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木村太

1月28日「神に求める」(マタイの福音書7章7-11節)

■はじめに

 日本語に「願掛け」という言葉があります。これは、神仏に願いをかけることで、「神様、志望校に合格しますように」「商売が繁盛するように」など人生のあらゆる場面でなされています。フランス人の歴史家ジャン・マリ・ブイスは「神道は生の市場を独占しており、結婚から安産、誕生、子供の成長、豊作と豊漁、商売繁盛...そこから転じて、あらゆる種類の企業の成功を請け負い...(「理不尽な国ニッポン」より)」と言っています。興味深いことに、ほとんどの日本人は「私は宗教に入っていない」と言っていながら、いろんな神に願いを掛けています。「神に願いを掛ける」という点では私たちクリスチャンも同じです。ただし、願いを掛けるときに自分を最優先にするのか、それとも神を最優先にするのか、という点では大きな違いがあります。今日は私たちが神に求める際の心得をみことばに聞きます。

 

■本論

Ⅰ.「求める」とは言葉によって神に訴え続けることである(マタイ7:7-8)

 キリストは弟子たちに必要なものを求める方法について語りました(7-8節)。私たちの願い事は大きく2つに分けられるでしょう。一つは品物や食べ物、お金といった物質的なものです(これを欲しい)。もう一つは健康、人間関係、社会情勢といった状況です(こうなって欲しい)。

 

 そこでキリストは、8節のように、だれでも神が与えるから神に求めなさいと命じています。ただし、「神は心の中までご存じだから、言わなくても大丈夫」ではありません。「求める(口で)、探す(目で)、たたく(手で)」はいずれも具体的な行いですから、自分から神に向かって願い出るのです。その手段が神への祈りです。マタイの福音書の中でキリストは「主の祈り」の前置きで、「だからこう祈りなさい(マタイ6:9)」と言いました。ここでの祈りは黙祷ではなく、ことばに出すことですから、ことばによって神に乞い求めるように命じています。

 

 さらに7節には求め方について2つの特徴があります。

①求める、探す、たたくはいずれも「~し続ける」という文法になっています。つまり、1回で終わりではなく、繰り返して求めるのです。

②求める、探す、たたくは次第に求め方が強くなっています。例えば、今絶対に必要な物があったとき、まず私たちはお店に買い求めに行きます。そこで売っていなければ別の店で探したり、あるいはどこで売っているのかを探すでしょう。さらに商品を扱っているのがたった一件で、しかも閉まっていたら戸をたたいてお願いするでしょう。つまり、求める、探す、たたくは与えられるまでねばり強く乞い求めることを意味します。

 

 神はあらゆる願い事を、祈りを通して明確なことばによって、繰り返しねばり強く求めなさい、と私たちに命じています。このことは、「どんなことでも神にはできる」という神の全能、そして「神は必ず応えてくださる」という神への信頼を神に示しているのです。それに対して「これは願っても無理だろう」とか「昨日祈ったけど何にも変わらない」だから神に願うのをあきらめるというのは、私たちが神を小さく見ているからなのです。「求め続ける。探し続ける。たたき続ける。」これは全能なる神に全幅の信頼を置いているしるしなのです。

 

Ⅱ.神は求める者によいものを与えてくださる(マタイ7:9-11)

 8節に「だれでも受け(取り)、だれでも見出し、だれでも開かれる」とあります。どうして神はそのように応えてくださるのでしょうか。その理由が9-11節にあります。

 

 キリストは「要求と応答」について、まず人の親子関係から説明します(9-10節)。パンと石、魚と蛇は似て非なる物で、子どもの要求とは全く違います。しかも、石や蛇は食べたら害になります。だから「石を与えるでしょうか。いやそれはありえない。蛇を与えるでしょうか。いやそれはありえない」となるのです。つまり、人の親子でさえ親は子どもが必要とする物を与えるでしょう、とキリストは言うのです。

 

 そうであれば天におられる父なる神と子すなわち私たちクリスチャンではどうなのでしょうか。11節「あなたがたは悪い者であっても」とあるように、神に比べれば人には罪がありますから悪い者です。であるなら、神よりも悪い人間である父が子に良いものを与えるのであれば、なおのこと人間よりも優れた神は子に良いものを与えるのは当然と言えます。今の社会では、親の都合で子供に食事を与えないとか、トイレを使わせないといった虐待事件が起きています。しかし、神は聖さ、義、愛において完全ですから、私たち子どもの要求を無視したり、害になるものを与えることはありません。

