■はじめに
三笠の年末年始は大雪や極端な冷え込みもなく、穏やかな日常と言えるでしょう。しかし、国内外に目を向ければ決して穏やかではありません。ウクライナとロシア、イスラエルとパレスチナをはじめとして、世界では武力紛争が絶えません。また、日本では能登半島地震や羽田空港での飛行機事故など命や生活が奪われる出来事が起きました。さらに、様々な格差によって富む者はますます富み、貧しい者はそこから抜け出せない社会になっています。思想的には「今楽しければそれでいい」という享楽主義や「自分あるいは自分の仲間が安全で楽しければそれでいい」という自己中心性が私たちを包んでいます。こういった世の中で、私たちクリスチャンはどう生きてゆけばよいのでしょうか。今日はこのことをコロサイ人への手紙から受け取ります。
■本論
Ⅰ.私たちはキリストと結びつき、キリストに導かれ、キリストとともに歩む(2:6-7)
本論に入る前にこの書について説明します。この手紙が書かれたのは、キリストの十字架と復活から約30年後のAD60年頃ですから、キリスト教という宗教はまだ存在していません。ですので人々はパウロのような伝道者から「キリストは救い主」という教え(福音)を聞いて信仰を持ちました。一方、コロサイ教会を取り巻いていたものは、古くから伝わる教えや迷信、あるいは哲学など、「キリストによる救いを否定する」宗教や思想でした。当然ながら、こういう考えが教会の中にも入っていました。
それでパウロは手紙の最初でキリストの真実について記しました(1:15-22)。「万物はキリストによって造られた(1:15)/目に見えるものであれ見えないものであれ、あらゆる存在をキリストが支配する(1:16)/キリストは死者の中からよみがえられた最初の人(1:18)/キリストは神と人とをとりなす唯一の方(1:20)」これらを明らかにした上でパウロは、キリストを信じる者の生き方を語ります。
では本論に入ります。パウロはまず「キリストにあって歩む」という原則を命じ(6節)、そして「根差し、建てられ」のように具体的な方法を命じます(7節)。つまり7節の実践が「キリストにあって歩む」ことになるのです。
パウロは命じる前に「あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから(6節)」と言います。これは「キリストにあって歩む」ための条件であり、「あなたがたはすでにその条件を満たしている」と言っているのです。「受け入れる」は「(妻を)迎え入れる/(誰かを)連れて行く/(誰かを)傍に呼ぶ」の意味がありますから、これは誰かと一緒にいるという意味を持っています。つまり、キリストを救い主と信じた者は、キリストと一緒に生きるようになっているのです。パウロはこのことを「キリストと一つになっている(ローマ6:5)」とも言っています。
それゆえ「キリストにあって歩みなさい。」とキリストと常に一緒であることを意識させるのです。この「キリストにあって」はパウロが好んで使うことばで10節でも使われています。「キリストにあって」とはキリストと自分との関係を表していて、「時間的にも空間的にもキリストが支配する中で/キリストと一緒に(肩を並べてのような)」を意味します。ですから「キリストにあって歩む」とは「キリストに信頼して/キリストに委ねて/キリストから力を受けて/キリストに従って」生きるとなります。
ここでパウロは「キリストにあって歩む」ことを4つの面から解説しています(7節)。
①キリストのうちに根ざされる…キリストという土に根を張る。生きる土台をキリストに置く。
②キリストに建てられる…キリストが自分の生き方を導き、信仰を成長させる。世の中や自分の判断に委ねない。
③教えられたとおりの信仰を堅くされる…キリストは救い主という奥義からはずれることなく、違う教えに従わない。
④あふれるばかりに感謝する…救われて天の御国に入れることを喜びとし、それをくださった神に感謝する。目の前の出来事に心を奪われない。
