・はじめに
新型コロナウィルス感染拡大を防ぐために「不要不急の外出を控えるように」という要請が毎日アナウンスされています。広辞苑によれば「不要不急」は「どうしても必要というわけでもなく、急いでする必要もないこと」とあります。ただ、「どうしても必要/急いでする必要」が人によってまちまちなので、「それは不要不急だ/いやどうしても必要だ」という議論が起きるのです。いわば、物事の善し悪しや正誤、価値の重さを計る物差しが個人で違うのです。今日は、ユダヤ人社会にあってイエスはどんな物差しで物事を判断したのかを見てゆきます。
Ⅰ.イエスはご自分を遣わした神の栄誉のために神の教えを語る(7:14-18)
イエスは命を狙われているので、エルサレムで行われている仮庵の祭りに密かに行きました。けれどもここに来ているのが見つかっていました。そんな状況の中でイエスが動きます。
仮庵の祭りは8日間開かれ、その最初と最後は大変な騒ぎとなる一方、中頃は人々の興奮もさめかけています。そのタイミングを見計らったかのように、イエスは神殿で公に語ります(14節)。祭りで騒がしい中ではないので、その場の人々に声が届きやすい状況ではありますが、同時に目立つ状況でもあります。命を狙われているにもかかわらずイエスが人前に出たのは、ご自分が何者であるかを明らかにするためでした。
イエスが教えているのを見て人々が言います(15節)。神殿ではラビと呼ばれる宗教指導者が旧約聖書(モーセ五書、預言書、詩篇)を解説していました。ラビは専門の教育を受けなければならないため、当時はごく一部の富裕層しかなれませんでした。しかし、庶民であり専門教育を受けていないイエスがラビのように威厳を持って教えていたので、人々は驚いたのです。「ちゃんと学んでいないのにどうして」という疑問と「庶民が勝手に教えている」という怒り、これらが驚きの中にありました。
ユダヤ人の驚きを見てイエスは答えます(16-17節)。イエスは自分の考えを語っているのではなく、自分をこの世に遣わした神の教えを語っていると答えます。神はモーセやダビデ、預言者といった人を通してご自身の教えをユダヤ人に語りました。それを文字にしたのが聖書であり、それをもとにラビが教えています。けれども、父なる神と一体であるイエスは神の教えを直接語れます。イエスの教えはどんな専門教育よりも優れた教えだから、教育を受けていなくても宮で教えることができるのです。
ただしイエスはそういったことを説明しません。イエスは「もし神のみこころをわかっているなら、神からの教えなのか自分勝手な教えなのか判断できる」と言います。つまり、「わたしに驚いたり怒ったりしているのはわたしに原因があるのではなく、あなた方の問題だ。」と指摘しているのです。さらに言うならば、ユダヤ人は「イエスの教え」に注目しているのではなく、イエスの身分や立場といった目に見えるもので判断しています。なぜそうなるのかをイエスはこう言います(18節)。
もしユダヤ人が神のみこころをちゃんと分かっているのなら、イエスのことばやわざが神から来ていると認めて神をほめたたえるはずです。しかしそうなっていないのは、ラビのような宗教指導者が自分の栄誉を求めていて、同時に民衆も彼らの立場を称え重んじているからなのです。結局、ユダヤ人は人の権威に誠実(真実)で正しくしているから、神の教えを語っているイエスには不誠実で不正となっているのです。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」という驚きはそのことを明らかにしています。しかし、イエスは自分を遣わした神を第一としていますから、神に対して誠実で正しいのです。
現代の私たちもユダヤ人に近いものがあります。語られている内容を受け取る前に、語っている人の地位や所属、経歴、性別、年齢といったフィルターをかけてしまうことがあります。でもそれは人の栄誉を重んじているのです。「語られている内容やなされている事柄が神のすばらしさを表し神を輝かせているかどうか」という物差しを持ちましょう。
Ⅱ.イエスはユダヤ人指導者の表面的な従順を非難した(7:19-24)
