top of page
木村太

12月18日 「神がキリストを大祭司に任命した」(ヘブル人への手紙5章1-7節)

■はじめに

 私たちは初対面の人でも趣味が一緒だったり、同業者だったり、あるいは出身地が近かったりすると、話が通じるので早くうち解けるものです。同じように、病気や死別、自然災害、戦争といった苦痛に包まれている時、同じ経験をしている人から慰めを受けます。痛んでいる人の気持ちが手に取るようにわかるからです。私たちが信じるイエス・キリストも私たちの痛みをわかってくださるお方です。今日は大祭司という働きから、キリストこそが信頼できるお方であることを聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.著者は神が定めた大祭司の特徴(任命者,役割,性質,栄誉)を確認した(5:1-4)

 手紙の著者は迫害の中にあるユダヤ人クリスチャンに対して、御子イエス・キリストを信頼するように励まします。なぜなら、キリストが大祭司として神に助けをとりなしているからです。それで、この5章から10章に亘ってキリストという大祭司について解説しています。その手始めに、なぜキリストを大祭司と呼べるのかを語ります。


 著者はまず1-4節にかけて大祭司の特徴を語り、その後でキリストがその特徴を有していることを確かめます。最初の1節には任命者すなわち「誰が大祭司に任命したのか」ということと大祭司の役割が記されています。


 「大祭司はみな、人々の中から選ばれ(1節)」とあるように、大祭司はイスラエルの民の代表者であり、代弁者です。そして神は律法を通してレビ族のアロンの家系から祭司や大祭司を任命しました(出エジプト28:1)。つまり、大祭司は「神が人々の中から任命した者」となります。


 次に役割です。「人々のために神に仕えるように」とあるように、神が人のために何かをするときに、大祭司は神の代理人として働きます。その働きの中心が「ささげ物といけにえを罪のために献げる」こと、具体的には民が罪を犯した時に神に赦してもらうための様々な作業をします。律法においては多くの決まりがあるので、作業というよりも手続きに近いでしょう。


 続く2-3節には大祭司の性質が語られています(2-3節)。大祭司が「無知で迷っている人々」について罪の赦しを神にとりなします。彼らは神のことをよく知らないから罪を犯し、正しい道から迷い神以外に頼ろうとします。ここで大事なのは、彼らは無知ゆえの過ちであり、正しい道を知っていながらも罪の誘惑に負けてしまう者ということです。神のあわれみや偉大さを知りながらも故意に罪を犯す者ではありません。


 ただし、「その弱さのゆえに...自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません。」とあるように、大祭司も人ですから罪の無い者ではありません。例えば出エジプト記を見ると、モーセが一向に戻って来ないので民は不安になり、それに同情したアロンは金の子牛という偶像を造ってしまいました(出エジプト32章)。大祭司も目の前で罪の赦しを請う者と同じなのです。だから、彼らを理解できるので、罪を犯した者を思いやり優しくいたわることができます。決して機械的にとりなしの働きをしているのではないのです。ただ大祭司のすべてがこのような性質を持っていたかどうかはわかりません。ここで言えるのは「同情ゆえに優しく接する」からこそ真剣に神へのとりなしができるということです。


 大祭司の特徴4番目は「栄誉」です(4節)。大祭司は神の代理人かつ人の代表として神にとりなすという権威と栄誉を持っています。けれどもそれは大祭司が立派な人だからではありません。今、申しましたように大祭司も民と同じ罪に対する弱さを持っているからです。それゆえ罪赦された人がほめたたえるのは大祭司ではなく、罪を赦すために大祭司を任命した神になるのです。


 私たちは、イエスを救い主と信じる信仰によってイエスを通して大祭司のように神に祈りをささげることができます。それで私たちも大祭司のように他者のためにとりなしの祈りができるのです。その際大切なのは、その人の痛みや苦しみを自分のことのように受け取り、思いやるという気持ちです。と同時に、自分も弱さを持っている者であり、神のあわれみにすがるしかないという意思を持つことです。「他の人よりも自分が優っているからとりなしの祈りができる」という思いを持ってはいけません。イエスを通して神に祈れるのも、ただ神のあわれみだからです。


Ⅱ.キリストは大祭司の特徴を有しているだけでなく、完全で永遠の大祭司である。(5:5-7)

 著者は神が定めた大祭司の特徴を述べてから、それをイエスに適用してイエスが大祭司と呼ばれるにふさわしいかどうかを確かめます。ここで著者は、旧約聖書からキリストについて記されている箇所を2つ引用しています。5節は詩篇2:7から6節は詩篇110:4からの引用です。


