地域に福音を伝える、これは神から与えられた教会の役割です。それゆえ私たちは教会主催のイベントを開いたり、様々なメディアを利用して福音を発信したりしています。一方で口コミによって教会のことが広まるというのもあります。私の経験からすると、特に地方都市ではご近所や町内会での信頼が伝道を左右します。時には未信者の方々が「イベントに参加しましょう。」というお誘いもしてくださるのです。そこで今日は福音の前進とはいったい何かを聖書に聞きましょう。
Ⅰ.パウロは獄中生活を通してキリストが伝えられたことを語った(12:12-14)
パウロはあいさつの直後に福音の前進について書いていますから、このことを何としてもピリピの人たちに伝えたかったのでしょう。「鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。(1:17)」とあるように、自宅監禁だったとしても、パウロは物質的、精神的な苦難にありました。それを知ってピリピの人たちはエパフロディトに贈り物を託して派遣し、さらに彼はパウロの身の回りを世話しました。ですから普通であれば「贈り物を感謝します/助かりました」などと書くところです。でもパウロは違いました。彼の関心は福音が伝えられていることにありました。福音伝道に人生をささげたパウロらしいことばと言えます。
パウロは私の身すなわちローマの獄中生活を通して福音が前進した、と言います。そのことをこう説明します。
①13節:使徒の働きにあるように、パウロはキリストのことを語り続けたために、ユダヤ教の宗教指導者たちと騒動になりました。パウロはローマ帝国の領土内で騒動を起こしたので、それの裁判を受けるためにローマに連行され、投獄されました。ですからパウロを監視している親衛隊をはじめ、パウロを訪ねてくる人々は投獄の理由を知ることで、イエス・キリストという人物に触れるのです。さらには、パウロと面会に来たクリスチャンとの会話を親衛隊は耳にしますから、これも間接的に福音を聞いていることになります。
②14節:「キリストを伝えた故に投獄された」と聞いたら、「キリストを語るのは止めよう/私はクリスチャンだと告白したくない」となっても不思議ではありません。しかし、「主にあって確信を与えられ」とあるように、投獄されてもなおキリストを告白するパウロの姿を通して、彼を知るクリスチャンに聖霊が働きました。それで彼らは「信じていることに間違いはない」という確信を持ち、勇気を与えられて一層キリストを伝えるようになりました。こんにち宣教困難地域や国で奮闘しているクリスチャンに私たちが勇気づけられるようなものです。
パウロはこの二つの事実を福音の前進と言います。つまり、どのような方法であるにしてもイエス・キリストが知られるようになることが福音の前進なのです。私たちは「教会の規模が大きくなった/何人救われた/イベントに何人来た」のように活動の内容とか成果で福音の前進を判断していないでしょうか。成果主義という世の中の価値観に生きているから当然かもしれません。でも信仰においては違います。イエス・キリストのことが周囲に地域に社会に知られるのが、福音の前進なのです。だから、ピリピのクリスチャンが福音に携わり続けてきたことをパウロは喜び感謝するのです。パウロの獄中生活が福音の前進につながったように、私たちの毎日の生活を通して周囲の人々がキリストを知る、これが福音の前進です。
Ⅱ.動機はどうであれ「キリストを知る人が広がること」をパウロは喜んだ(1:15-18)
ところがパウロの投獄に刺激されてキリストを伝える人たちは様々でした(15節)。ある人たちは善意すなわちパウロのためにという気持ちからキリストを伝えていました。その一方で、パウロの活躍をねたみ、対抗心からキリストを伝えている者もいました。相反する動機で福音が前進していたのです。
パウロは彼らの動機についてこう説明しています(16-17節)。善意を動機としている者たちは、キリストを伝えるというパウロの使命を理解していました。だから、投獄されて表だった活動のできないパウロのために「愛をもって」活動していました。彼らは神のためという気持ちもあったでしょうが、それよりも「パウロを助けたい/パウロの喜びになりたい」といった動機でキリストを伝えたのです。
そうではない者たちは党派心という純粋ではない動機、いわば不純な動機から活動していました。「党派心」とは自分の方が偉い、実力があるのように世間から高い評判を得るための気持を言います。その根底にあるのは使徒パウロに対するねたみです。彼らは自分たちの方がよりたくさんキリストを伝えることで、パウロのプライドを傷つけ、嫉妬の苦しみを与えるのをもくろんでいました。ただ、パウロの苦しみを狙った者たちには皮肉な結果になりました。現代もこういった動機を耳にします。「あの教会よりもたくさん人を集めたい/あの牧師よりも良い評判を得たい/とにかく人からほめられたい」こんな気持ちは誰にでもあるのです。
もし、このような動機を知ったらどうしますか。「そんな気持ちで奉仕しているのなら止めなさい。」となるでしょうか。パウロはこう言います(18節)。パウロは「動機が何だというのか。キリストが伝えられていればそれを喜ぶ。」と言うのです。パウロにとっての関心事はキリストが広まることです。ことばを加えるなら、「人として生まれ、十字架で死に、三日目によみがえって天に昇ったキリストを救い主と信じれば義と認められて永遠のいのちが与えられる」このことが知れ渡っているかどうかに関心があるのです。パウロは善意を動機としている者にも、ねたみや見せかけ(見栄)を動機をしている者にも「キリストを伝えている」と同じことばを使っています。ですから、ねたみを動機をしている者の活動も彼は認めているのです。一方でパウロは「キリストによらない救い」いわゆる異端を徹底的に糾弾し教会から排除していますから、もし、善意や愛と言った真実な動機だとしてもキリストでなければ喜びはしません。また別の手紙では、党派心やねたみ、見せかけは罪から来る悪であり、クリスチャンが退けなければならないものと命じています。この手紙にも「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく(2:3)」と勧めています。もし、ねたみを動機として神やキリストをおとしめたり、人を傷つけたり、教会に争いを引き起こしていたら黙ってはいないでしょう。キリストも弟子ではない者がキリストの名を使って悪霊を追い出しているのを放っておきました。実質的な被害や争いがなく、「キリストは救い主」という福音が広がって、神がほめたたえられるようになるのを喜ぶ、これがクリスチャンの寛容です。
こんにち私たちは他者や他教会がちゃんとキリストを伝えているのにそれを喜べず、かえって動機に注目し非難してしまうことはないでしょうか。動機がどうであれ、方法がどうであれ、「イエス・キリストは救い主です」という福音が人々に伝わっているかどうかに注目し、そうであれば共にキリストに仕えている者として喜びたいものです。
パウロはピリピのクリスチャンに向けてこう祈りました。「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。(1:11)」神が御子イエス・キリストを犠牲にして私たちを救ってくださった根元は人を愛する神の愛にあります。同時に人を通してキリストによる救いを広げ、神の栄光と賛美を地上に広げる目的もあります。「私を愛してくださる神の栄光と誉れが現されるために、私たち一人一人があらゆるところでキリストの香りを放っているかどうか心をくばりましょう。そして思いも寄らない方法でキリストが伝えられたときには、それをなさしてくださった神をほめたたえましょう。福音に携わり続ければ、キリストは広げられます。
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