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木村太

12月6日「イエスのことばを信じる」(ヨハネの福音書6章60-71節) 

・はじめに

 日本には数え切れないほどの資格があります。車の運転、医者、看護師などはその代表ですね。ほとんどの場合、資格を取るためには一定水準の知識や技能が必要で、そのための試験に合格しなければなりません。それとは違い、キリスト教では、「信仰者」と認められるための知識や技術の水準は定められていません。ただ一つ、イエス・キリストを救い主と信じているかどうかだけです。「聖書66巻の書名を全部答えないと洗礼を受けられない」といったことはありません。だから、すべての人が永遠のいのちの対象なのです。今日は、人はどうやってイエスのことばを信じるようになるのかを聖書に聞きます。


Ⅰ.人の能力・努力ではなく神の働きによって、イエスを信じるようになる(6:60-65)

 イエスは、ご自身の肉を食べ血を飲む者は永遠のいのちを持つ、とユダヤ人に語りました。これは食べ物や飲み物が人の血肉となるように、イエスを信じた者はイエスと一体となるから永遠に生きることを意味しています。しかし、人々は文字通り受け取りました。


 弟子たちはイエスと常に一緒にいて、たくさんの奇蹟を見ているにもかかわらず、「人の肉を食べ血を飲む」ことを不快で耐え難いと言いました(60節)。ユダヤ人であればだれでも耳を塞ぎたくなるような事柄だからです。その様子を見たイエスはこう言います(61-62節)。


 「つまづき」は不信仰や背教、堕落の誘惑となることを言います。言い換えれば永遠のいのちから遠ざけるのが「つまずき」と言えます。それで「肉を食べ血を飲むというのは真実なのに、それが永遠のいのちから遠ざけているのはあなた方自信の問題だ」とイエスは指摘しているのです。だから「肉を食べ血を飲む」ことがつまずきとなるのなら、ユダヤ人であるイエスが天に上ったのを見たらもっと混乱しつまずくのは明白なのです。私たちも「敵を愛しなさい」「いつも喜んでいなさい」のように真実であったとしても、理解できず受け入れがたいために信仰のつまづきとなることがあります。


 そこでイエスはご自身のことばが何をもたらすのかを明らかにします(63節)。「御霊/霊」は目には見えないけれども、人の内面に働く神の力を指します。ユダヤ人たちは肉を食べる、血を飲む、パンを食べるといったいわば肉と呼ばれる人の能力や努力で永遠のいのちを受け取れると捉えています。一方、イエスはご自身のことばそのものが霊の働きを生み、益すなわち永遠のいのちになると言います。つまり、イエスのことばをそのまま受け入れるときに神が聖霊を通してその人に働くのです。永遠のいのちを受け取るには行いではなくイエスのことばを信じること、これをイエスは明らかにしています。


 ただし、イエスのことばを聞いていても違いが出るとイエスは言います(64節)。先ほども申しましたように、弟子たちはイエスと共に生活していますから、イエスの話だけではなくて、イエスがなさったすべての奇蹟を見ています。けれども全員がイエスを直ちに信じるようにはなりません。「イエスの肉を食べ血を飲む」ことが耐え難くイエスを信じられなくなる弟子が生まれるのです。


 同じ弟子なのにどうして信じる者と信じない者とに分かれるのか、その理由をイエスは「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない」と言います(65節)。つまり神がその人に作用しなければだれ一人イエスのもとに来る、すなわちイエスのことばを信じるようにはならないのです。ですから「イエスの肉を食べ血を飲む」このことばは文字通りであれば耐え難いけれども、「これはイエスと一体となることだ」と神の働きによって理解でき受け入れることができるのです。イエスのことばを信じ受け入れる者に聖霊を通して神が働きますが、ことばを信じる事自体が神の働きなしでは起きません。


 パウロは「信仰は聞くことから始まる(ローマ10:17)」と手紙に書きました。イエスを全然知らないのに「この人は救い主だ」とはなりません。だからパウロも私たちもイエスのことばである聖書を語ります。ただし、イエスのことばを信じるかどうかは神の働きによります。わかりやすく語っても、繰り返し語っても、熱く語っても、あるいは相手が創世記から黙示録まで研究したとしても、神の働きなしでは信じるに至りません。内容を理解できなくても、神の不思議な力によってイエスのことばを信じるようになるのです。


