■はじめに
J.I.パッカーという学者は人の良心についてこう言っています。「良心とは道徳的判断を下すために私たちの心にある生まれながらの力」こう言えるのは、神が人を造ったときにご自身の息を吹き込んでご自身の性質を人に入れたからです。だから人は生まれながらにして神の正しさや愛を実行できます。しかし、罪によって良心が歪められて、神と同じ正しい判断をできない状態になりました。ですから私たちは善と悪、判断の正しさと誤り、愛と無関心という相反するものを持っているのです。今日はピラトの心の変化を通して、人の罪がイエスを十字架につけたことを見てゆきます。
■本論
Ⅰ.ピラトはユダヤ人の怒りを収めるためにイエスに苦痛を負わせた(19:1-7)
ピラトは祭司長たちからイエスを引き取りましたが、ローマの法律ではイエスに罪を見出せませんでした。けれどもピラトはイエスを鞭打ちにします(1節)。
当時、ローマが用いた刑罰用の鞭には金属片や魚の骨が付けられているので、皮膚が裂けて激痛を与えます。後に記されているように、罪状が無くても鞭打ちにしたのは、イエスを痛めつけることでユダヤ人の怒りを収めるためでした。ここでローマ兵たちはピラトが鞭打ちを許可したのを見て、イエスに茨の冠と紫のマントを着けました(2節)。冠と紫のマントは王が身につけるものですけれども、彼らは「こっけいなユダヤ人の王」の格好をさせて、イエスをからかい顔を叩いてなぶりました(3節)。そしてそのような姿のイエスをピラトは人前に出します(4-5節)。
ピラトは「見よ、この人だ。」と言い、祭司長たちにイエスの姿をさらしました。イエスは鞭打ちで血だらけの上、茨の冠を頭に被らされ、全裸で上半身だけ紫のマントを羽織らされ、手には王の笏に見立てた葦の棒を持たされています。ピラトは「イエスには罪がない」と判断しているので、哀れで惨めで痛々しいイエスの姿を見せることで、祭司長たちの怒りを収めようとしたのです。この時のイエスの肉体的、精神的痛みはどれほどだったのでしょうか。想像しただけで心が苦しくなります。
ところが祭司長たちの反応はピラトの期待どおりではありませんでした(6-7節)。彼らはイエスの姿を見てもなお「十字架以外にはあり得ない」という態度でした。しかし、ピラトはイエスが完全に無罪だとしているので、「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。」と命じました。「私が関わることは一つもない」と言っているのです。
これに対して祭司長たちは「ピラトには無罪だけれども、私たちの律法では「神の子の宣言」すなわち神冒涜は死に値する。(マタイ26:63-65)」と反論します。彼らはローマ法に則らなければ死刑を執行できないこと、そして神冒涜という宗教犯では死刑にできないことを知っていました。だから総督ピラトにイエスを引き渡したのです。なのにここでは神冒涜という宗教犯を訴えています。彼らは律法に仕えていることを自負しているにもかかわらず、自分たちの地位を守るためにローマ法を利用し、しかも人殺しのために利用しています。神の民として最もふさわしくないことをなしているのです。
ピラトは無罪のイエスを鞭打ちにしたり、ローマ兵のあざけりを止めません。この点では人を大切にしないという罪が明らかです。一方でイエスの無罪を3度も祭司長たちに述べているのは(18:38,19:4,6)、彼の良心が歪められていないからです。人は神の聖さや正しさ、愛をどんなときも行えません。けれども正しい判断ができるのも事実です。
Ⅱ.ピラトは「ローマ皇帝に不誠実な者」と見られないために正義を捨てて、イエスを十字架刑にした(19:8-16)
ピラトはユダヤ人の反応に動揺します。なぜならユダヤ人はイエスの悲惨な姿を見てもなお、神冒涜のイエスに死を求めるからです(7-8節)。その執念にピラトは恐れを抱いて、「あなたはどこから来たのか」とイエスに聞きます(9節)。イエスがなぜ「神の子」と祭司長たちに答えたのかを知りたかったのです。しかし、イエスは黙ったままでした。直後に語るように、たとえご自身の弁明でピラトの考えが変わったとしても、ご自身の死は神のみこころであり決定事項だからです。そのイエスにピラトが言います(10節)。
イエスが十字架刑に対して何も言わないので、ピラトは「生かすも殺すも私次第」とイエスに弁明を促します。普通は裁判官に刑を逃れるため、弁明や言い逃れ、あるいは命乞いをするからです。ただ、弁明のチャンスをイエス与えていることから、ピラトは十字架にならない道もあることを暗に示しています。
