top of page
木村太

12月24日クリスマス礼拝「その名をイエスとつけなさい」(ルカの福音書1章26-38節)

■はじめに

 私たちが「聞いたことを本当だ」と認めるには、情報源が信頼できるかどうかにかかっています。ただし、びっくりするような内容であれば、いくら信頼できる情報源であっても疑うことがあります。そんなときは、現代であればインターネットを使って確かめると思います。あるいは、現場に出かけて自らの目で確かめることもあるでしょう。しかし、あまりにも現実離れしているときは、「それはウソだ/何かの間違い」と判断してしまうこともあります。

 キリスト教では、あまりにも現実離れしている2つの出来事を真実として扱っています。一つはキリストの処女降誕であり、もう一つは死からのよみがえりです。この2つは科学では説明できないので、近代では実際にあり得る出来事に置き換えられたり、作り話と解釈されることが多いです。そこで今日は、イエス誕生のエピソードいわゆるマリアの受胎告知から、「イエスにまつわる出来事はすべて真実」であることを聖書に聞きます。

 

■本論

Ⅰ.御使いガブリエルはマリアに「彼女が神の子イエスを産むこと」を告げた(1:26-33)

 新約聖書においてイエスの人生を扱っているのはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの名がついた4つの福音書です。そのうちマタイとルカがイエス誕生の経緯を記していて、ルカの方がより詳しく書かれています。ではさっそく見てゆきましょう。

 

 1章26節「その六か月目」とは、マリアの親類エリサベツが身ごもってから六か月目を指しています。このとき、神のことばを人に伝える御使いガブリエルが、マリアの住むナザレに神から遣わされました(26節)。マリアはダビデに家系を持つヨセフの婚約者でした(27節)。「ダビデの家系」とことわりがあるのは、この家系すなわちユダ族からメシア(救い主)が出ると預言されているからです。

 

 この時代、婚約は「必ず結婚する約束」であり、女性は結婚前であっても法的には妻として扱われました。ただし、もし婚約中に二人が肉体関係を持ったとしたら、姦淫の罪で石打ち刑に処されます。ですから、マリアは婚約前の時代も、婚約中も誰とも性的な関係を持っていないので(26節)、神の前に正しく生きていた女性でした。

 

 ガブリエルはマリアの家に入ってきて「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と言いました(28節)。「あなたは神からすばらしいものを受ける人になった」というお祝いのことばです。けれどもマリアは、御使いから「おめでとうと」呼ばれるふしが自分に全くないので、戸惑うしかありませんでした(29節)。ここでマリアが御使いに驚いていないのは、ユダヤ人は彼らの歴史を通して御使いの存在と彼らが地上に現れることを知っていたからです。

 

 マリアの戸惑いに御使いガブリエルは「恐れることはありません、マリア。」と彼女を安心させることばをかけます(30節)。なぜならこれから話すことが彼女にとってたいへん重要だからです。そして御使いは「何がおめでとう」なのかを語ります。

 

 御使いは、マリアが男の子を身ごもって産むことを告げました(31節)。しかも、この後のマリアの反応からもわかるように、身ごもるのは結婚した後ではなく、まもなく、つまり婚約中だと言うのです。その上、「主は救い」を意味するイエスという名前をつけるように命じました(31節)。なぜなら、その子は32-33節のようになるからです。ここには大きく3つのことが明らかにされています。

 

①神の子(32節):「大いなる者」とは神と同じ権威を持つ者。「いと高き方」も神を表すことば。

②神の国の王(32節):「父ダビデの王位をお与えになる」ダビデの家系を持ち、ダビデと同じように神の国を統治する王に定められること。

③神の国の永続(33節):「ヤコブの家」とは神の民を国民とする神の国を指していて、それが永遠に続く。

 

 これら3つのことがらは、この時代から遡ること約700年前に預言者イザヤに与えられています。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。(イザヤ9:6-7)」

 

 つまり、マリアが産む男の子によってこの預言が実現するのです。神の子イエスが、繁栄と平和が永遠に続く神の国をもたらし治めるから「主は救い」の名前になるのです。それゆえ、マリアがこの子の母親となるから、ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方。」と祝いのことばを彼女に告げるのです。

 

 この時代も今も、永遠の繁栄、永遠の平和はありません。すべてが一時的です。一方、神の子イエスが治める神の国では永遠に続きます。私たちは苦しみにあふれるこの世界に住んでいますが、イエスがこの世界から神の国に住まわせてくださるから、「主は救い」の名のとおりイエスは救い主メシアなのです。

 

Ⅱ.マリアはエリサベツの出来事を聞いて、神のみこころを受け入れた(1:34-38)

 御使いガブリエルのことばにマリアが答えます(34節)。「男を知らない」は「性的関係を持ったことがない」というユダヤ人特有の表現です。彼女の関心は性的関係がないのに妊娠・出産することでした。御使いは「神の子・救い主」に焦点を当てていますが、それとは全然違ってマリアは「あり得ないことが起きる」これに心が奪われています。現代医学であれば理解できますが、約2000年前ですから当然と言えます。