続けてイエスはユダヤ人が神のみこころからずれていることを明らかにします(19節)。エルサレムでは宗教指導者たちがイエスを殺そうとしているのがすでに知られていました(9:22)。彼らは一方では民衆に律法を教え、他方ではイエス殺害を企み「殺してはならない」の律法を破っていました。彼らは律法の専門家を自負していますから、イエスのことばはたいへんな屈辱です。けれども、まさに彼らは人の栄誉を重んじ神の栄誉をないがしろにしているのです。ユダヤ人たちは図星を突かれたので、「悪霊が取り憑いて気が変になっている(20節)」ととっさに答えました。
そこでイエスは、律法を教えていながら守っていないことを証明します(21-22節)。「わたしが一つのわざを行い、あなたがたは驚いている」というのは、イエスを殺す原因となった出来事、すなわちベテスダの池で安息日に足の病を治したことを指しています。神は十戒の第4番目で、7日間の中で1日を安息の日として取り分けるように命じました。それでユダヤ人はこの日を心身の休息とともに、神に向き合う一日としています。ただ、この日に何をしてよいのか悪いのかという細かな規則はユダヤ人が定めました。(労働とみなされる行動など)
この規則の中で、割礼は神がモーセに命じたことなので許可されました。別な見方をすれば割礼は労働と解釈されなかったのです。一方、病に苦しんでいる人を治すことは医療行為なので労働に相当するから律法違反なのです。一見するとまっとうな論理に思えます。しかしイエスはこの判断をうわべだけと指摘します。
割礼についてイエスは「それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。」と言います。割礼はユダヤ民族のしるしであり「祝福とのろい」の契約を神と結んだしるしです。割礼によってユダヤ人は神の民という安心と喜び、希望を持ちます。ただし割礼は「イエスを信じれば永遠のいのち、背けば永遠の滅び」いわゆる新しい契約のひな形であり、「滅びからの救い」に対しては不完全なのです。
そこでイエスは安息日のいやしについてこう言います(23節)。「人の全身を健やかにした」とは、その人の体も心も丸ごと全部をいやすことを言います。イエスは38年間の痛みや不安、恐れから体も心も開放し、完全な平安すなわち真の安息を与えたのです。救いという面から言えば、イエスのいやしを通して、病の人はイエスを信じ神の子ども、すなわち真の神の民となって永遠のいのちを持つのです。そして、人が永遠のいのちを持つことこそ神のみこころなのです。パウロも「割礼よりも大事なのは新しい創造」とガラテヤの手紙に書いています(ガラテヤ6:15)。
つまり、イエスのいやしは見た目には治療行為ですが、真実は永遠のいのちを与える意味で割礼よりも優っていて、かつ神のみこころに従っているのです。だからイエスは「このことでわたしに腹を立てるのか」「うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。(24節)」と言うのです。
宗教指導者を中心としたユダヤ人は自分の栄誉、自分の権威、自分の立場を第一にしているから、自分たちが守っている規則を最優先にして、それにかなっていなければ罪に定めます。その行き着く先が「律法を破る者は死に価する」という判断なのです。しかしイエスは神の栄誉、神がほめたたえられることを第一としていますから、すべてにおいて神のみこころにかなっているかどうかで判断します。もっと言うならば、永遠のいのちにつながるかどうかがイエスにとって最も大事なのです。
・おわりに
イエスは病に苦しむ人を安息日に治しました。それは治った人がイエスを信じて新しく生まれ変わり、永遠のいのちという完全な安息に入るためなのです。これが人を大切にする神のみこころです。イエスはご自身に危険が及ぶのを分かっていても神のみこころに従い通しました。その頂点が十字架です。本来は、イエスは神ゆえに崇められほめたたえられるべきお方なのに、さげすまれ痛めつけられて殺されました。人の代わりに父の怒りを引き受ける、という神のみこころに完全に従ったのです。このイエスの従順によって、私たちは地上での平安と天の御国での永遠のいのちを持っているのです。
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