 「わたしが今日、あなたを生んだ」「あなたは...とこしえに祭司である」とあるように神がキリストを大祭司に任命しました。それゆえ、アロンと同じように大祭司の栄誉も神から与えられています。ここで「メルキゼデク」を持ち出しているのはキリストがユダ族であり、レビ族ではないからです。後の章でメルキゼデクが詳しく取り上げられていますが、彼は律法が定められる以前に神が認めた「いと高き神の祭司(創世記14:18)」です。つまりレビ族でなくても、神が定めているからキリストは大祭司と呼べるのです。


 その上で「神が生んだ子」とあるようにキリストは神と同じで罪がないので、自分のためにささげ物を献げる必要はありません。さらに「とこしえに祭司」とあるように、キリストは人のようにある年月だけではなく、この世の終わりまで大祭司としてとりなすことができます。アロンのような人間の大祭司は聖さにおいて不完全であり、時間においては期間限定ですが、キリストは完全で永遠なのです。


 続く7節にはキリストの役割と性質が記されています。「大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ(7節)」とあるように、キリストは「肉体をもって生きている間」すなわち人として活動している時、困っている者や苦しんでいる者のために神に助けを求めました。「嵐を鎮める/死人をよみがえらせる/不治の病を治す/悪霊を追い出す」などたくさんのとりなしをしています。まさに大祭司としての役割を果たしています。


 しかも「祈りと願い」のすべてが「敬虔のゆえに聞き入れられ」その通りになりました。「敬虔」について口語訳では「深い信仰」、LIBでは「どんな場合にも神様に従おうとする」と訳されています。つまり一つの疑いもなく神を信頼し神に従っているのです。それが「自分を死から救い出すことができる方」に現れています。「神にとってできないことは一つもない」という信仰によってとりなすからすべてが願った通りになるのです。これは罪がないキリストのご性質です。


 ただし「大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ」とあるように、キリストは無感情でとりなしたのではありません。キリストは罪の誘惑に負けるという弱さはありませんが、人として生まれ十字架で死にました。ですから、人と同じ、いやそれ以上の苦しみを味わわれました。だから、目の前にいる人の痛みや苦しみを無視したり否定しないで、そのまま受け入れて優しく接してくださいます。私たち人間はたとえ同じ経験をしたとしても、自己中心のゆえに同情できないばかりか、無視や自業自得と見捨てる性質を持っています。キリストは人に代わって苦痛や悲しみを神に訴え、助けを嘆願しているのです。だから完全な大祭司と呼べるのです。


■おわりに

 キリストは神が定めた大祭司の特徴をすべて有しています。だからキリストは大祭司と呼ぶにふさわしいお方なのです。ただし、人よりも優れたところがあります。神への完全な信頼があるから罪の誘惑を断ち切れます。この世がある限り大祭司としてとりなしができます。


その一方、人として生きたのに加え、十字架刑という肉体的にも精神的にも悲惨な刑で死にました。それよりももっと苦痛だったのは完全に信頼していたのに神に見捨てられたことです。それゆえイエスは私たちの苦しみ、痛み、悩み、恐れを自分のものとして受け止めてくださるから、私たちを思いやり、いたわることができます。だからこそ、そのような私たちの叫びに代わって、神に助けを求めてくださるのです。


しかも、私たちは目先のことだけしかわからない上、間違いも犯しますが、キリストは永遠を見通し、神と同じ聖さと正しさを持ちます。だから私たちよりももっと優れた願いを神に求めているのです。そして、その敬虔のゆえにキリストの祈りと願いは聞き入れられます。キリストは私たちを思いやり、私たちにとってふさわしいことがらを神に祈り求めておられます。ここに大祭司イエス・キリストがいてくださる安心があります。

最新記事

すべて表示

9月3日「私たちはキリストとともに生きる」(ヘブル人への手紙13章18-25節)

■はじめに イエスは十字架の死からよみがえって弟子たちに現れ、そのあと天に戻って地上を去りました。人というかたちで弟子たちと一緒に生活することはありません。そのため、彼らに前もって「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)」...

8月27日「とこしえに変わらないイエス・キリスト」(ヘブル人への手紙13章7-17節)

■はじめに 学問、芸術、スポーツなど知識や技術を究めるには専門の指導者が必要です。独学でもある程度のレベルにはなりますが限界があります。というのも、自分一人では自分の様子を客観的に見れないし、お手上げになってしまったらなす術がありません。解決策を見つけるどころか、解決策があ...

8月20日「神への信頼から人への愛が生まれる」(ヘブル人への手紙13章1-6節)

■はじめに 私たちは自分の必要が満たされないとイライラしたり、そのことばかり気になるものです。時には、確かな証拠もないのに「社会のせいとか周りの人のせい」と思ってしまい、怒りをぶつけることもあります。そんな時に、他の人の必要に気がついたり、何とかしようと思うでしょうか。「自...

Comments


Commenting has been turned off.
bottom of page