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12月29日「神を愛するとは」(申命記6章5節) 

  • 木村太
  • 2024年12月29日
  • 読了時間: 7分

■はじめに

 イエスは律法と預言者が語ったことばの全体を2つの戒めで表しました。第一が「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(マタイ22:37)」であり、第二が「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい(マタイ22:39)」です。神を愛するのが第一で、人が第二というのは、十戒において神に直接関わる戒めの後に、人に関わる戒めが命じられているのと同じ順序です。今日は、私たちがどうして神を愛すべきなのか、どのように愛するのかを聖書に聞きます。

 

■本論

Ⅰ.私たちは自分よりも神を優先する

 本論の前に申命記について短く説明します。イスラエルの民はエジプトの奴隷として働かされ、とてつもない苦しみを生きていました。それで彼らは苦しみを神に嘆き叫んだのです。それまで沈黙していた神はその嘆きを聞いて、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こし、不思議なわざによって彼らをエジプトから解放しました。神がイスラエルの民を解放したのは、「彼らが善い行いをしたから」とか「彼らが自分たちの神だけに信頼していたから」のように彼らの手柄ではありません。神の民であるイスラエルを大切にする神ご自身のあわれみによるのです。

 

 イスラエルの民はエジプトを脱出してから約40年間荒野を放浪しました。そして、いよいよ約束の地カナンに入ろうとしたとき、モーセは神から与えられた律法をもう一度民に与えました。なぜなら、最初に律法を与えられていた大人はほとんどが死んでいたからです。ここでモーセは律法を語るに当たって、律法の目的を明らかにしています。「あなたがたの神、【主】が命じられた道をあくまで歩み続けなければならない。あなたがたが生き、幸せになり、あなたがたが所有するその地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。(申命記5:33)」

 

 神が約束したカナンの地で幸せになるために、再度「主が命じられた道」すなわち守るべきことをモーセは確認させたのです。そして、この命令の最初が「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。(申命記6:5)」です。繰り返しになりますが、神はあわれみによってイスラエルの民をエジプトから解放し、約束の地カナンに彼らを入らせました。また、荒野を放浪しているときも水や食べ物を与え、昼は雲の柱、夜は火の柱で行く先を案内し、他民族との戦いを勝利させました。彼らが約束の地で生きるに当たって何から何まで神が整えてくださったのです。だから、まず第一に神を愛することが命じられているのです。私たちも、神のあわれみによって滅びから天の御国に救われました。イスラエルの民と同じように私たちの手柄によるのではありません。それゆえ、私たちにもこの命令が一番目なのです。

 

 では「愛する」とはいったい何なのでしょうか。そのことを聖書はこう言っています。

・人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません(ヨハネ15:13)

・私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)

 

 ここから神を愛することについて3つのことがわかります。

①自分よりも神を大切にする:ヨハネ15:13「友を大切にする」/Ⅰヨハネ4:10「罪によって滅び行く私たち人間を大切にする」

②具体的な行動を伴う:ヨハネ15:13「自分のいのちを捨てる」/Ⅰヨハネ4:10「御子を宥めのささげ物(罪をゆるしてもらうためのいけにえ)とする」

③自分の犠牲を伴う:ヨハネ15:13「自分のいのちを犠牲」/Ⅰヨハネ4:10「御子イエスを犠牲」

 

 つまり「神を愛する」とは、自分の何かを犠牲にしてまでも神を大切にすること、となります。「今、自分には時間とかお金に余裕があるから、何とかしましょう」ではありません。自分のことはさておいて、神のためにどうするのかを考えて行動することなのです。神は人をお造りになって以来、絶え間なく人を観察し人の幸せのために力を注いで来ました。そして、ご自身の子であるイエス・キリストのいのちを差し出して、人を罪の滅びから永遠のいのちに救ってくださいました。まさに、神の姿そのものが「愛すること」を表しているのです。

 

