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12月19日「神が人となられた」(ヨハネの福音書1章14節)

  • 木村太
  • 2021年12月19日
  • 読了時間: 7分

■はじめに

 クリスチャンはこの世界では絶対に説明のつかない出来事を信じています。その代表は聖霊によるマリヤの受胎とイエスのよみがえりです。また、自然を支配したり、死人をよみがえらせたり、あらゆる病を治すといったイエスのわざもそうです。今日のテーマである神が人となるというのも人知を越えた出来事ですね。でも私たちはそれを信じています。

 今日はどうして神であるイエスが人としてこの地上に来られたのかを聖書に聴きましょう。


■本論

Ⅰ.神であるイエスは人としてこの地上にお生まれになり、人と関わる存在となった(ヨハネ1:14)

 イエスの弟子である使徒ヨハネは、イエスがこの世に来る前はことばとして存在していたと語ります(ヨハネ1:1-2)。旧約聖書を見て明らかなように、ユダヤ人は預言者あるいはモーセのようなリーダーを通して神のことばを聞いたり、人知を越えた出来事を見て神の存在を知っていました。彼らは目には見えないけれども「ことば」というもので神の存在と支配を知っていました。ですから、ことばは神そのものなのです。現代の私たちも、直接見たり聞いたりしていないけれども、映像や文書で人を知ることができます。それと同じようなものです。


 ところで、ヨハネは地上でのイエスしか知りません。この世に来る前のイエスを見てはいないのです。ですがイエスが自然や悪霊、病、死などあらゆるものを支配できるのを見ています。また、教えられていないのに神の教えやこの世の摂理を熟知しているなどあらゆることを知っているのを見ています。そしてイエスが父なる神とご自身の関係を語ったのをイエスから直接聞いています。何よりも予告通り死んでよみがえり天に昇った事実を見ています。それでヨハネは「イエスは神である。そして、地上に来る前は父とともにことばという形で存在していた。」と証言するのです。


 しかも驚くべきことにヨハネは神であるイエスが人となった、と証言します(ヨハネ1:14)。マタイとルカが記しているように、イエスは臨月を迎えた母マリヤから赤ちゃんとして産まれ、人と同じ早さで成長しました。そして周囲の誰もがイエスを疑うことなくユダヤ人と認めていました。また喜怒哀楽があり、鞭打ちでは肉体が傷つけられ、十字架で人と同じく死にました。ですからイエスは神としての性質を持ちながらも、人間と同じ構造、機能、精神を持っているのです。


 それゆえ、イエスと人は何の隔たりもなくコミュニケーションでき、互いに理解し合えるのです。もし、神が木や石や動物になったとしたら、実際に見たり聞いたり触れあうことはできても、意志が通じ合わないので信頼できる関わりになりません。神は信頼関係が持てるように、私たちに合わせてくださったのです。ことばとして存在していた方が、私たちと同じ人間としてこの世に来られました。だから18節のように、人であるイエスがこの地上で神を明らかにすることができるのです。


 そのイエスが「私たちの間に住まわれた」とヨハネは言います。「住む」はイスラエルの民の中で神が天幕におられた様子を言います。つまり、神がイスラエルの真ん中にいて彼らと暮らし、常に彼らを見守ったように、イエスも常に人々の中で暮らし、関わってくださいました。イエスをインマヌエル(神は私たちとともにおられる)と呼ぶように、イエスは自ら一人一人に関わってくださるお方なのです。見方を変えれば、神が神である我が子をイエスというユダヤ人としてこの世に誕生させたのは、私たちのことを理解し、直接関わるようにするためなのです。「神とともにことばとして存在していた方がイエスという人となった」ここに神の愛が明らかにされています。


Ⅱ.イエスは人との関わりを通して神の愛をこの地上で明らかにした

 イエスは人としてこの世で生活しました。しかし、ただ漫然と過ごしていたわけではありません。神と同じ力、知識、知恵を発揮しながら、神のご性質を人に明らかにしました。その中心が神の愛です。今回は3つのことがらから、イエスが神の愛を明らかにしたことをお話します。


(1) どんな人も高価で尊い存在として受け入れた(イザヤ43:4)

