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7月6日「勝利の王が来る」(ゼカリヤ書9章1-10節)

  • 木村太
  • 3 日前
  • 読了時間: 7分

■はじめに

 ゲツセマネの園で使徒ペテロが剣を振るったときイエスはこう言いました。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。(マタイ26:52)」剣すなわち武力で人や国を支配する、あるいは他国を制圧する、そういった人や国は必ず剣によって滅ぼされます。アフガニスタンで支援活動を行っていた中村哲さんは、このみことばが歴史上の鉄則だと語っていました。確かに、このみことばは全世界の歴史すべてに当てはまります。なぜなら「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。(創世記9:6)」とあるように神の摂理だからです。では、神の国はどのようにして建てられるのでしょうか。剣でしょうか。それとも別の手段でしょうか。今日はこのことをみことばに聞きます。

 

■本論

Ⅰ.神はご自身を恐れない国を滅ぼし、敵から神の国を守る(9:1-8)

 バビロン捕囚からエルサレムに戻って来た民は神殿を再建していましたが、敵の妨害により気力が萎えて中断したままにしました。それで主なる神は預言者ゼカリヤを通して八つの幻を中心に彼らを励ましました。これが1-8章の内容です。その後、神殿は完成しましたが(BC516)、完成に伴って人々の情熱も失せ、信仰も形式的なものとなり、さらには侵略の脅威も迫っていました。そのため、神は変わることのない約束の確かさを語り続けて未来への希望を持たせようとしました。これが9-14章のあらましです。そのうち9章は神の国がどのようにして建てられるのかが記されています。

 

 1-7節に出てくる町は、かつてはダビデによって支配されていましたが、今やイスラエルを脅かす存在となっていました。ハデラクはハマテの北方の地ですから、主はイスラエルの北の地方にご自身のことばを置きます(1節)。天地創造から明らかなように「神のことばがある(1節)」というのは神のみこころが実現することを意味します。ですから、イスラエルの人々をはじめツロやシドンといった北の町々も、イスラエルの神が何をするのかを注目するのです(2節)。

 

 主は何をするのかをこう宣告します(3-4節)。主は北方を代表する都市ツロを取り上げます。ツロは地中海に面しているため貿易と通商で繁栄していました。ですので、道端の泥のように財産があふれるほどありました(3節)。また、海に面した島には難攻不落の砦がありました。つまり、財力においても武力においても、自分たちが最も優れていると信じているのです。神からすれば自身を侮っているのです。それで主はツロを滅ぼします。「海に打ち捨てる/火で焼き尽くす(4節)」ごとくツロを完全に永遠に滅ぼすのです。現実には他国をもってツロを滅ぼしますが、どれほど富んでいてもどれほど強くても、主の前には歯が立ちません。

 

 ペリシテの地はその様子を注目していました。アシュケロンをはじめとするペリシテの町々は、絶対に落ちないと信じていたツロが滅ぼされたので恐怖を抱きます(5節)。そして、彼らが恐れていたとおり主のさばきが下ります(6-7節)。「その口から流血の咎を、その歯の間から忌まわしいものを取り除く(7節)」とはペリシテの神々に対する偶像礼拝を消し去る様子です。「わたしはペリシテ人の誇りを断ち切り(6節)」とあるように、ペリシテの民はイスラエルの神よりも自分たちの神々を誇っていました。だから、主は彼らを滅ぼすのです。ただし、「エクロンもエブス人のようになる(7節)」とあるようにエブスがエルサレムに取り込まれたごとく、主を恐れる者はイスラエルの民に迎え入れられます。いわば、神の国の住民となるのです。

 

 その一方で、主はエルサレムについてこう宣告します(8節)。主は「わたしの家」すなわち神の都エルサレムを守ります。「もはや、虐げる者はそこを通らない。」と約束するように、かつてエルサレムには町を虐げる者が出入りしました。その代表がバビロニア帝国です。けれども、これから建てられる神の国には虐げる者、言い換えれば神を恐れない者は決して入ることはできません。神の国には神の民すなわち神を恐れる者しか入れないのです。だから、神の国には完全な安心があるのです。

 