 

 ただし、私たちが神に求めたものがその通りになるとは限りません。11節で「親が自分の子どもによいものを与える/天におられる父が自分の子どもに良いものを与える」とあるように、子どもが求めたものがその子にとって良いかどうかは親が判断します。例えば、小学生の子どもが車を欲しいと繰り返しねばり強く願い求めても、親は絶対に与えません。それは今のその子にとって車が良いものではないからです。かえって子どもや周囲に害を与えるから決して与えません。

 

 同じように私たちの求めるものが果たして良いのかどうかも神が判断します。ですから7節に従って祈り求めても、神から与えられなかったり、あるいは違うものが与えられることがあるのです。私たちの人生においては「こっちに行くんですか/こういう結果ですか」という出来事があります。がっかりすることもあれば、願ってた以上のこともあります。どちらにしても「神のお考えで私たちに良いものが与えられている」と信じることが大切です。

 

Ⅲ.神はご自身の栄光のために、よいものを私たちに与えてくださる(ヨハネ14:13)

 ではなぜ神は良いものを与えてくださるのでしょうか。ヨハネの福音書14:13にこうあります。「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。(ヨハネ14:13)」クリスチャンはキリストの名によって、すなわちキリストがこの願いを神にとどけてくださると確信して祈ります。神はキリストを通して願い求めるものは何でも与えてくださいます。それは物質的な物であろうが状況であろうが、たとえ私たちの目には不可能と思われることでさえも、与えてくださいます。

 

 ただしその目的は、父が子すなわちキリストによって栄光を受けるためです。求めた人を満足させるために与えるのではありません。たとえば、不治の病が治ったとか、絶対に手に入らない物が与えられたというように、キリストを通してあり得ないことが与えられたときは、その事実が神の存在と神の不思議なみわざを人々に知らせ、人々は神を崇めるようになります。キリストによる不思議なわざはこの典型です。福音書を見ると、キリストのわざを通して人々は神を崇めました。ですので、もし求めたものが神の栄光を表さないとか、神の名を汚すのであれば、与えられないのです。例えば「ウソをつくために知恵をください」といっても、その知恵が与えられることはありません。

 

 さらに言うなら「父が子によって栄光をお受けになるために、良いものを与える」ここには「与えるもの」に加えて「与えるとき」も神の支配にあることを含んでいます。例えば、剣道でいきなり技を教えて欲しいと言われても、正しい打ち込みや足さばきができていなければ技は使い物になりません。だから基本が固まってからいろいろな技を教えます。そのように、神から見て与えるにふさわしいときがあるのです。

 

 神に繰り返し粘り強く祈り求めたとしても、それと同じものが与えられるかどうか、そしていつ与えられるかどうかは、神の判断に任せられています。具体的に言うならば、直ちに与えられる場合、時間が経ってから与えられる場合(今はそのときではない)、まったく与えられない場合(あなたに必要なのはそれとは違う)があるのです。それゆえ私たちは、直ちに与えられないときには「今私にそれが必要なのかどうかを教えてください。私にとってそれが神の栄光になるのかどうかを教えてください。」と祈るのです。ただし、神は私にとって最も良いものを最も良いタイミングで与えてくださる、という確信を忘れてはなりません。

 

■おわりに

 日本では神社やお寺でたくさんの人々がいろんな願い事をします。でもそれを神様や仏様が聞いているかどうか確信を持っているのでしょうか。さらには願い事が必ずそうなるという確信を持っているのでしょうか。しかし、私たちの父なる神は違います。「求め続けよ。探し続けよ。たたき続けよ。」と命じるように、祈りを通して語られる私たちの願いを神は確実に聞いています。そしてご自身の栄光のために、神が私たちを顧みて良いものをくださるのです。神は我が子キリストを犠牲にしてまで、私たちを永遠の滅びから永遠のいのちに救ってくださいました。それほど私たちを大切にしているのですから、私たちにとってふさわしいものを与えてくださいます。私たちはそう確信しているから、神の栄光のために願い求めるのです。

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