イザヤ書43:4

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。


 「高価」とは高い価値があること、そして「尊い」は重んじることを言います。私たちは様々な価値観から「この人は大切だ/あの人はこの社会に必要だ」と評価してしまうことがあります。あるいは「自分は生きる価値があるのか」と悩むときがあります。しかし、神であるイエスの目には誰もが「高価で尊い」のです。


 この当時、イスラエルでは現代のような人権尊重ではありませんでした。例えば子供や女性は父親や男性の所属として扱われ、人として尊重されていません。また、生まれつき障害を持った人、悪霊にとりつかれた人、ツァラアト(重い皮膚病)の人など、祭司から汚れていると判断されてしまうと、人々から忌み嫌われるのです。ですから病の苦しみに加えて、精神的な苦痛も深く味わっていました。さらに犯罪人、遊女など道徳的不品行の者も社会から見放されていました。


 けれどもイエスは表面ではなく、人の内面を見て、辛く苦しんでいる人の傍らに行き、時には触れてその人を尊い存在として受け入れ、なぐさめて安心を与えました。まさに人となってイザヤ43:4の神のことばを実践したのです。


(2)十字架の死によって人の罪を負った(イザヤ53:5)

イザヤ書53:5

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。


 イエスは祭司たちの裁判でも、ポンテオ・ピラトの裁判でも罪を認められませんでした。しかし、イエスを殺そうとする者たちの激しい訴えによって、加えてピラトが正義を貫けなかったことで、イエスは十字架刑に定められました。これがイザヤ53:5の神のことばの実現です。人が受けるべき罪の罰を罪の無いイエスが十字架で負ってくださったのです。イエスはツバをかけられ、むちで何度も打たれ、50kgもある十字架を担いで処刑場まで歩かされ、十字架に釘で手足を打ち付けられ、そして十字架の上で苦しみながら死にました。しかも、その間ずっと人々からあざけりの声をかけられました。


 イエスが私たちと同じ人だからこそ、私たちはイエスの激しい痛み、苦しみ、屈辱を理解できるのです。「あの激しい苦痛と屈辱は本来私が罪の罰として受けなければならないものだ。」人として苦しんでいる姿から、私たちはこのことを実感するのです。同時に私たちは、イエスを通して我が子に罪を負わせた神の愛を知るのです。


(3)復活と昇天によって義と認められた者の行く先を明らかにした(ヨハネ11:25)

ヨハネの福音書11:25

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」


 イエスは十字架で死んだ後、墓に埋葬されました。そして3日後に人の肉体とは全く異なるかたちでよみがえり、弟子たちにその姿を現しました。例えば、脇腹には手を差し入れるほどの傷がありましたし、突然家の真ん中に現れました。その後、弟子たちの見ている前で、父なる神が住んでおられる天に昇って行きました。これは神から義すなわち正しいと認められた者は、イエスと同じように地上の人生が終わっても、別のからだでよみがえって天の御国で神とともに住むことを明らかにしています。まさにヨハネ11:25をイエスは身をもって私たちに明らかにしてくださったのです。これもイエスが人であったからこそ、「イエスを信じたらあのようになるんだ」と私たちは理解できのです。


 神は悪を行う罪人についてこう言いました。「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──【神】である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル18:23)」神は罪ある人間をおとがめなしには済ませません。聖であり、義であり、善のお方ですから、必ず罰し永遠の滅びを与えます。でもその罪人でさえも高価で尊い存在だから、罪を悔い改めて、神に向き直って生きる、すなわちイエスを救い主と信じて永遠に生きることを願っておられます。そのために我が子イエスを人としてこの世に遣わしました。これが神の愛なのです。


■おわりに

 「私は誰からも見捨てられている。私に寄り添う人はだれもいない。」その人に「私はあなたを愛している。あなたは高価で尊い」と声をかけて傍らに寄り添うために、イエスは人となりました。「私は罪にまみれてどうしようもない人間だ。こんな人間はいやだ。」その人の罪を赦し、新しく生まれ変わるためにイエスは人となり十字架で死にました。「私は死んだらどこに行くのか。天国か地獄か。」その人が天国に行けるように、イエスは人となり天国への道を明らかにしました。神であるイエスがこの世に来たことで、私たちの人生が変えられたのです。

 
 
 

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