、痛みを伴うこと、自信のないこと」のように、主のことばであったとしても自分の意に沿わないのであれば、主に従いたくない、従えないときがあります。ある意味、心の中で主を尋ね求めない方が思いのままに生きられるでしょう。

 

 しかし、その人生の先にあるのは「主の怒りの日、主の燃える怒り」なのです。これは逃げたくても逃げられません。「主の判決は納得できません。主の罰を受けたくありません。」は通用しないのです。だから、そうならないためには「主にへりくだり、主のことばに従う」しかないのです。

 

Ⅱ.主は、イスラエルに敵対したペリシテ人を滅ぼし、さばきを免れた者に彼らの所有物を与える(2:4-7)

 続けて主はユダ王国を取り巻く外国へのさばきを語ります。彼らも「自分たちが主のさばきの対象だと思っていない」恥知らずの国民だからです。と同時に、外国へのさばきを示すことでイスラエルの民が悔い改めるという、いわゆる他山の石(たざんのいし)の狙いもあります。主はまずペリシテ人を扱います(4-5節)。

 

 ヨシュアをリーダーとしてイスラエルの民がカナンの地に定住したとき、ペリシテ人の土地はユダ民族のものでした。しかし、ヨシュアが高齢になったとき、ペリシテ人はガザ、アシュケロン、アシュドデ、エクロン、ガテの五大都市を組織しました。さらに、サムソンがペリシテ人の女性を妻にしたように、士師の時代にはすでにユダ族の支配下から独立し「ペリシテ」と呼ばれています。「海辺に住む者たち、クレタ人の国(5節)」もペリシテを指すことばです。

 

 ペリシテ人はイスラエルの神を畏れず、ダゴンをはじめとする自分たちの神々を崇め、神の民イスラエルを度々襲いました。それで、主は「わざわいだ(5節)」と嘆きのことばとともに主要都市の滅亡を告げます。ただし、五大都市の一つ「ガテ」が入っていないのは(4節)、ガテがユダ王国の支配下にあったからです。「アシュドデは真昼に追い払われ」は、半日で征服される攻撃を受けて滅びる様を表していますから、これらの都市はもみがらようにたちまち滅ぼされるのです。「わたしはおまえを消し去って、住む者がいないようにする。」とあるように、主のさばきは徹底的になされるのです。

 

 ここで主はペリシテ人が滅んだ後、この土地がどうなるのかを語ります。結論から言うと、ペリシテの地は「ユダの家の残りの者」すなわち「ユダ王国の中で主の御名を呼び求めてさばきを免れた者」の所有となります(6-7節)。「【主】が彼らを顧みて、彼らを元どおりにされるからだ。」とあるように、ペリシテの土地は牧畜が盛んになり、主が約束した「乳と蜜の流れる土地」になるのです。しかも、「アシュケロンの家々で横になる」とあるように、残りの者たちは自分たちで建てていない町や家に住むことができます(申命記6:10-11)。

 

 残りの者たちに対して主はわざわいの主ではなく、彼らを顧みる主となります。カナンの土地は主が約束したように繁栄と平和の地となるのです。だから、今のうちに「【主】を尋ね求め、義を尋ね求め、柔和さを尋ね求め」て、さばきから隠された残りの者となるように、主は警告するのです。主はねたみの神であると同時に、人をかわいそうに思うあわれみの神でもあるのです。

 

 本来、イスラエル民族はカナンの地を征服して定住するに当たり、異教の神々を崇める民族を滅ぼさなければなりませんでした。いわゆる聖絶です。けれどもイスラエルはそれを徹底できませんでした。それで、ペリシテ人たちは力を付けてイスラエルを襲うようになりました。ある意味、ペリシテ人は命拾いしたのです。しかし、主の日のさばきでは完全に滅ぼされます。神の民イスラエルを通して主を畏れ主を信じ、滅びを免れるチャンスを逃したのです。自らの思惑通りに生きたとしても、やがて来る主のさばきには生き残れないのです。

 

■おわりに

 現代の私たちも主のさばきを待つ時代に生きています。イエスはこう言っています。「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(ヨハネ14:3)」イエスは弟子たちの見ている前で天に行きました。そして、またこの世に来たとき、すなわち再臨において主の審判がなされます。

 

 神に背き続けた者は有罪となり、永遠の滅びに定められます。一方、イエスを救い主と信じる者は無罪となって滅びを免れます。言い換えれば残りの者となるのです。この者たちはイエスと父なる神のおられる天の御国に入り、永遠にそこに住みます。しかも「アシュケロンの家々で横になる」のように、イエスが用意した場所で永遠の繁栄と平和を生きるのです。

 

 再臨の日、主のさばきの日がいつ来るのかはわかりません。けれどもその日が刻一刻と迫っているのは確かです。だから「【主】の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。」と主が警告したように、私たちは主の日のさばきとそれを免れる方法、すなわち「イエスを救い主と信じる信仰」を伝え続けるのです。「この世での喜びや安心よりも、天での喜びと安心の方がはるかに大事であること」を私たちは知っているから語れるのです。

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