ここでイエスは「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。(11節)」と答えました。人が目にするのは、ピラトが総督の権威によって十字架刑の判決を出すことです。けれども真実は父である神がイエスの死を決めたのです。だから、イエスをいかようにもできる権威を神がピラトに与えていなければ、ピラトはイエスの死を覆すことはできません。ただし、ピラトは裁判官としての権威を持っています。たとえ間違った判断をしたとしても神の許しの下で与えられた権威を用いています。一方、イエスを引き渡したカヤパや祭司長たちは裁判官の権威を持っていないにもかかわらず、イエスを死に定めた上、裁判官としてのピラトの権威を利用しました。簡単に言えば、保身のためにあらゆる手段を用いてイエスを殺そうとしているから、正義を歪めたピラトの罪よりも重いのです。
使徒ヨハネはピラトについて「ピラトはイエスを釈放しようと努力した」と語っています(12節)。事実、ピラトは祭司長たちをはじめとするユダヤ人に「イエスに罪を見出せない。」と繰り返し告げています。さらに、イエスに弁明の機会を与えています。この段階ではピラトは神から与えられた正義に従っているのです。ところが彼の正義を歪める事態になりました(12節)。
ローマ帝国の王すなわち皇帝はカエサルであり、カエサルが最高権威者です。誰かが「自分は王である」と宣言するのなら、その者はカエサルを否定している、とユダヤ人は言います。ですから、もしピラトがイエスを野放しにするなら、イエスを王と認めカエサルを否定することになります。非常に馬鹿げた理屈ですけれども、ユダヤ人の群衆がピラトをそのように見るのですから、皇帝に忠誠を誓ったピラトにとってはたいへんな問題です。
祭司長たちの企みは本当に巧妙です。彼らは律法における神冒涜という名目でイエスを抹殺しようとしました。しかしそのためには宗教ではなく国家転覆の政治犯としてローマ法での死刑判決が必要です。それでピラトに「ユダヤ人の王」としてイエスを引き渡しました。しかし、ピラトが無罪を判断しているので、「皇帝に背く者をそのままにするのか」とピラトが最も気にするところに訴えたのです。彼らは訴えのターゲットを「イエスの十字架」から「ピラトの判断」に移しています。
ユダヤ人の激しい訴えは効果てきめんでした(13節)。これまで「罪を見出せない。」と言ってきたのに、ピラトは彼らの叫びを聞いてすぐに判決を出すことにしました。ピラトはユダヤ人の訴え通り、「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」と皮肉を込めながら、イエスをユダヤ人の王として受け付けます(14-15節)。それに対してユダヤ人たちは「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」と答えています(15節)。ユダヤ人にとって最高権威者は神であるのに彼らはそのことを否定し、カエサルを最高権威者と認めたのです。彼らは「私たちは神の民だ」と言っておきながら、あるときは神の定めた律法を持ち出し、あるときは神よりもカエサルという人を上にしているのです。これこそまさに神冒涜です。
ついにピラトはイエスを十字架刑に定めました(16節)。ローマの法律に照らし合わせても何ら罪を見出せなかったのに、イエスを有罪しかも最も重い十字架刑にしました。彼はローマ皇帝に忠誠を誓った者として、自分の立場を守るために無罪と判断したイエスのいのちを奪うのです。彼は保身という罪の誘惑に乗り、人として備わっていた正義を捨てました。イエスと一緒に十字架についた男が言った通りです。「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。(ルカ23:41)」人の罪を贖うために無罪のイエスが十字架にかかります。これが神のみこころでした。
■おわりに
私たちは使徒信条を用いて、何を信じているのかを公にしています。その中に「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」という文言があります。先ほど申しましたように、鞭打ち、人前での屈辱的な姿、十字架刑の決定、これらはポンテオ・ピラトの判断によってなされました。それで「これが事実と信じています。」と私たちは告白するのです。
ここで覚えておきたいことがあります。それは「ピラトは自己中心という罪を持つ私たちの姿である」ということです。私たちも神から与えられた正義を働かせることができます。しかし、ピラトのように自分の立場を守るために、あるいは自分に不利益を被らないために、あるいは自分が傷つかないために、私たちは「正しいこと」と分かっていても、それを押し通せない罪を持っているのです。
ピラトは自己中心の罪によってイエスの十字架を決定しましたが、それはまさに私たちの罪がイエスを十字架につけたことなのです。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」という告白は「私の罪のためにイエスは苦しみ、十字架にかけられた」という告白でもあるのです。
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