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木村太

12月3日「主は何を嫌うのか」(ゼパニヤ書1章1-9節)

■はじめに

 日本においてキリスト教は「慈しみ深い/やさしい/清い」というイメージがあります。「恐ろしい/邪悪」と感じる人は少ないと思います。しかし、聖書特に旧約聖書を開くと「神の怒り/神のさばき」の場面がたくさん出てくるので、「キリスト教は恐ろしい」となるかもしれません。パウロが言うようにすべての人間は神の怒りを受けるべき存在、永遠の滅びに向かう存在です。それで、神は恐ろしいとなるのでしょう。けれども、そのような人間を滅びから救うために、神は人が負うべき罰を我が子イエスに負わせました。これが神のいつくしみ、やさしさです。ですから、神ひいてはキリスト教を知るためには、人がどのようなものなのかを知る必要があるのです。今日からゼパニヤ書を扱いますが、まずは神がなぜ人を怒るのかを見てゆきましょう。


■本論

Ⅰ.主はご自身に背く者を必ず断ち切る(1:1-3)

 ゼパニヤ書も他の預言書と同様に、主なる神に背いたイスラエルへのさばきと、主の御名を呼び求める者への祝福が記されています。ただしこの書では、「徹底的・絶望的なさばき」と「歓喜を伴う祝福」が強烈に対比されているのが特徴です。特に、3:14-15は「旧約聖書の中でも最も快い愛の歌の一つ」とも言われています。ですから、そこに至るために、この書の前半では人の背きと罰が重々しく語られています。


 1章1節には預言者ゼパニヤの家系と活躍した時代が記されています。「クシの子ゼパニヤにあった【主】のことば」とあるように、ゼパニヤは確かに主からことばを預かった預言者です。彼の祖先はヒゼキヤとありますので、王家の血筋を引いていると思われます。また、ゼパニヤはヨシヤ王の時代に活動しました。ヨシヤの曽祖父ヒゼキヤ王はダビデのように主に信頼し従っていました。しかし、その後のマナセとアモンは主の目に悪を行い、特にカナンの神バアルを崇めました。ヒゼキヤがユダ王国の信仰を正しくしたのを台無しにしたのです。そんな中、8歳で即位したヨシヤは「律法の書」発見をきっかけにして異教の信仰を一掃し、父祖ダビデの道を歩みました。いわゆるヨシヤの宗教改革です。ただ、この書では「神への背き」一色ですので、ゼパニヤの活動はおそらく宗教改革前と思われます。アモン王による宗教的腐敗が満ちている中で、主がゼパニヤを通して警告します。


 2節「必ず」とあるように、「絶対に人を滅ぼす」という強い意志を主は明らかにします。さらに、「大地の面から取り除く(2節)/大地の面から断ち切る(3節)」とも言い、完全さを強調しています。なぜなら、「悪者ども」とあるように、主の民イスラエルは何度も警告受けているにもかかわらず、主に逆らって邪悪な心から悪を働いたり、不道徳に生きているからです。しかも、人が悪をなしているのに獣や鳥、魚といった人以外の生き物までをも取り除くほど、イスラエルの悪は大地の面すべてに及んでいるのです(3節)。だから主なる神は激しく怒り、まるでノアの洪水のように生き物すべてを一掃する、と警告するのです。


 創世記において、創造主なる神は人を含めてすべてを造られたあとで、すべてをご覧になりこう言われました。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。(創世記1:31)」ところが、イスラエルの民をご覧になって主は「わたしは必ず、すべてのものを大地の面から取り除く。断ち切る。」と言います。創造の取り消しのごとく、すべてを消し去るほどまでに激怒しているのです。それほどまでに主の民は本来のあり方から外れて、修正できないところまで来ているのです。


 「悪者」はイスラエルの民だけではありません。この地上に生きるすべての人が神からすれば悪者なのです。なぜなら神を知っていても自分の思いを優先したり、あるいは神を知ろうとしないからです。神にとって人はかけがえのない存在ですけれども、その有様を決して喜んでおらず怒っているのです。


Ⅱ.主は悪の程度も見ているが、「主を信頼せず、求めない心」を問題としている(1:4-9)

 主はイスラエルの民を「悪者」と見ていますが、具体的にどんなところが悪なのかを明らかにしています(4節)。


 ユダ王国の首都エルサレムには主の神殿があり、そこは信仰の中心であり発信元でもあります。主と契約を結んだイスラエルは自分たちを通して主の栄光を世に知らしめ、信仰を広げる役割を担っていました。しかし、彼ら自身が主に背き続けたので、主は「手を伸ばす」すなわち彼らを大地の面から断ち切るのです(4節)。ここで主は彼らの悪を指摘します。4-6節には主に背く3つのグループが挙げられています。