6-7節をまとめるとこのようになります。キリストを救い主として受け入れた人、すなわちクリスチャンは神によってすでにキリストに結びつけられています。クリスチャンが様々な教えや罪に惑わされない成熟した人となるためには、キリストを支えとして、キリストに従い、キリストに信頼し、キリストを喜びとして生きるのです。そうすれば、神が私たちを大人の信仰へと成長させてくださるのです。大事なのは何をしたか、どんな結果を残したかではなく、キリストに身を委ねる生き方なのです。
Ⅱ.私たちはキリストに満たされているから、キリスト以外は必要ない(2:8-10)
続けてパウロはなぜ「キリストにあって」なのかを言います。まず、パウロはコロサイ教会を取り囲んでいた考えや思想について、「だましごとの哲学/人間の言い伝え/この世のもろもろの霊によるもの」と呼んでいます(8節)。これらは人の興味を惹きやすく、また何らかの成果を見せることでもっともらしく見えます。けれども、それらは「キリストによるものではない」ので神から引き離そうとするから、従ってはいけないのです。
パウロはキリスト以外に頼ることを否定したうえで、なぜキリストなのかをこう言います(9-10節)。神のご性質(神性)とは聖書が明らかにしている神の性質です。例えば、全知、全能、愛、聖、義、不変、永遠(時間に制限されない)などです。また、「満ち満ちている」には「いっぱいである/全うしている/完成している」の意味があります。ですから、神こそが私たちの目指すべき姿の完成であり、神について私たちが勝手に付け加えたり、省略してはなりません。
その神のご性質が「形をとって」キリストの中に宿っています。パウロがわざわざ「形をとって」と口にするのは、目に見えない神がキリストとという目に見える形になったからです。私たちは五感で感じ取れないものをどうやって見倣えるでしょうか。神は目に見えないお方ですから、神を見倣うのは不可能です。けれども、人という形、いわば目で見て耳で聞いて手で触れる肉体になったからこそ(Ⅰヨハネ1:1)、私たちはキリストを見倣うことで神を見倣うことができるのです。キリストのうちに神のご性質が形をとって宿っているから、「キリストに従うこと」=「神に従うこと」になるのです。
そこでパウロは「キリストにあって満たされているのです。(10節)」とコロサイのクリスチャンに語ります。10節を直訳するとこうなります。「あなたがたはキリストにあって、すでに満たされた者たちです。そのキリストは全ての支配と権威のかしらです。」クリスチャンはすでに満たされた者です。「満たす」ということばには、「全うする/完了する/(福音書では)成就する・実現する」の意味があります。ですから、「あなたがたはすでに満たされた者」とは「あなたがたの救いはキリストによって完了している、実現している」ということです。言い換えれば、「あなた方の救いはキリストで十分である。救いはキリストで満たされているから、他の教えが入り込む余地はないんだ」とパウロは言うのです。
「あらゆるもののかしら、すなわちあらゆるものを治めるキリスト、神であるキリストが救いを満たしているのだから、キリストによらない教えにはあなたがたは影響されないんだ」とパウロは励ましているのです。それでパウロは、割礼や飲み食いといった戒律、行き過ぎた禁欲主義、肉体の苦行など、たましいの救いや祝福を得るための人が作った教えは必要ないと、この後命じるのです。
日本には神道や仏教にルーツを持つ習慣やしきたり、あるいはその土地に伝えられてきた迷信がたくさんあり、私たちはその中で生活しています。また、何が大事なのかという価値観や何が正しいのかという倫理観は、地域や時代をはじめ人それぞれに違います。けれどもそれらを取り入れる必要はないばかりか、その中に生きていても影響はないのです。なぜなら、滅びからの救いやこの世での平安はキリストで十分だからです。それゆえ、キリストにあって歩むことができるのです。
■おわりに
私たちは救いにおいても、この世の平安においてもキリスト以外に必要はありません。ただし、私たちはキリストと結びついているけれども、キリスト以外に満たしを求めたい心があるのも事実です。毎日の生活の中で、キリスト以外に安心や満足を手にしたい欲求は次から次へとやってきます。だからキリストで満杯にしておくことが大事なのです。そのために祈りと聖書と礼拝があるのです。
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