Ⅱ.イエスによって招かれた12人だけがイエスに永遠のいのちがあると信じていた(6:66-71)

 さて、弟子たちの多くは「イエスのことばはひどいと文句」を言いました。その後の出来事です。


 弟子たちはイエスが「自分の肉を食べ血を飲む」ことを否定しないばかりか解説もしないので、大部分がイエスから離れてゆきました(66節)。イエスに従う生活を止めて、イエスに出会う前の生活に戻りました。イエスのことばが彼らをつまずかせたのではなく、イエスのことばを信じられないことが原因です。イエスが直前に語ったように、今の段階で彼らは父なる神から与えられた者ではなかったのです。


 この様子を見て、イエスは残った弟子12人に「あなたがたも離れて行きたいのですか。(67節)」と尋ねました。少々意地悪な質問のように思えますが、これは彼らの覚悟を問うています。それで12人を代表する形でペテロが答えます(68-69節)。


 「私たちはだれのところに行けるでしょうか。」は「あなた以外にはない」の強い意思を表しています。12人は、他の弟子たちがイエスのことばに憤慨して離れていっても、イエスに留まりたかったのです。それは二つの理由があります。


①イエスは永遠のいのちのことばを持っている:「永遠のいのちのことば」とあるように、イエスのことばが信じる者を永遠のいのちに導きそこに至らせる、と認めています。


②イエスは神の聖者である:聖書において「聖」は分離を意味し、神の所属であることを言います。イエスは人ではあるけれども人の所属ではなく神に属する人と弟子たちは認めています。前日の水上歩行が大きく影響しているのかもしれません。ただ、「神は人になり得ない」というユダヤ人の神観からすれば、このことばは驚きとしかいいようがありません。


 彼らはこのことゆえにイエスに留まったのです。ここで大事なのは「~と信じ、また知っています。」と語っていることです。「知って」言い換えれば「理解して/悟って」から信じるのではなく、信じてから理解しています。世の中では理解してから信じますが、信仰では信じてから理解します。なぜなら神が働くからです。彼らも私たちも神の力によって理解不能なことを信じるようになり、そしてそれがなぜどのように起こったのかを理解できるのです。


 このことばを聞いてイエスが答えます(70-71節)。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。」とあるように、ここでも、イエスを信じることは弟子たちの意志ではなくイエスの選び、すなわち神がイエスに与えた者という、神の主権を明らかにしています。ただし驚くことに、神がご自分に与えた者の中に裏切る悪魔がいる、とイエスは言います。イエスは将来ユダがご自分を敵に引き渡すことを知っていました。けれども彼を引き受けたのは、彼が十字架に至らせるからです。人を救い神の栄光を表すためには、ご自分が十字架にかからなければならなかったからです。神のみこころを第一にするからユダを弟子から追い出さず、そのままにしておきました。


 人が理解できなくてもイエスのことばを信じるようになるのも、弟子の中にユダを置いたのも、神のみこころなのです。それはイエスの十字架とよみがえりによって、信じる人を天の御国に入らせて永遠の平安を生きて欲しいという、神のあわれみから出ています。私たちがイエスを信じ永遠のいのちを受けたのも、その一切が神の働きにあり、そして神のみこころを忠実に果たしたイエスにあるのです。


・おわりに

 現代はイエスのことばである聖書を伝える手段が豊富にあります。各地で開かれている教会での礼拝説教はもちろんのこと、TVやラジオに加えて無数と言えるほどインターネット配信があります。自宅にいながら日本だけでなく世界中のメッセージ、賛美、礼拝を見聞きできます。イエスの時代とは比較になりません。けれども、イエスの時代と同じようにイエスのことばを聞いた人が全員イエスを信じてはいません。多くの弟子たちのように、非科学的あるいは非人道的な内容を聞いて不快に思う人がたくさんいるのも事実です。


 それでも私たちはイエスを伝えます。なぜなら神が定めた時にその人を引き寄せてくださるからです。イエスのことばだけが人を滅びから永遠のいのちへと救うからです。救いのためにイエスは十字架にかかりよみがえったからです。

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