■はじめに
新約聖書「使徒の働き」を見ると、弟子たちの証言の中心はイエスの死とよみがえりでした(使徒2:24/3:15)。「イエスは正しい方だから神は死からよみがえらせた。だからこの方を信じる以外に救いはない。」という論法です。もしイエスの死が確かでないとしたら、よみがえりもあやふやとなり、イエスの正しさとか神性を明らかにできません。それゆえ、「イエスは十字架で確かに死んだ」という事実がキリスト教に無くてはならないのです。今日は、「どうしてイエスは死んだと言えるのか」このことについて聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.ローマ兵はイエスの死を確認し、真実な者は槍でイエスの脇腹を刺した様子を目撃した(19:31-37)
イエスは十字架の上で頭を垂れ、霊を父なる神にお渡しになりました。ここからヨハネはイエスの体をどう取り扱ったのかを記します(31節)。
十字架刑では死んだ後も数日間は遺体を十字架に残さなければなりません。遺体をさらすことで死んだ後も屈辱を受けさせるためです。一方、ユダヤ人の律法では大地を汚さないために、木につるした遺体を翌日まで残せません(申命記21:22-23)。さらに、昔からの戒律では安息日には一切の作業を禁止しています。イエスが死んだ時刻はおよそ午後3時であり、安息日の備え日が終わる日没、言い換えれば安息日が始まる日没が迫っていました。しかも「大いなる日」とあるように、今回の安息日は過越の祭りの第一目にもなっているので、なんとしてでも日没までに死刑囚の遺体を十字架から降ろさなければなりません。それでユダヤ人の宗教指導者たちは総督ピラトに足を折った上で遺体の取り降ろしを願いました。
彼らが願った「足を折る」とは金槌で脛を砕き、すでに硬直化しきった体に激痛を与えて、わずかに開いた肺の空洞を閉じさせて窒息死させる行為です。簡単に言えば、死を早めるためになされるのです。つまり、ユダヤ人たちは安息日の始まる日没までに作業を済ませたいので足を折るように願ったのです。十字架の上で長く続く苦痛から解放するためではありません。あくまでも彼らの都合なのです。
ピラトはユダヤ人の求めを許可したので、ローマ兵にそのことを命じました。それでローマ兵たちは、イエスの両隣の者にはまだ息があったので脛を砕いて死なせました(32節)。しかし、イエスはすでに死んでいると見えたので脛を砕きませんでした(33節)。ところが、一人の兵士が槍でイエスの脇腹を刺しました。おそらく見た目では死を認めたものの、完全に死んでいるのか確かめたのでしょう。
脇腹からは即座に血と水が流れ出ました(34節)。医学的な見解によれば、血は血餅、水は血清であり、死後数時間経った結果とされています。ローマ兵にとって「死刑囚の死を確認する」という命令は絶対なので、生きているのを彼らが見逃すことはあり得ないのです。
この時、脇腹からの血と水の様子を目撃した者がいました(35節)。この目撃者が誰なのか聖書からは分かりません。けれどもヨハネは、この目撃者の正しさを保証し、さらに読者が信じるためにウソ偽りはない、と語ります。ここで偽りを書いたら、これまでのことがら、とりわけイエスのことについて疑いが出てきます。ですから、彼が偽証する必要はないのです。
そしてヨハネは、ローマ兵の行動は「イエスの死が確かである証拠」に加えて預言の成就とも言います。36節は詩篇34:20、37節はゼカリヤ書12:10がその通りになったことをこの世に明らかにしています。これまで見てきましたように、イエスに関わることのすべてが神のみこころ通りに進んでいるのです。
ユダヤ人たちは自分たちの都合のために、確実にイエスを死なせて十字架から取り降ろすのを願いました。しかしそれは図らずも二つのことがらを確かなものとしました。
①ローマ兵と真実な者がイエスの死を確認した
②ローマ兵のなしたことが聖書の成就になった
このことはイエスのよみがえりの確かさにつながり、死とよみがえりを前もって伝えたイエスの正しさ、そして聖書の正しさにつながります。ひいては「イエスを信じる者が永遠のいのちを受ける」という救いが確かであることに至るのです。
Ⅱ.アリマタヤのヨセフとニコデモはイエスの遺体を新しい空の墓に埋葬した(19:38-42)
ところで十字架刑での遺体は取り降ろされた後、どうなるのでしょう。普通は死体置き場に放置されるか、もしくは犯罪人の墓に入れられます。放置は動物扱いと同じであり、犯罪人の墓は悪人のレッテルが貼られたままですから、いずれも一人の人間として尊重されることはありません。ところがここでイエスの体の引き渡しを願い出た者がいました。