 

 このマリアの反応に御使いが答えます(35節)。御使いはどうやって身ごもるのかを言いました。マリアの妊娠は男性によってではなく、聖霊の働きを通して「いと高き方」の力、つまり神の力によります。それゆえ、男女からではなく神によって誕生するから、この子供は神の子であり、罪のない聖なる者なのです。ここから神が人となったと言えるのです。

 

 さらに御使いはことばを続けます(36-37節)。見なさい」とあるように、御使いは神の力によって身ごもる事実を明らかにします。祭司ザカリヤの妻エリサベツは不妊でしかも高齢でした(36節)。身ごもることは絶対にあり得ません(ルカ1:7)。けれども、「もう6か月」ですから出産は確実です。それで御使いは、エリサベツという証拠を出して「神にとって不可能なことは何もありません。(37節)」と結論を与えるのです。

 

 この答えにマリアはこう言います(38節)。御使いのことばを聞いて、マリアはすべてのことがらを納得しました。その上で、神に完全に従い、神のなさることを受け入れることを告白します。戸惑いや疑問はもうありません。

 

 この時代のユダヤ人において婚約中に身ごもるというのは、大変な困難が予想されます。第一には最初に申しましたように、姦淫の罪に問われます。また、婚約中に婚約者ではない男性の子を宿したとなれば、婚約者は離婚を申し渡す権利があります。マタイの福音書を見ると、ヨセフはそうしようと思いました(マタイ1:19)。この場合、マリアは生涯未婚のままでなくてはならず、しかももし父親がマリアを追い出したら彼女は物乞いか遊女になるしかありません。さらには「聖霊によって身ごもった」と告白すれば、気が違っているとみなされても仕方ありません。御使いは「主は救い」という名を付けなさいと命じましたが、その名前にふさわしい状況ではありません。

 

 極端な言い方をすれば、彼女にとって人生はおしまいと言われているようなものです。「おめでとう」とは真逆の中に置かれているのです。しかし、彼女はエリサベツの事実から、すべてが神の力によって起きるとわかり、自分の身を神に委ねました。これから先何が起きるのか分からないけれども、神の子救い主の母となることを受け入れました。神への信頼が、予想できるあらゆる苦難への不安や恐れを超えさせたのです。神のことばを信頼する者には平安が訪れるのです。この後、マリアは生まれて来た男の子の名前をイエスと付けました。

 

■おわりに

 クリスマスは「主は救い」という名のイエス誕生をお祝いする日です。その名の通り、イエスは私たちを永遠の滅びから救い出し、天の御国に入らせてくださいます。天の御国は神の子イエスが王として治める神の国であり、そこには永遠の繁栄と永遠の平安があります。イエスによって私たちはそこに行けるから、私たちはイエスの誕生をお祝いするのです。

 

 ただしこの世においては、最初のマリアと同じように、イエスによる救いは「あり得ないこと」と受け取られても不思議ではありません。神話や民話のような作り話と同類に扱われるでしょう。しかし、マリアがエリサベツの事実を知って御使いのことばを信じ、自分の身を神に委ねたように、私たちにも事実が与えられています。それがイエスの死からのよみがえりと天に上ったという事実です。この世では絶対にあり得ないことがイエスの身に起きて、その様子を多くの者が目撃しました。さらに言うならば、預言者によって語られたことがらがイエスによって実現しました。イエスにまつわる出来事のすべてが事実です。だから私たちはマリアのように、イエスをいと高き神の子、救い主と信じ、主に身を委ねるのです。

最新記事

すべて表示

10月20日「心を一つにして祈る」(使徒の働き1章1-14節、マタイの福音書18章19-20節) 

■はじめに  教会では定期的に集まって祈る機会を設けています。多くの教会では週の半ばに開いていますが、人数の多い教会では月に一度の開催もあります。あるいは、いくつかのグループに分かれてグループごとに祈り会を開く教会もあります。また、祈り会とは別に、礼拝のあとに自発的に集まっ...

9月8日「神の摂理」(エステル記4章1-14節) 

■はじめに  神はご自身の栄光を表すために、ご自身の計画に従って2つのわざをなしています。ひとつは創造、もうひとつは摂理です。創造は無から有を造り出すわざであり、一度だけのものです。一方の摂理は、ご自身がすべてのことに介入して、定められた方向に導くわざであり、途切れることな...

5月19日ペンテコステ 「御霊の実」(ガラテヤ人への手紙5章16-26節) 

■はじめに 人間の体は具合いが良いのか悪いのかを表に出します。例えば、顔色が悪い、腫れている、湿疹ができたなど、体の状態がどうなっているのかを教えてくれます。ダニエル書でも、顔色でダニエルたちの健康を判断していますね。では私たちの信仰の具合、いわば健全さはわかるのでしょうか...

Comments


Commenting has been turned off.
bottom of page