■はじめに
スポーツの大会ではときどき敗者復活戦というのがあります。一度負けても復活戦で勝てば優勝のチャンスがある仕組みです。実は人間も肉体の死で終わり、天の御国という神の栄冠を受けられない存在です。けれども、肉体が死んでも新しいからだによみがえって天の御国という完全な安息に入れるチャンスがあります。それが、イエスを救い主と信じる信仰です。今日は「神の安息に入れるチャンスがある」ことをみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.人は罪がもたらす神の怒りによって神の安息に入れないが、イエスを信じることで安息に入れる(4:1-5)
この手紙の著者は、荒野におけるイスラエル民族の失敗を引用して、「神に反抗した者は約束の地に入れない」と警告しました。その上で、約束の地すなわち神の安息に入ることについて語ります。
イスラエルの民は神を恐れず自分の思いを優先し、神に逆らいあるいは神を試したので約束の地であるカナンに入れませんでした。だからそれを悪いお手本として、誰一人神の国という神の安息に入れないことがないようにと勧めるのです(1節)。というのも、「神の安息に入るための約束」を神はすでに明らかにしていて、イエスが再びこの世に来るまでの間、その約束を結ぶチャンスがあるからです。
2節「私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。」とあるように、神は「ご自身を恐れ信頼し、ご自身のことばを守ればカナンに入らせる」という約束をイスラエルの民と交わしました。けれども、神のことばを信頼しないで守らなかった者はカナンに入れず荒野で滅びました(例えばカナン偵察の出来事)。聞いたみことばがカナンという益にならなかったのです。
それと同じように、読者にも「イエスを救い主と信じれば天の御国で永遠に生きる」という良い知らせがイエスや弟子たちによって伝えられています。だから、聞いた良い知らせ、いわゆる福音を信じることが神を恐れ信じている証であり、神の安息に入る唯一の方法なのです。イスラエルの民と同じように、私たちにも神の方から安息に入る道を開いてくださっているのです。
しかも「世界の基が据えられたときから、みわざはすでに成し遂げられています。(3節)」とあるように、神は万物を創造したときすでに神の安息に入れる方法、すなわちイエスによる救いを成し遂げられました。イエスによる救いは万物創造のときからすれば未来になりますが、神のご計画は必ず実現するので、すでに成し遂げたと言えるのです。LIBでこう訳されているとおりです。「世の初めから、受け入れ態勢を整えて待っておられた神様」
ここで著者は万物創造と神の安息について語ります。創世記に「こうして天と地とその万象が完成した。(創世記2:1)」と記されているように、神は人を含めてご自身がなすべきことのすべてを6日間で完了しました。それで7日目を安息にしました(4節)。ですから本来人はこの安息の中で生きることができたのです。しかし、5節「この箇所」すなわち詩篇95篇で語られているように、「彼らは決して、わたしの安息に入れない」と神は怒りをもって誓いました。なぜなら、最初の人アダムが神に背いたからです。
パウロが「私たちもみな、不従順の子らの中にあって...生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:3)」と言うように、すべての人は罪がもたらす神の怒りの下にあるから、神の安息に入れません。けれども神は人をあわれむがゆえに、御子イエスを犠牲にしてご自身への供え物としました。イエスのいのちが神の怒りをなだめました。それが十字架の死です。このイエスを信じる者を神は安息すなわち神の国に入らせてくださるのです。イエスが再びこの世に来られるとき、神の国が実現します。私たちはそれがいつなのかわかりませんが、神はすでに決定しています。だから、神の安息に入る約束を結ぶのは今しかないのです。
Ⅱ.神は安息に入れる余地を残しているから、安息に入れるように警告を発し続けている(4:6-10)
さて、著者は神の安息がまだあることを読者に説明します。というのも、イスラエルの民が神に反抗して約束の地カナンに入れなかったように、自分たちも迫害という神の怒りを受けているから神の安息すなわち天の御国に入れないと思っているからです。イエスを信じていても一向に迫害が収まらなければ、このように考えてしまうのも理解できます。
先ほど申しましたように、天の御国という神の安息に入るチャンスがあります。ただし、「以前に良い知らせを聞いた人々(6節)」すなわちイスラエルの民がカナンに入れなかったので、彼らの失敗をふまえて神は数世紀あとのダビデを通して警告を与えました(7節)。「ダビデを通して」とあるのは、著者が詩篇95篇をダビデの作と見ているためです。
「ある日を「今日」と定め(7節)」とあるように、神は今みことばを聞いてイエスを信じるなら安息に入れる、と語っています。ダビデの時代もこの手紙の時代も、そして現代も「神の声であるみことばを」聞くことができますから、神の安息に入れるのです。つまり、神の安息は約束の地カナンではないのです。そのことを著者はこのように解説します(8-9節)。
もし、ヨシュアが「神の安息としてカナン」をイスラエルの民に与えていたならば、神の安息に入る機会はそこで閉じています。であれば、後の時代にダビデを通して「今日、もし御声を聞くなら」と警告する必要はありません。まして、イエスによる救いをすべての人に伝える必要もありません。ですから神の安息である完全な休みは、ダビデの時代にもこの手紙の時代にも、現代にも残されているのです(9節)。
このことを補強するために、著者は「神の安息はどういうものか」という点から語ります(10節)。「神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休む」とは「何もしない」ではありません。創世記に「神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。(創世記2:15)」とあるように、人に罪が入る以前から神はすべきことを与えています。しかし、罪が入った後はこう定めています。
・女に対して:わたしは、あなたの苦しみとうめきを大いに増す(創世記3:16)
・男に対して:あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる(創世記3:17)
ここから明らかなように、人生における労苦からの解放が「自分のわざを休む」ことなのです。もし、カナンが神の安息であれば、そこに生きる者は一切の労苦はありません。でも実際は労働に苦しみがあり、他民族との戦いで痛みや悲しみがあります。さらに言うならば、カナンはもとよりダビデの時代もこの手紙の時代も現代も、この世は神の安息ではありません。黙示録にあるように、神の安息はイエスが再び来た時に実現する神の国・天の御国なのです。
「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録21:4)」イエスを信じた者がやがて入る天の御国こそが神の安息です。だから、神の安息に入るチャンスはまだあるのです。けれどもイエスがいつこの世に来られるのかわからないから、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」と神は警告しているのです。神はすべての人が神を恐れてイエスを信じ、神の安息に入ることを望んでおられます。
■おわりに
私たちは本来、神の安息に入れない者でした。しかし神はそんな私たちをかわいそうに思い、御子イエスを犠牲にし神の安息に入る道を備えてくださいました。その上、「イエスを信じれば神の怒りを免れて、神の安息すなわち天の御国に入れること」をイエスを通して、その後の使徒たちを通して、そして聖書を通して私たちに伝えています。さらに、神の安息ではない労苦をともなう人生においては、イエスが大祭司として神にとりなし、私たちに不思議な平安を下さっています。この世において神の安息を味わうことができるのです。
「こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。(ヘブル4:1)」
神は御子イエスを犠牲にしてまでも私たちを神の安息に招いています。神にとって私たちはそれほど尊く大切な存在なのです。神はすべての人に神の安息に入るチャンスを与えています。だから今、この招きに応えてイエスを信じましょう。
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