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木村太

12月20日「救い主のしるし」(ルカの福音書2章8-20節) 

・はじめに

 イエスが神の子救い主であることを完全に明らかにしたしるし(証拠)は十字架での死とよみがえりです。イエスの弟子たちはイエスが前もって語っていた「よみがえり」という絶対にあり得ないことが実際に起きたので、イエスを信じました。しかし、それよりもずっと前にイエスが救い主だとわかった人がいます。それが最初にイエスを見つけた羊飼いたちです。今朝はイエスの誕生における羊飼いの出来事から、私たちのために救い主が確かに生まれたことを見てゆきましょう。


Ⅰ.主の使い(御使い)は怯える羊飼いに救い主の誕生という喜びを伝えた(2:8-11)

 羊飼いはその名の通り、家畜の羊を世話する職業の人たちです(8節)。彼らは夕方になると羊を囲いに入れて、一晩中交代で羊の群を見張りました。夜になると狼のような野獣や羊泥棒が出るからです。

 この当時、戒律と呼ばれる古くからのしきたりによって、羊飼いたちは人々から見下されていました。なぜなら、動物を相手にしているので様々な戒律を守ることができないため、汚れた者というレッテルが張られていたからです。例えば、ほとんど野原にいますから食事の前に手を清めるとはできません。また、24時間、365日の労働なので、自分の罪を赦してもらうための儀式に行くこともできません。だから、汚れた者・罪人すなわち神の国には絶対に入れない身分だったのです。神の民ユダヤ人なのに、どうがんばっても神の国に入れない身分というのは、希望のない人生としか言いようがありません。


 そんな彼らに神である主の使いが降りてきました。暗闇の中、主の栄光が彼らの回りを明るくしました(9節)。主の栄光というのは主がそこに来たことのしるしであり、人は何をされても拒否や抵抗がいっさいできないほどの威圧を感じるのです。まして、汚れている身分の羊飼いにとっては、自分を滅ぼすために来たのかと思うのは当然です。彼らは死を覚悟するほど怯えました。悪を絶対に赦さない神が目の前に現れたら、だれでも恐れを抱くのです。


 ところが御使いは不思議なことばを彼らにかけました。(10節)「恐れることはありません。」御使いは怯えている羊飼いを安心させます。そして、自分は罰を与えに来たのではなく、すべての人にとってたいへんな喜びとなる、良い知らせを告げに来た、と言うのです。彼らは安心したものの、「何で見下されている私たちに告げたのか」と戸惑ったことでしょう。


 御使いは続けて「何がすべての人にとってたいへんな喜びなのか」を語ります(11節)。ダビデの町はダビデが生まれた町ベツレヘムを指し、ユダヤ人であれば誰でも知っていました。さらに、イエスが生まれる約700年前「ベツレヘムでキリストすなわち救い主(メシア)が生まれる」という神のことばが告げられていました。これもユダヤ人はよく知っている事柄です(ミカ5:2)。御使いはこのことが実現したと告げるのです。


 ここで御使いは生まれてくる子を三つの名前で呼んでいます。

1.救い主:人を罪の滅びから救い、悪の支配から解放する者

2.主:全ての支配者、権威者である神そのもの

3.キリスト(油注がれた者):平和と繁栄に満ちた神の国の王


 つまり、生まれてくる子どもはユダヤ人が待ちに待った救い主であり、この子どもが神の国を実現するのです。御使いはこのことを羊飼いたちに知らせるために天から来ました。


 さらに、注目することばは「あなたがたのために」です。御使いは羊飼いたちに向かって「あなたがたのために」と告げています。汚れている身分の彼らに「あなたがたのためにメシアが生まれた」と言うことによって、彼らは差別されていないと思うでしょう。加えて、「こんな自分でも神の国に入れる」というたいへんな希望と喜びが生まれます。