アリマタヤ出身のヨセフは最高法院(サンヘドリン)の議員で、裕福な者でした(38節)。彼はイエスの弟子になっていましたが、それが知れたら最高法院から追放されるどころかユダヤ人社会で生きて行けなくなるので、弟子であることを隠していました。しかし彼は最高法院という立場を用いて、「イエスの体を引き取りたい。」とピラトに願い出ました。イエスの仲間であることが知られて辛い状況になるかも知れないのにです。ヨセフは自分のことはともかく、何としてでもイエスを人として扱い、イエスの尊さを保ちたかったのです。
ピラトの許可が出たのでヨセフはイエスの体を引き取りました。その時、最高法院の議員であるニコデモもやって来ました(39節)。彼もヨセフと同じで、以前は人目に付かないように夜、教えを乞うためにイエスの所に来ました。けれども今は人目をはばからないどころか埋葬の目的がすぐにわかる姿で来たのです。また、彼が持参したのは遺体の腐敗を防ぐための香料で、一人に使うには多すぎる量でした。ニコデモも自分のことよりも、イエスを大事に扱い尊いお方として葬りたいのです。だから、香料が足りなくなって中途半端な埋葬にならないように、高価な香料を大量に準備したのです。
二人は十字架から降ろされたイエスの遺体に香料を塗り、亜麻布で巻きました(40節)。動物扱いでもなく、悪人扱いでもなく、一人のユダヤ人としてイエスを葬りたかったのです。誰も引き取りに来ないほど見捨てられたイエスを、彼らは危険を顧みず自らの手で葬るのです。どれほどイエスを大切にしていたのかが分かります。
埋葬の処置を終えた二人はイエスを墓に置きます(41-42節)。マタイの福音書によれば、この墓はヨセフのものでした(マタイ27:60)。本来、墓には家族が納められますが、今彼らはイエスを家族ではないヨセフの墓に置きました。おそらく、「その墓が近かったので」とあるように、イエスの墓はここから遠いため、備え日が終わる日没までに埋葬できないと判断したからでしょう。正式な埋葬は安息日の後を予定したと思われます。
ここで注目すべきはイエスが納められた墓が「まだだれも葬られたことのない新しい墓」だったことです。これまで誰も葬ったことがなく、イエスが最初に一人で葬られました。それゆえ遺体が消えたとしたら、イエス以外にあり得ません。すでに何人かが葬られていたとしたら、イエスかどうかはっきりできません。「新しい空の墓」はよみがえりの重大かつ決定的な証拠になるのです。
アリマタヤのヨセフもニコデモもイエスは人であると認め、人として完全に死んだと認めました。だから、ユダヤ人としての尊厳を保つために埋葬したのです。しかも、自分の身に降りかかる苦難を顧みず、議員という立場や財産など自分のできることを尽くしました。足を折るように願い出たユダヤ人とは大違いです。そして彼らもまた他のユダヤ人と同じように、イエスのよみがえりを分かっていないけれども、イエスのよみがえりを証明する重要なことをしました。図らずも「新しい空の墓に納めた」ことがイエスのよみがえりを確かなものにするのです。神の働きは本当に不思議です。
■おわりに
イエスはご自身の誕生から逮捕までは、正しさ、あわれみ、知恵、権威、不思議な力といった神の子・救い主の姿を明らかにしました。しかし、逮捕以降は惨めで、痛々しい姿を見せています。そして十字架刑という最も辛く最も不名誉な刑で死にました。その上、アリマタヤのヨセフがピラトに申し出なければ亡骸はまっとうに扱われないところでした。こんな有り様を見て誰が救い主と信じるでしょうか。けれどもこれが、人を罪の滅びから救う神のみこころなのです。イエスの死についてイザヤは語ります。「虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。(イザヤ53:8)」
私たちが負うべき罪の罰をイエスがお受けになりました。それが十字架での死です。十字架と埋葬に関わった者たちは図らずも、この預言がその通りになったのを明らかにしました。だからこそ死からのよみがえりが確かなものとされ、それゆえ「イエスのことばは真実である」と言えるのです。それゆえ「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」というイエスの約束を信じることができるのです。
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