①バアル崇拝の祭司(4節):本来、祭司はイスラエルの神である主に仕えなければなりません。ところが彼らは主に仕えないどころかバアル神に仕えていました。「残りを断つ/名を断つ」とあるように、主はご自身に仕えない祭司を最後の一人まで、しかも存在していたことさえも消去します。それほど彼らの背きは深刻なのです。


②偶像崇拝者(5節):「屋上で天の万象を拝む者どもを、また、【主】に誓いを立てて礼拝しながら」とあるように、彼らは見た目には主を崇めていますが、その裏ではアッシリア人の天体崇拝やアモン人のミルコム(モレク)を崇めていました。背きの程度では、先ほどの祭司よりもあからさまではありませんが、これも表面的・形式的な信仰であり、間違いなく主への背きです。


③主を捨てた者(6節):以前は主を信頼し従っていましたが、今では信頼しないどころか、主を必要としていない者たちです。前の2グループと違い彼らは、目に見える形で異教の神を崇めてはいません。けれども主はご自身を必要としない彼らの心を悪と見ているのです。


 ここから分かるのは、主は背きという悪の程度を見ていますが、6節「【主】に従うことをやめた/【主】を尋ねず求めない」といった人の内面を問題としていることです。確かに、祭司があからさまにバアルを礼拝する方がひどい背きです。しかし、主は定められた形式できちんと礼拝していても、内実は主を信頼せず捨てている者を、偶像の祭司と同じように怒っているから、偶像の祭司と同じように断ち切るのです。キリスト教では犯罪を犯していなくても、すべての人を罪びとと見ています。いわゆる原罪です。それは、今申しましたように、主は表には出ない心を調べているからです。


 それで、ゼパニヤは断ち切られる者たちへ警告します(7節)。「【主】は...招いた者たちを聖別する」とは、宴会の招待客を王が選別するごとく、主はいけにえ、すなわち主の日における罰にふさわしい者を選別し、すでに決めているのです。だから、主に反論したり申し開きできる段階ではないから「口をつぐめ。【神】である主の前で。」と命じるのです。


 そして、いけにえに定められた者について主はこう言います。「【主】であるわたしが獣を屠る日に罰する(8節)/その日、わたしは罰する。(9節)」とあるように、主は主の日に、すでに罰に定められている者を断ち切ります。8節は政治的指導者に加えて、「外国の服をまとった者」と指摘されているように異教の服を着た主に背く指導者です。マナセ王やアモン王はその典型と言えます。


 続く9節は「主人の家」とも呼ばれている神殿に関わっていますから、祭司をはじめとする宗教的指導者を指しています。「敷居を跳び越える」の解釈ははっきりしていませんが、おそらく異教の習慣をしている者、つまり神殿で主を冒涜している者です。また、「主人の家を暴虐と欺きで満たす者ども」とあるように、神殿は本来、主の正義、聖さ、善で満ちる場所です。けれども、彼らはそこで邪悪なことを行い、人をだましているのです。主に背いているというよりも主の顔に泥を塗っています。


 政治の指導者も宗教の指導者も、民が主に信頼し従うために主が置きました。言い換えれば、民の模範となるべき立場なのです。それが率先して主に背いているのですから、主はまず指導者に怒りを発するのです。確かに主は「主を信頼しない」という人の内面を見ていますが、背きの程度もすべてご存じであり、「何としても許しがたい」という程度があるのです。


■おわりに

 イスラエル民族は「神(エル)」の名が付けられた民族です。本来は彼らを通して他の民族が神を知り、神のわざを知って、神を信じるための存在です。例えば、ヨシュア記のラハブは彼らを通してイスラエルの神を信じました。しかし、イスラエルが他の神々を崇めたり、悪をなすならば、誰がイスラエルの神を「素晴らしい神」と見るでしょうか。だから神はイスラエルに激怒するのです。ご自身の栄光を明らかにするはずが、ご自身を貶めているからです。


 このことは、イスラエル民族をクリスチャンに置き換えても成り立ちます。私たちも神の存在と神のあわれみ、イエスによる救いを明らかにする役割を担っています。けれども、もし私たちが法を犯したり、他者の幸せを奪うならば、神を貶めるのです。


 さらに神が人を造ったという観点からすれば、神は邪悪なものを造ったということにもなります。しかし、事実はそうではありません。万物の創造において、神は人をご覧になって「非常によかった」と言いました。人が本来のあり方から外れて、神の正しさ、聖さ、愛を実現できていないのです。今や、神にとって人は怒りの存在なのです。だからこそ、「キリストによる救い」という神の愛が私たちの光になるのです。

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