Ⅱ.私たちは生涯にわたって自分のすべてを神のために用いる

 神はイスラエルの民に、まず何にも先んじて神を愛するように命じました。それに加えて、愛する程度、いわば力の入れ具合も命じています。それが「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして」です。直訳では「あなたの心のすべてを用いて、あなたのいのちのすべてを用いて、あなたの力のすべてを用いて」となりますから、神は自分の持てるものを出し切ることを求めています。余力があればとか自分の分を取り分けておくのは神のみこころではありません。では何を尽くすのかそれぞれ見てゆきましょう。

 

①心:「心臓」あるいは「感情・意志など精神活動の源」を意味します。私たちが「心はどこにありますか」と聞かれて、心臓を指さすのと同じです。ですから、「心を尽くして神を愛する」とは感情や意志といった心の思いをすべて神に向けることであり、何よりもまず「神にとってはどうなのか」を意識することなのです。

②いのち:その人の存在そのものを意味します。つまり、「いのちを尽くして神を愛する」とは、自分の存在は神のためにあることを表しています。自分の生涯のすべてを神に捧げるとも言えるでしょう。

③力:「物理的な力/能力/力強さ」を表すことばです。ここでの用い方からすれば、自分自身が持っている力、すなわち肉体的・知的な能力を意味します。また、この能力には何かに使える力をも含んでいますので、自分の持っている富や時間なども力の中に入ります。ですから、「力を尽くして神を愛する」とは自分の持てるものすべてを神のために用いるということです。

 

 「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、神を愛する」一言で言うならば、生涯にわたって自分の持てるものをすべて神のために用いる、となります。パウロも「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(Ⅰコリント10:31)」と語っています。あらゆることに対して「これは神の喜びとなるのか/これは神の栄光をこの世に示すことができるのか/これは神のみこころにかなっているのか」こういったことを考え、判断し、行動に移します。そして、自分に備わっている体力や知力、財力や時間を惜しまず用いるのです。まさに、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、神を愛する」とは、自分のすべてを神にささげげることなのです。300デナリの高価な香油をイエスに惜しみなく注いだ女性に、イエスは「できる限りのことをした」と語りました(マルコ14:3-9)。まさに、この女性は心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、神を愛したお手本です。

 

 それゆえ、神を愛する人は生き方が変わってきます。例えば、神の名を汚さないようにことばや行動に気を配ります。タバコやコーヒーのような嗜好品についても「神のためになるかどうか/神が与えてくださった身体を害するかどうか」といった視点から考えるようになります。また、物を買うにしてもただ自分の欲望に従うのではなく、神のために今必要かどうかを考えます。

 

 その一方、このことば自分を抑えたりストップさせることにもつながります。例えば、神のために何かをしようと決断しても、それが自分の能力をはるかに超えていたり自分には決してできないことならば実行を控えるべきでしょう。あるいは、心や体を壊してまでも何かをするというのは、人を大切にする神のみこころに反しますから、避けなければなりません。ないものを出すことはできませんし、すべてを出し尽くしたらそれ以上はできません。神が求めているのは、自分の持っているものを惜しみなく神のために用いることなのです。

 

■おわりに

 「苦しい時の神頼み」という言葉があります。人は、にっちもさっちも行かなくなった時、あるいは絶体絶命のピンチに陥った時に必死に神に助けを求めます。しかし、危機を乗り越えたら神との関りが薄くなってゆきます。旧約聖書の士師記はその典型です。また神とか宗教を大切にするのも、自分や家族が災いに会わないためとか、自分の願いが叶うため、というのがほとんどです。いわばご利益のために神を大切にする、というのが日本人の宗教観と言えます。

 

 しかし、キリスト教は違います。私たちが「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、神を愛する」のは、まず神が愛の限りを尽くして、私たちを滅びから救ってくださったからです。それが、御子イエスの十字架です。自らの意志で神に背き、永遠の滅びに行くべき私たちを神はかわいそうに思い、私たちへの罰をイエスに負わせました。私たちが救いに与る理由は何一つありません。ただただ神の愛によるのです。だから私たちは救われた感謝から、神を愛するのです。何ものにも代えられない永遠のいのちを与えられたから、私たちは神に感謝し、神に従うのです。これが私たちの信仰です。

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