 イスラエルの歴史を見れば、北方の町々もペリシテの町々も主と呼ばれるイスラエルの神がどれほど偉大で恐ろしいのかを知っています。と同時に神を恐れる者は神のさばきを免れる神のあわれみも知っています。しかし彼らは武力や財力あるいは自分たちの神々に頼り、主を恐れませんでした。だから、主は容赦なく彼らを滅ぼすのです。しかも、主は神の都を完全に守ります。この約束がエルサレムの人々の希望と励ましになるのです。

 

 現代の神の民である私たちもこれと同じです。この世の中は悪が絶えることはありません。しかも、信仰ゆえの苦難もあります。けれどもキリストが再び来たとき、神はご自身を恐れない者を完全に滅ぼします。その一方、神を恐れイエスを救い主と信じる者を神の民として神の国に入らせます。神を恐れない者は決して入ることができません。それゆえ、私たちは天の御国で永遠に安心して暮らせるのです。

 

Ⅱ.「義・柔和・勝利」の王が平和のうちに敵の武装を解除し、全世界に平和をもたらす(9:9-10)

 神はまず神の国以外の町や民族をどうするのかを宣告しました。続けて神の国そのものについて宣告します(9節)。神の都エルサレムに神の国の王がやって来るから、踊り回るほど喜び叫べと主は言います。この王こそ若枝と呼ばれるメシアです。

 

 この王は「雌ろばの子である、ろばに(9節)」乗って来ます。馬は戦いの象徴ですが、ろばは平和の象徴です。しかも、「雌ろばの子」と但し書きしているように「雑種ではなく純粋なろば」を強調し、平和以外の何ものでもないことを表しています。そしてその通り、王はこのような性質をもっています(9節)。

①義:神の前に正しく、神に従う者

②勝利を得:神から勝利を与えらる者。ただし、この勝利は神の働きによる。

③柔和:神に対してへりくだり、謙虚な者。「貧しい/虐げられた/不幸」という意味もあるので、この王がイエスを指し示していると言えます。(マタイ21:5、ヨハネ12:15)

 

 主に滅ぼされる者たちは「主を恐れなく、主に対して傲慢」でしたから、神の国の王は彼らとは正反対です。その王が何をもたらすのかが10節です。「戦車、軍馬、戦いの弓」は戦いを左右する強力な武器です。それらをエフライムからエルサレムに亘って、すなわち神の国全土からなくします。つまり、すべての武装を解除するのです。ここで大事なのは「わたしは...絶えさせる」とあるように、主が武装を解除します。どのような方法なのか、ここからははわかりません。けれども、王が武力による戦いで勝ち取るのではありません。これがこの世の方法との決定的な違いです。

 

 その上で、王は平和を宣言します。「諸国の民/海から海へ、大河から地の果てに至る(10節)」とあるように、王は全世界を平和に治めます。バビロニアやアッシリアといったこれまでの国々は武力による制圧とか虐待で支配しました。しかし、神の国の王はすべての国や人に平和・平安をもたらします。全世界はもう恐怖や不安におびえることは二度とないのです。これこそが神の国に入れるという、私たちの希望になるのです。

 

■おわりに

 ツロに代表されるように、世界の歴史を振り返ると、国が独立したり他国を取り込む際は必ずと言っていいほど武力による戦いがあります。つまり、人によって人の血が流されます。それゆえ、間違いなく武力で滅ぼされます。しかし、神の国は違います。神の国の王すなわちメシアが武力で神の国を建てるのではありません。主がご自身を恐れない者を滅ぼし、主があらゆる武装を解除するのです。いわば、王の到来によって主がお働きになり神の国が完成するのです。

 

 イエスはろばの子に乗ってエルサレムに入りました(マタイ21:1-7)。しかも「義なる者/勝利を得る者/柔和な者」そのものです。ですから、ユダヤ人イエスこそが神の国の王、若枝なるメシアなのです。イエスが再びこの地上に来られた時、神の国は完成します。人の武力でもなくイエスの武力でもなく、ただ神の働きによって完成します。そこに神を恐れる私たちは入ることができます。もう誰にも脅かされることはありません。完全な平和しかないのです。そこに入れることを希望として、この世界を生きてゆきましょう。

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