 私たち人間は生まれたままでは、神に背を向けてしまうという罪を持っています。それゆえ、神から怒られるすなわち永遠の苦しみに放り込まれる存在なのです。羊飼いたちが神を恐れたように、私たちも神に恐れおののく存在なのです。けれどもそんな私たちに、神は御使いを通して「あなたがたのために救い主が生まれた」と語ってくださいます。神から怒られ見捨てられて当然であるにもかかわらず、神は「あなたがたのために」と救い主をこの世に生まれさせてくださるのです。それほど神は私たちを大切にしているのです。


Ⅱ.羊飼いたちは飼葉おけに寝ている赤ちゃんを見つけて、御使いのことばが本当であることを認め、神をほめたたえた(2:12-20)

 さらに御使いはことばを続けます(12節)。ダビデの町ベツレヘムは大きな町ですから、そこで生まれた赤ちゃんはたくさんいます。そこで、誰が救い主であるかのしるし(証拠)を御使いは告げました。一言で言えば見分け方を教えたのです。


 御使いは「ベツレヘムの中で布にくるまって飼葉おけに寝ている赤ちゃん」が救い主だと言います。どの赤ちゃんも産まれたばかりは、布(産着)にくるまっています。また、一般的な家では住居の一部が家畜小屋でしたから「飼葉おけ(家畜のえさ入れ)」もどこの家にもあります。ですから、探すのは手間がかかるでしょう。しかし、「飼葉おけに寝ている赤ちゃん」は、普通はまずありえません。マリヤとヨセフは赤ちゃんイエスを寝かせる場所がなかったので仕方なく飼葉おけに置きましたが、それが見つけ出すしるしとなるのです。神の不思議なみわざとしか言いようがありません。


 そして御使いがしるしを伝えた後、驚くことが起きます(13-14節)。羊飼いたちの目の前で御使いと無数の天の軍勢が神をほめたたえました。彼らは、「いと高き所」すなわち天で神の栄光が輝き、地上で「平和がみこころにかなう人々」すなわちイエスを信じた人々に平和(平安)があると歌いました。キリストの誕生によってこのことが間違いなく実現するのです。だから歓喜の歌を歌ったのです。


 さて、羊飼いたちはベツレヘムに探しに行きました(15-16節)。御使いが言った通り、彼らは「飼葉おけに寝ている赤ちゃん」を見つけました。御使いの言ったことばがすべてその通りになったのです。つまり、「今目の前にしている赤ちゃんが救い主キリストである」これが事実であることを羊飼いたちは知って、信じたのです。それは20節からわかります。


 御使いが来たとき、羊飼いたちは神を非常に恐れました。ところが今は神を誉めたたえ、喜びで満ちています。彼らの帰る場所は再び羊の群れであり、「汚れた人」という身分もそのままです。羊飼いの日常は何一つ変わらないのに、彼らは喜んでいるのです。なぜなら、この世に神の国が造られ、平和と繁栄をもたらす救い主がついに来たからです。そして、この世の基準からすれば絶対に神の国に入ることが認められない自分たちもそこに入ることができるからです。彼らは希望のない人生から希望にあふれた人生に変わったのです。まさに御使いのことばは「すばらしい喜びの知らせ」となりました。


・おわりに

 ルカはこの福音書を書くに当たりこう言っています。「1:3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。」ですから、羊飼いたちのできごとは紛れもない事実です。それゆえ、ベツレヘムでマリヤから生まれたイエスが救い主キリストであることも紛れのない事実です。


 羊飼いたちは布にくるまって飼葉おけに寝ている赤ちゃんをベツレヘムで見つけました。これは、この赤ちゃんが救い主であるというしるしです。そして、この赤ちゃんが私たちのために生まれたというしるしです。そして、この赤ちゃんが私たちの人生に喜びと平安を与えるというしるしです。


 イエスは罪ある人を滅ぼすために生まれたのではなく、人を永遠の滅びから救うために生まれました。しかも、地上の人生では神からの不思議な平和・平安が間違いなくあるのです。「あなたがたのために救い主が生まれた」この「あなたがたには」私たちも当然含まれています。イエスを救い主と信じる者は全員例外なく、この羊飼いたちのように「恐れや絶望の人生」から「喜びと希望の人生」に変えらているのです。

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