今年の5月下旬、私たち夫婦は市役所で転入手続きをし、三笠市民となりました。その際、市から三笠高校生レストランの「市民応援券」をいただき、「まごころきっちん」での食事が半額となる住民になりました。利用規程によれば、複数回利用可能とのことですから、市民以外の方からすればうらやましい特権と言えるでしょう。実はクリスチャンも神の民であり、色々な特権を持っています。その中でも最もすばらしい特権は「天国への無料招待券」ですね。そこで今日は私たちが持っている天の特権について、聖書に聞きます。
Ⅰ.キリストに敵対する者の関心はこの世のことだけであり、彼らの結末は滅びである(3:17-19)
この手紙の中でパウロは、キリストに出会う前の人生、すなわち行いによって義を求めた人生を「ちりあくた」と言いました。なぜなら、キリストを信じる信仰によって熱望していた義を神から約束されたからです。それでパウロはキリストを目指してキリストに仕える者となりました。そしてパウロはキリストを信じる者とそうでない者のゴールの違いを明らかにします(17-18節)。
パウロは教会の人々に、自分だけではなくテモテのようなパウロを見ならっている者にも注目して、お手本にしなさいと勧めます。なぜなら、キリストの十字架を敵とする歩みになって欲しくないからです。「キリストの十字架を敵とする歩み」とは、キリストが救い主と知っていながら、それを否定し、天の御国も地上の平安もキリストでは受けられないと考えている人たちを指します。しかも、「多くの人が歩んでいる」とあるように、こっちの方が魅力的なのです。現代で言うならば、「神様が安心を与えますから」と言われても、「いやいや安心はお金でしょ」のようにです。ただしパウロが「今も涙ながらに言うのですが」と語るように、彼らの人生とその結末は悲惨なので、パウロは彼らをあわれんで涙しています。
パウロは「キリストの十字架を敵とする歩み」についてこのように言います(19節)。ここには3つの特徴があります。
①最後は滅ぶ:永遠の滅びに加えて、すべて消え去ってしまう空しさも含んでいます(伝道者1章)。
②欲望を神とする:神とは私たちが従う対象を言います。例えば、喜びも平安も満足も人生のすべてをお金に頼っている人はお金を神としています。キリストに敵対する者は、欲望の満たしを最優先にして生きているから、欲望を神としているのです。
③恥ずべきものが栄光:栄光とは何を誇らしく思うのか、何を価値としているのかを言います。財産を誇りに思う人もいるし、社会的な地位を誇りに思う人もいます。他にも血筋とか学歴などがあるでしょう。しかし、神からすればこういったものは永遠の命に結びつかない、価値のないものです。人は誇りに思うかもしれませんが神からすればそれを誇りにしていることこそが人として恥ずべき姿なのです。
このことゆえに、パウロは彼らを一言で言うなら「地上のことだけを考える者たち」と言います。つまり、この世に生きている多くの者たちは、この地上の物事だけに関心があり、いつも気にかけているのです。地上の物事は人に安心や喜びや満足を与えますが、それは一時的だから人はいつも気にかけます。テレビ番組やSNSを見れば明らかなように、世間はいつも流行を調べ追い求めています。しかし、伝道者の書にあるように、地上のすべては空、すなわちいくら追い求めても最後は空しさしか残りません。しかも、すべての人は歳と共に衰え、やがて死を迎えます。いくら財産を持っていても、いくら楽しみがあっても、それを味わえない時がやって来るのです。さらに、死んだ後はどうなるのかよく分からないから、老いや死に対して恐れや不安が生まれます。
それでパウロはこういった歩みをしないように、自分や弟子たちをお手本にしなさいと命じるのです。私たちもこの地上を歩んでいる者ですから、日常の物事を気に留めながら生活しています。でも大事なのは、「地上のこと」に永遠を求めたり、神として扱ったり、崇めたてまつらないことです。世の中には私たちの心を引きつける魅力的な物や出来事、人がたくさんありますが、私たちはそれらよりもはるかにすばらしい永遠のいのちとこの世での平安をすでに手にしています。
Ⅱ.私たちの関心は天であり、すでに天での特権が約束されている(3:20-21)
パウロは十字架に敵対する歩みに対して、キリストを信じる者のことを語ります(20節)。国籍は市民権を意味することばです。この時代、ピリピのようなローマ帝国の領土では、市民権といえばだれでもローマ市民権を思い浮かべます。ローマ市民権を持っている者には、投票、将校のような士官の権利、判決に対する控訴など大きな特権が与えられました。パウロは伝道旅行中にローマ市民権を使って、役人の勝手な罰を免れ、さらにローマでの裁判が認められました。ある千人隊長は高いお金を払ってまでも市民権を手に入れました。つまり、市民権を持つというのは、普通では手にできない特別な権利を持っていることを言うのです。
ではクリスチャンが持っている天での市民権とはどんな特権なのでしょうか。それが21節にあります。人は本来、卑しいからだ、すなわち哀れな存在です。生涯どんなによい行いをしたとしても、神からは絶対に栄誉をもらえなく、受けるのは神の怒り、永遠の滅びです。ところが天での市民権を持つ者は、天の御国でキリストと同じ栄光のからだ、すなわち神の祝福だけを受ける権利を持っています。同時に天では、常に神とともに住みますから、「神が見放した/神が守ってくれているかどうかわからない」という思いは全く生まれません。完全な平安です。また黙示録で「以前のものが過ぎ去った」とあるように、すべての辛さから完全に永遠に解放されるから、地上で経験するあらゆる痛み、悲しみ、苦悩が全くありません。さらには限界や、失敗や、失望がなく、無限の喜びに包まれます。キリストもこう言っています。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。(マルコ8:36)」この世でどれほ高価なものでさえも比べものにならないほど、天での特権は大きいのです。しかも、人はどうやっても絶対に手に入れることはできないのに、神は我が子キリストを犠牲にしてこの権利を受け取る道を開いてくださいました。その道こそがイエス・キリストを救い主と信じる信仰です。神はどれほど人を大切にしているのか、私たちには思いも及びません。
ただし、その特権を実際に味わうのはキリストが再び来られる時です。キリストは今、天の御国で私たちの住まいを準備しています。時至って、キリストは私たちを迎えに来ます。だから20節にあるように、パウロもピリピの人々も私たちも、刻一刻と近づいているそのときを期待して待っているのです。地上の人生は恐れと平安、悲しみと喜びの中で揺れ動いています。そして最後は死を迎えます。ただし死んだ後の行く先はどうなるのか人の知恵では明らかではないから恐れが生まれます。しかし、私たちクリスチャンの人生はそうではありません。日々、喜怒哀楽の中を生きていますけれども、やがて入る天での人生を期待しながら生きているのです。言い換えれば、天での市民権があるから、地上の人生を忍耐できるのです。
先ほどパウロは十字架に敵対する歩みを語りました。それに対応させると私たちの歩みはこのように言えるのです。
・私たちの地上の最後は、永遠の命の始まりです。
・私たちの神は、キリストを与えてくださった父・子・聖霊なる唯一まことの神です。
・私たちの栄光は天での特権です。
・私たちの関心は天の御国です。
私たちの人生にはことばでは言い表せないほどの喜びがあります。反対にいくら嘆いてもきりがないほどの悲しみもあります。平穏なときが続くこともあれば、災難ばかりのときもあります。地上のことだけに目を向けていると、私たちの心は揺れに揺れて、時には生きる気力を失います。けれどもキリストを信じる者は違います。やがて受け取る天でのすばらしい特権に目を留め、「この時は必ず終わり、永遠で完全な平安と喜びがある」という安心と希望を抱いて歩むのです。
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